水の旋律


閉ざした瞼が微かに震えた。襖の向こうの、ガラスの窓を叩く微かな音を捉えたからだ。
あちらでは多分、梅雨の季節を迎えたことだろう。その懐かしくも優しい旋律に、小さな児湯女は
可愛らしい欠伸をした。いつも傍にいるリンは、この湯屋の主が住まう最上階にいる。
魔女が最愛の息子の世話……本を読んで読み書きを教えることが、1ヶ月前からのリンの仕事。

「まあ、金が稼げるついでに気分転換にもなるしな、引き受けても苦じゃねえよ」

爽やかな笑いで湯婆婆の依頼を引き受けたと、最初はハクから聞いて驚きはしたものの
何となく納得できた自分。リンが傍にいない時間は、いつもハクの部屋で彼の手伝いを
しながら穏やかな休憩を得るのが日課だ。たまたま今日は、手伝うことも少なくて
あとの残り時間は休んでいなさいと勧められた。つまり、白い壁に背を預けるように
両膝を抱えてうたた寝しても、誰にも叱られないのだ。

父と母は、今頃何をしてるだろうか。
喧嘩しないで夫婦仲良く、お買い物を楽しんでいるだろうか?
親戚の家に泊まりに行っていると、そんな記憶を植え付けただけだから
心配いらないとハクは言うけれど……。

ぼんやりと考えながら、少しずつ強くなる雨音を聞く。
母は洗濯物が濡れるとか、干せないとか言って嫌うけれど。
父はドライブしに行く気分にならないなと残念がるけれど。
千尋は雨の音が大好きだった。どうしてなのかは彼女自身にもわからないが。

主のいない部屋の扉が不意にゆっくりと開かれた。
蝶番が微かに軋み、その気配を殺して入ってくる誰か。
誰と問う必要は千尋にはなかった。
自由に部屋に出入りできるのは、その主しか不可能なのだから。

寝たフリで彼を迎えることを決めて、千尋は眸を開かなかった。
相手は年若くとも立派な竜神であることを、幼い少女はすっかり忘れている。
雨音に重なる千尋の心音。ほんの僅かな変化でも、竜は簡単に見抜くというのに。

畳の上を歩く白い影が、部屋の奥で眠る千尋を眺めて微笑んだ。
慈愛に溢れた柔らかな白い笑顔。彼は両手に持っていた大きな青磁器の器に
山ほど盛られたお菓子に少しだけ視線を落とし、声なく笑う。
まるで年の離れた兄が幼い妹が自分を驚かせるために、
一生懸命に身を隠し…しかし身体の一部が覗いてバレてしまうような。
そんな可愛らしさが彼には愛しく思えたのだろう。
白い美貌が悪戯っぽい微笑みを浮かべたまま、ハクは器を整えられた
文机の上に置いて軽く思案する。
結論は、すぐに出た。流れるような動作で立ちあがると、彼は華奢な少女の前にしゃがんだ。

「こんなところで寝てしまっては風邪を引いてしまうよ?」

甘く優しく囁く声に反応はなかった。だが、彼女は気付いたようだった。
ハクの翡翠の眸が真っ直ぐ自分に注がれていることで、それがとてもくすぐったくて
肌がぞわぞわしてくる。少年のものにしては細い手がそっと、千尋の頬をなぞる。
柔らかな黒褐色の髪を撫ぜ、俯き加減の額に軽く額を重ねるようにしながら。

優しい水の香りは、ハクの香りだと千尋は知っているだろうか?
雨の音が心地よく感じるのは彼が属する水だからと、身体に流れるその血さえも
彼が傍にいるからより優しく感じると知っているのだろうか?

…まだ起きる気配はない。

仕方ない…と、ハクは心で楽しげに笑った。
このまま寝たフリをする彼女を眺めるのも和やかでよいが、外よりは温かいとはいえ
やはり冷えるのもまた現実。白い水干の襟口に手をかけて、雅な動作でそれを脱ぐ。
青い腹掛け姿になっても竜神故に寒さはないから、脱いだ水干をそのまま羽織らせてやる。
多分、リンなら言うだろう。布団でも肩掛でも調達して羽織らせりゃいいだろと。それをあえて
選ばないのは彼なりの悪戯心だからだ。
彼が笑う。声も出さずに目の前の千尋を眺めやりながら。いつまで保つかなというような、
そんな意地悪っぽい優しい眼差しを浮かべたままで。

……十秒、九秒…六秒……ニ秒………

千尋の瞼が、微かに動いた。痺れを切らして、うっすらと開こうとする。
薄く開かれた眸に、ハクの白い鎖骨が飛び込んできた。微かに感じる息遣いも、千尋は知った。
無意識に唇を尖らせたのは、父や母とはやはり異なる反応がつまらなかったからか。

