ボートにのって (1) 







-----------ハクって、すごいね。







人間の少女のそんな他愛のないひとことに、心ひそかに傷つくことがある。






私は好きで龍神になど、
生まれてきたわけではない・・・。






時折、そんなふうにくちびるを噛み締めて。
できれば自分も、愛しい少女と同じ『にんげん』として生を受けたかったのに、と。

かすかに、遠い目をしてしまう癖があることを。


彼女はたぶん、知らないだろう。





* * * * * * * * *








「おやゆびひめ、って知ってる?」


そう、あのときも。
千尋が口にしたのは、棘も毒もないほんの小さな言葉だった。







* * * * * * * * * *





    ------けほっ。こんこん、こほん。



「ちょっと、セン。変な咳しないでよぉ? 気色わるいじゃないさ」

「すみません、お姐さん。ただの風邪です」

「無理しないで明日は休みなよ。風邪は万病の元って言うしねぇ」

「いえ、・・・」



千尋は大部屋のいちばん隅に敷いた煎餅布団に頭を沈めて、少しでも咳の音が外に漏れないよう、ちぢこまっていた。
その姿は、ほとんど亀というかカタツムリというかアンモナイトというかダンゴムシというか。

枕元のリンが、氷枕でもつくってやろうと立ち上がりかけた時。





「どうした? やけに騒がしいが」







いつものことながら(?)足音もなく・・・・煙でも湧いたかのようにそこに立っている少年帳場頭の姿。
部屋中にわいわいと盛り上がっていた噂話や猥談、上役の悪口などなどは、すぅぅううぅぅうっと凍りついて宙に浮く。




「・・・センがちょっと具合悪くて。あーでも大丈夫っす。オレたちで看ますからー」
とりあえず、リンが受け答えを買って出るが。


「夏風邪か? ・・・・どれ」




   あーーこのっ!ずかずか女部屋に入ってくるんじゃねぇ。
   とっとと帰れこの助平龍。




思いっきり斜めに構えた狐娘の視線などはなから無視。
ハクは、お白粉臭い女連中の部屋へすたすたと足を踏み入れると、千尋の額に手のひらをあてがい様子を伺う。




「熱があるな」

「平気・・です。寝てれば治るから・・・」

「釜爺のところには?」

「さっき、お薬もらってきて・・・あ? ああああのっっっ?!?!?」



最後まで言い終わらないうちに、やせっぽちの人間の子は、まるで米俵のようにひょいっと龍の少年の右肩に担ぎ上げられてしまった。

うつぶせの体勢、ちょうどホチキスのように腹のところで身体を二つ折りにされている状態で。
ハクの顔の横に桃色水干の腰が来て、その上半身は彼の背にぶらりと垂れ。
下半身は白い水干の胸元あたり、少年の右腕一本で無造作に固定されている格好。

