千代紙揃
くすくす、くす、 そんな笑い声を聞いたような気がして、少女は振り返った。 窓から差し込む午後遅い日差しの中、うすく舞う埃がちらちらと白く光っている。 すっかり日に焼けた飴色の畳のむこうには、煤けた押入れの襖があるきりだ。 …ぱささ。かさり。 耳を済ませていなければ、到底聞こえないだろう密やかな音は、押入れの中からしているようだった。 もう少し大きな子であれば、その音は鼠か何かだと嫌悪感を持ったかもしれない。 あるいは、もっと何か、わけのわからぬものの恐怖を感じて逃げ出すか。 しかし、少女はそのどちらを選ぶにも、まだ、幼すぎた。 「だぁれ?」 幼児特有の、舌足らずな口調で問いかけると、音はぱたりと止んだ。 怖いもの知らずのふっくりした桃色の足が、とてとてと襖に近寄ると、その薄い紙の扉の向こうに向かって少女は再び声をかけた。 「だぁれ?」 ……こと。 かくれんぼ。覚えたばかりの、そんな言葉が少女の頭に浮かんだ。 古くて広いこの家で、「ばぁば」と一緒に遊んだのは昨日のこと。 もぅーいーかぁい。まぁーーだだよぅ。 絶え間なく繰り返す響きが、幼い心を高揚させた。 もぅーいーかぁい。まぁーーだだよぅ。 ごく狭い室内の、たった二人のかくれんぼ。 鬼になった「ばぁば」はわざと少女の隠れているそばで、見つけられない振りをする。 幼い少女は、そのスリルと緊張感に堪えられず、くつくつと笑い声を上げてしまう。 一昨日までは、「ばぁば」の家の近くならどこでも遊びにゆけたのに、昨日突然、母親は今日は外に遊びに行ってはいけません、と怖い顔で言った。 泣きながらだだを捏ねる少女をなんとかなだめようと、「ばぁば」は昨日一日、自分の知る限りの様々な昔の遊びを教えてくれたのだった。 長い毛糸を結んだあやとり、中に入った小豆の重みが心地よいお手玉、素朴な草笛。 でも、幼い少女に遊べるものは、案外に限られていて。 「…もぉ、いいかぁーーい?」 襖に向かって、たどたどしく小さな声で呼んでみる。 …もぅいいよー。 そんな囁きが聞こえたような気がして、少女の顔がぱっと輝いた。 今日は母親は朝から出かけており、「ばぁば」はお昼寝。一人では外にも行くことが出来ず、ずっとつまらなかったのだ。幼いこころは、思いがけない遊び相手が、何者かといぶかしむこともない。 「みぃつけたっ!」 そう言って、小さな手が襖を勢い良く開け放つと、待っていたかのように、そこから様々な色や模様が溢れ出してきた。 紅、蘇芳、紫、浅黄、萌黄に山吹。茜、鶯、紫紺に鳥の子。 鮮やかな色彩の奔流は、瞬く間に少女の視界を埋め尽くしていく。 *** ねぇ? 綺麗でしょう。 いろんな模様があるでしょう。 青海波。これは海にうねる波。 麻の葉は、麻っていう草の葉っぱのことよ。 これは鹿の子。鹿の赤ちゃんの背中の模様から名をとったの。 市松、矢絣、格子、七宝繋ぎ。亀甲花菱、さめ小紋。 手触りも楽しい絞りに縮緬。 目にもきらきら鮮やかな、透かしに箔入り。 そら、こちらは兎、こちらには手まり。一面の桜花に、飛び行く鶴の群れ。 ほらほら、そちらには咲き乱れる牡丹に蝶が舞っているわ。 扇子に熨斗、御所車、みんな素敵ないろでしょう? 花嫁人形の襦袢は矢絣よ。幸せになれるようにね。 では、うちかけは何がよいかしら? 白無垢ならば、この縮緬を。でも、せっかく、これほど見事な綾錦があるのですもの。こちらの友禅はどうかしら? 帯は金襴緞子。この金と黒の小紋、これがいい。 鹿の子はどうしましょう。困ったわ。お召しは決まってしまったし。 だって歌にもあるでしょう? 涙で鹿の子の赤い紅滲む…って。 ああ、日本髪に刺すかんざし。いいわね。涙で滲むような場所ではないけれど、そうしましょう。 …金襴緞子の帯締めながら、花嫁御寮はなぜ泣くのだろ。 さあ、素敵な花嫁御寮の出来上がり。 旦那さまのお迎えはまだかしら。 花嫁行列、お付は何人? 高い幟に玉の輿。 昔は、お手伝いの人達の担ぐ輿に乗って、たったひとり、婚家への道行きをしたものなのよ。 水田のなかの一本道を、もう二度と生まれ育った家へは帰れない、そんな思いに、ほろほろと零れる涙を袖で拭って。俯きながら。 …矢絣はね、昔は花嫁御寮の縁起物だったの。 矢は、放たれたまま戻っては来ないでしょう? 嫁いで後、二度と戻ってくることの無いように…。 泣いているのね? 幼いあなたもいつか母のもとを離れ、二度と帰らぬところへ嫁ぐのかしら? あなたが行くのは、水の底? あなたが行くのは、雲の上? 留まることを知らぬ流れを司る、いと気高き竜神様の花嫁御寮。 たなびく霞の薄衣、浮かぶ虹もて帯と為し。 ひかり輝く白雲に、夕間暮れの紅、宵の紫、天上の襲は色目も艶やかに。 流れに浮かぶ泡沫は珠となりて髪を飾り、珊瑚の紅で頬を彩り。 星の光は瞳に宿り、また月光はその唇に宿りて。 これなるは、まこと神の嫁。 汚すまいぞ、乱すまいぞ。 嫁取りじゃ、嫁取りじゃ、竜神さまの嫁取りじゃ。 …めでたやのう。うれしやのう。 白き光鱗輝かせ、天をわたって迎えに参る。 恐れ多くも畏くも、川を治むる主さまの、竜神様の嫁取りじゃ。 …めでたやのう。うれしやのう。 …めでたやのう。うれしやのう。 *** 「千尋?千尋?二階で何をしているの?」 ゆっくりと紫色の薄闇が部屋に下りてくる頃、母親は古い階段をぎしぎし言わせて二階へあがってくると、目の前の光景に嘆息した。 部屋中にはらはらと散りばめられた、色とりどりの千代紙の中、半ば埋もれるようにして、まだ幼い彼女の娘は眠っていた。 そばには、開いたままの押入れと、からのまま転がった、小さな手箱。 退屈して、拗ねて勝手にこんな真似をして、と母親は少し柳眉を逆立てたが、眠る少女の頬に流れる涙を見て、途端に胸をつかれる。 …ちょっと、きつく言い過ぎたかしら…。 しかし、一昨日、この娘は危うく死ぬところだったのだ。 近くの川原で遊んでいたとき、少し目を離したすきに流れに落ちた。 …幸い、水流の加減か、すぐ岸に打ち寄せられて大事には至らなかったが。 まだ幼い娘から目を離したこちらの不注意とはいえ、あの時の心臓が凍りつくような恐怖は、もう二度と味わいたくなかった。 明日は…そう、一緒にまた外へ出てみましょう。 あまり水場には行かないようにして、しっかり目を離さずにいれば…きっと大丈夫。 二度と、可愛い娘を川に浚わせたりしないわ。 「千尋…お布団で、寝ましょうね」 深く眠った少女が、母親の胸に抱き上げられたとき、その手からはらりと何かが落ちた。 それが何か気づかないまま、母親は幼子を優しく抱き、階段を下りてゆく。 竜神様の嫁取りじゃ… どこかから、わらべうたが聞こえたような気がして、ふと、母親は階段の途中で立ち止まった。 ぎしぎしと軋む床板が静まると、あたりはしんとして、いくら耳を澄ましても何も聞こえるはずもなく。 …気のせいね… 再び、床板を軋ませて降りていく足音が徐々に遠ざかり、いつしか止んで。 部屋に残されたのは、無造作に散らばる絢爛とした色彩と、そして。 少女の涙で滲んだ、花嫁人形。 いつもお世話になっています『ぐりーんふぃーるど』の雀さまが、なんと!
ウチの10万ヒットのお祝いにと小説を書き下ろしてくださいました!!! うわーうわーーうわーーーーー こ、こんなに嬉しいこと、あっていいんでしょうか〜〜〜〜<舞い上がり!! 自分では記念イベントひとつできなかったというのにーー(><) ほんとうにほんとうに、どこまでも「心遣いのお方」でいらっしゃる雀さま。。。。 作品も、ストーリーといい、小物といい、わたしの好みのツボをがっちりと押さえて仕上げてくださって・・・・ 和情緒あふれる素材をふんだんにちりばめて、 そのひとつひとつに、あでやかでそれでいて繊細な彩りをほどこされる雀さまの筆力。 そして、本編の「川に落ちた」エピソードを「嫁入り」にからませた切り口で あざやかにひとつの物語につむぎ上げられた独創的な着想。 もう、1行1行かみしめるように拝読させていただきました。 ああわたしってば、ホントに幸せ者です(うる) 雀さま、ほんとうにありがとうございました!! 雀さまのサイト『ぐりーんふぃーるど』へは、リンク部屋から行けますので、ぜひ♪ ★さらにー!お世話になってます『CHERRY』の表 沙樹さまより、この素敵小説のイメージイラストをいただきました!!→こちらからどうぞ!! |