「ハクのいじわる……」

優しいの逆の意味をぽつりとそう言えば。

「千尋がいてくれると、私が安心するからね」

端麗な唇に笑み浮かべてハクが、静かに囁き返した。
優しい優しい雨の音。何となく拗ねて、千尋はゆっくりと身じろいだ。
そんな千尋の動作を予測してハクは重ねてた額を離す。案の定、千尋のその白い両腕が伸びて
ハクの頬を軽く挟んだ。叱ることもせずされるがままに彼女の仕草を見守る様子は、
本当に大事にする者の微笑み。

「なんでタヌキしてると知ってて、放っておくのかなぁ…」

「…私は一言もそなたがタヌキをしていたとか、言葉にしていないよ?」

「……あ…墓穴掘っちゃった…ってそうじゃなくって。ハク、水干脱いだら寒いから着てよ」

「私は寒くはないよ、そなたが傍にいるから温かい」

「うそつき、肌は冷たいよ」

「真だよ、そなたが温かいから私は満足しているんだ」

「……ハク、頑固さんなんだから…」

「千尋が照れ屋さんだから、私は頑固に見えるんだよ」

「…照れ屋?」

「そう、照れ屋」

頑固とも言えるし、照れ屋とも言える。聞く側がいれば、この湯屋の帳簿管理人が
和やかな空気をまといつつ、たった一人の少女と戯れる会話にさぞや驚くことだろう。
なんだか誤魔化されてる気分で、ぷくりと彼女は不貞腐れる。
その何気ない愛らしさに美麗なる竜の少年は、優しい表情で話題を逸らす。

「なら、今から茶を煎れよう。温かい茶と美味しいお菓子を食べたら、水干は着るよ」

「…なんで交換条件みたいなこと言うのかなぁ…」

「不満?」

「ううん、嬉しいけどあまり嬉しくない。ハクが風邪引いちゃうもん」

何気なく本音を呟いたと、千尋は多分気付くまい。
くすぐったげにハクは私は滅多に身体を壊さないよと、心で呟いて立った。

「少し待っておいで、今、茶を用意しよう。今日の茶請けはリンからの差し入れだよ」

いつもは自分が煎れるのだが、今日は素直に甘えとこう。
なぜだか上機嫌なハクを膝を抱えたまま見つめて千尋はそう思った。





しとしと降る雨の音。
優しい優しい水の旋律。

竜が用意してくれたお茶は相変わらず上品で甘い緑茶。
今日のお菓子は、栗や南瓜の餡が詰まった月餅。
二人で和やかにお菓子を頬張るまで、千尋は自分を抱き締めるような白い水干に
包まれて、ぼんやりと思った。

どうしてハクは私に甘いんだろう?と

幼いから千尋にはわからない。
大人の湯女達だったら、色欲という目で腹掛け姿のハクに悩殺されるだろうが
彼が最も大事にする本人は、まだまだ無邪気な子供だから。

「ハク、ハクの肌も大福みたいに甘そうだね。あとで食べていい? ぱくって、一口」

お菓子を食べる最中、その大胆な言葉に、さらりとハクは笑顔でいいよと優しく返す。
ほんの一瞬、眸に切なそうな、苦しそうな甘美な痛みと熱を孕んだが…。
それも愛しさ故に、彼は柔らかく耐えていた。

優しい雨音が嵐に化すのはまだまだ先。
何しろ、まだ彼女は幼い……。

「今日は雨だから、明日は海ができるんだね」

無邪気で愛らしい千尋に、ハクは短くそうだねと返した。
千尋の温もりを残す水干をまとい、白い笑顔の下で優しい痛みを味わいながら。
幼子故の残酷さを心のどこかで甘苦さを感じつつ…。

ハク、一口頂戴とにっこりと笑う千尋に
竜は緩やかな動作で肩口を露にして、おいでと少女を手招いた。
素直に頷き、千尋が擦寄り…やがて可愛らしい唇が、そっと竜の少年に歯をたてた。
ただそれだけで逆流するような、甘い熱に彼は恍惚の眸をゆっくりと伏せる。

愛しい人の児の、血潮の音。
紅い水の旋律を彼は静かに聞き入った――――。


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梓月さまにいただいてしまった作品です!
ひょんなことから、梓月さまとプレゼント交換♪するという幸運にめぐまれまして〜
あううう〜〜〜素敵すぎです〜〜〜(>▽<)
流麗な梓月さまの文章にはいつもながらうっとりしてしまいます。

雨音の中にしっぽりと包まれた二人が過ごす、「甘い」ひととき。。。
ええ、もう、千尋にかかったら、ハクは大福餅ですとも。お菓子ですとも。食べちゃうんですったら♪
でもって、ハクは食べられちゃって幸せなんですってば♪
ああもう、こういうひとこまって、ツボでツボでvvvvv
個人的には水干を脱いだハクさまに悩殺されております、管理人です(=^^=)
ラストシーンが映像となって目の前に・・・ああ、幸せで眩暈が・・・・

梓月さま、素晴らしい作品をありがとうございました!!!!

なお、梓月さまのサイト『背徳草子』へはリンク部屋から行けますので、ぜひ!



この壁紙は、「森と湖亭」さまよりいただきました。


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