腹部が圧迫されて決して楽な姿勢とは言えないのだが、暴れると頭から床にずり落ちてしまいそうで、千尋は目をつぶって白い水干の背布をにぎりしめた。



「ちょっと、ハク様っ!! 手荒な事しないでくださいよっ! センは病人なんですからっ!!」

「別の場所で休ませる」

「は?」

「隔離する、と言っているんだ」

「・・・か、・・・『隔離』・・・っ?」



帳場頭の少年は眉ひとつ動かさず、さらさらと言ってのける。



「人間の病気というものはたちが悪いのだ」

「へ?」

「他の者に伝染るとやっかいであろうが」

「そ、そりゃ・・」

「ましてやお客様にうつしでもしたら一大事」

「んな、大げさな」

「うちは人気商売なのだぞ。変な噂でも立ったらどうする。そなたが責任を取れるとでもいうのか?」

「ええええっ!?」

「こういうことはとにかく初期治療が肝心」

「はぁ」

「こじらせでもして、何日も欠勤されるとそれはそれで湯屋の損害なのだ」

「ちょ、ちょっと、ハク様」

「何だ? 言いたいことがあるなら聞くぞ」

「・・・・・・」

「ないのだな」



そもそもいったいどこに『隔離』するのさっ、と突っ込みたいのは山々なのだが、まさに立て板にざぶざぶざぶざぶ水状態で、取り付く島もない。





   職権乱用、依怙贔屓。公私混同、悪事千里、横行覇道、幼女拉致に婦女暴・・・





めくるめく不穏な四字熟語を山ほどしょって、いまにも食いつかんばかりの狐娘を。



「ばか。やめときなよ」
大湯女たちが、意味ありげな含み笑いで止めた。


「どーぞどーぞ、ハク様。センの咳がうるさくって困ってたんですよ、あたしらも」
「そうそう、どこへなりと、お好きなトコへ」



うふうふ目配せしあっている女たちをちら、と横目で睨み。
帳場頭の少年はさっさと部屋をあとにする。



「なっ!姐さん方っ! なにするんですかっ!」
「センをご覧な。まんざらでもないんだからさ」



羽交い絞めにする大湯女達の体の間から顔だけ出して、千尋に目をやると。
ちっこい人間の子は帳場頭の肩にぶらんと乗せられたなり、大人しくされるがままになっている。

まんざらでもないというよりは、自分たちのやりとりに口を挟む元気もない、というところじゃないのか、と思うのだが。






   まあ、騒がしい大部屋にいるよりは、センも楽か。






すたすたとエレベーターへ向かう帳場頭の後姿を半眼で見送りながら、リンは不承不承矛を収めた。







* * * * * * * * * *






エレベーターは吹き抜けの建物の中を音もなく上昇する。
後片付けされ、人気のなくなった湯殿が、眼下でどんどん小さくなってゆく。
最後の点検に回っている番台蛙が手に持つ灯りが、薄暗い残り湯気の中でほやめいて。
はぐれ蛍のような軌跡を引く。







   い、色気もムードもない運ばれ方だなぁ・・・





少年の肩に荷物よろしく担ぎ上げられたまま、千尋はぼんやり考える。
その姿は、調理場の蛙たちが、大ぶりな食材を担いで運ぶ時のそれとたいして変わらない。



贅沢を言えた立場ではないが、少々情けない。
いいもんいいもん、どうせわたしマグロだもんイノシシだもんホロホロドリだもんーと、拗ねてみたりする人間の子。
胃のあたりが圧迫されて、ちょっと辛い。


が、それよりも、彼が一言も口をきいてくれないのがたまらない。
この重いというか、固い空気に耐え切れなくなって、千尋は小さく声をかけてみた。




「あ、あのね、ハク」


が。


「セン。」

冷ややかな口調にぴしゃりと遮られ、千尋はあわてて言葉を足す。



「・・・さま」




そうだ、ここはまだ仕事場なんだしと、とろとろ回りの悪い頭で分別し。
そして千尋は、またぐってりと脱力してしまった。


エレベーターを乗り換え、さらに上階へ進む。
番台蛙の手持ち提灯の灯も、いつの間にか見えなくなった。


重力を押しのけて浮上する感覚が気持ち悪い。
上へ上へと進んでいるはずなのに、奈落の底にぬおぅんと押し沈められていくような不快な空気圧に押さえつけられて、頭が痛い。






実際にはほんのわずかな時間だろうが。
千尋にとっては長い長い時間が過ぎて、やっと。


エレベーターを降り、人目がとだえたところで、ハクは千尋を肩からするりと降ろした。
床に片膝をつき、なめらかな仕草で少女を横抱きに抱えなおす。



「すまなかったね、乱暴な運び方をして。腹が苦しかったろう?」






    う、うわ?! いきなり、お姫様だっこ???




            tomoさま画





突然、扱いがマグロから深窓のヒロインに格上げされ、そのまま間近に迫った碧色の瞳が自分を包み込む。
吐息が睫毛にかかるほどの至近距離でささやきかけられる言葉は心底やわらかくて、
・・・千尋はかなり動揺してしまう。

ハクの態度の急変が嬉しいような困るような。


困るような嬉しいような。嬉しいような嬉しいような。嬉しいような嬉しいような嬉しいような。でも、ただその。慣れてないし。こういうの。



「熱が高いね」





    だ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜、だからっっ!!!





千尋の身体を支えるために両手がふさがっていたハクは、自らの額を彼女の額にぴたとあてて熱の具合を確かめていた。
瞳を閉じた綺麗な顔の、その微妙な角度は、一つ間違えば映画でよく見るキスシーンのようで。






    こういうのは、慣れて、ないんだってば〜〜〜〜〜〜!!!!!






おかげで少女の体温は、一気に2度も3度も上昇してしまう。






ハクは千尋を両腕に抱えたまま、すいと立ち上がると、足取りひとつ乱れることなく掃除の行き届いた廊下を歩いてゆく。

廊下の行き止まりは、千尋もよく知っているハクの部屋。
行き先に不満はないけれど。




「お、重く、ない・・?」




おそるおそる少女の口から出たことばは、年頃の娘としてはごく当然のもの。



「いや? 別に」



透明な微笑とともに、さらりと返されたことば。
それに少しだけほっとしつつ、千尋はつらつら考える。


この、一見細身で、自分とたいして年端も変わらないように見える少年のどこにこんな力があるのだろうと。

そういえば、さっき軽々と自分を担いでいた肩も。
決して肉厚な筋骨隆々としたものではないのに。

むしろ、女性的とも中性的ともいえる曲線を残した、優雅な体つきと身のこなし。
-----本人はそんなふうに称されるのは嫌だろうけれど。

それでも、こんなときには遠慮なく甘えられて、ちょっと嬉しいなあと思い、千尋は素直にそれを言葉にする。





「ハクって、すごく力持ちだよね」














ところが。




彼は、ぴくり、と形のよい眉を寄せた。















「・・・・・どういう意味?」

「え? ええと、やっぱり龍神さまだからかな? わたしの同級生なんかとはぜんぜん違うなぁって」







ハクは。



ぴたりと足を止めてしまった。








そして。
せっかくほぐれた表情(かお)をまた固くして。





何も、言わなくなってしまった。














    えっ?えっ? わたし、何か気に障ること、言った?








「・・・・ハク?」


千尋はわけがわからずに、おろおろとハクの顔を覗き込む。



すると、彼は硬い視線を中空にとどめたまま、小さくくちびるを動かした。






「どこか変だろうか」

「え?」

「別に、特殊な能力(ちから)を使っているわけではないよ」

「う、うん」

「魔法を使っているのでもない」

「・・・わかってるけど・・・??」




立ち止まってしまった彼が何にこだわっているのか、つかめない。
千尋はほとほと困り果ててしまった。

もっと、わかりやすく言ってもらわないと。
自分はそんなに頭がいいわけでも、察しがよいわけでもない。

何か言ってはいけないことでも口にしてしまったのか、考えようと思うのだけれど。
熱で頭がぼぉっとして、うまく働かない。





「そなたを抱き上げるくらい・・・・ごく普通の人間の男でも、・・・できることだろう?」




うん、できると思うよ、・・・と人間の少女が答えると。
龍の少年は、ほっとしたように、眉を緩めた。




そしてやっと、腕の中の少女に視線を戻して。



彼女が涙ぐんでいるのに、気がついた。





「あっ、ああ、ごめんよ。なんでもない。なんでもないから、泣かないで。ね?千尋」

「〜〜〜〜〜〜〜」

「私の部屋で、ゆっくりお休み。ずっとついていてあげるから」

「・・・ずっと?」

「うん、ずっと」



高熱と混乱でぐじぐじの涙目になっている少女を懸命になだめつつ、龍の少年は廊下を急いだ。


♪この壁紙はシシイさまよりいただきました♪