ボートにのって (2) 







「ちょっとだけ、手を放してくれないかな?」



泣きやみはしたものの、まだ腫れぼったいまぶたの少女。
部屋に入り、一旦畳の上に降ろそうと思ったのだが、千尋はうじうじと自分の水干の胸元を握り締めて放そうとしないので、ハクは立て膝の姿勢で彼女を抱えたまま苦笑する。


「布団を敷くから。横になった方がいい」



なんなれば。
指先ひとつ動かすことなく寝具をととのえることはたやすい。

自分が軽くまばたきひとつすれば、押入れはすいと開くし、中から夜具一式はふわと空中を泳ぐように移動して、少女を休ませるための寝床の用意は取り揃う。



が。
千尋の目の前で、むやみに『そういうこと』をしたくなかった。



できることなら、言われたくはない。









    かみさまって、すごいね、とか。


        やっぱり、わたしたちとは違うね、・・・・とか。









千尋が何の悪気もなく、むしろ賞賛の気持ちでそういうことを言うのはわかるし。

自分は龍で。 千尋は人間。
それは動かしようもない、事実。








でも。













あいかわらず自分の衣から手を放そうとしない千尋に、ハクはできるだけ穏やかに声をかけた。


「困ったね。このままでは、灯かりも入れられないよ。」

「・・・・・。」

「ね? 今夜は月もないし、千尋は暗いのが嫌いなはずではなかった?」



すると、そのあやすようなその口調がかえって気に障ったのか、ついさっきまでべそをかいていた少女は、急にぷぅううっとふくれた。




「そんな子供じゃないもん」

「おや」

その表情の変化が面白くて、ハクはつい、くすりと小さな笑いを漏らしてしまう。





「あーーひどい! なんでそこで笑うの!」

「ごめんごめん。・・・・・あ、ちょっとじっとして。」

「?」


少年はふとあることに気づき、膝に座らせた格好の千尋の背肩を左腕で支えたまま、右手を千尋の体からはなして顔に近づける。


「睫毛が」

「まつげ?」

「泣いたときに抜けたんだね。目のふちにくっついているよ」



それはとても細いものだったけれども。
何かの拍子に目の中に入りでもしたら、ちくちくと痛いだろうと思って。



「まばたきしないで。取ってあげるから」




爪が目にあたらないよう、慎重に。
人差し指の腹を使ってそっとそっと、それを取り除いている間。

少女は言われたとおりぱっちりと目を見開いて、彼の腕の中でじっとしていた。



「ほら、もう大丈夫」



千尋はまだ、身動きひとつしない。




「千尋?」




なんだろう、間近でこんなにじぃっと見つめられるのは少々気恥ずかしいな、などと龍の子が思ったとき。







「ハクは、見えるんだね。」


少女は、そう、言った。




「わたしのまつげまで。こんなに暗いのに」









少年は、はっとした。










「やっぱり灯かりつけて? わたしもハクが見えるほうがいい」

「・・・・・・」

「まつげとってくれて、ありがと」

「・・・・・・」

「ハク?」

「・・・あ、・・・・うん」




千尋が、白い水干を握り締めていた手を放すと。
ややあって、彼女は静かに畳の上に降ろされた。






「珍しい蝋燭(ろうそく)が手に入ったんだ。灯けてみようか」

「珍しいろうそく?」

「うん。火を灯すとよい香りがするんだそうだ。気持ちが落ち着くとか」

「わあ! アロマキャンドルだね!?」

「ふうん。そんな名前なの」





いつもどおりの、優しい声音。

-----思い過ごしかな、と千尋は思った。
自分を抱え降ろした時のハクの指が、かすかに震えていたように感じたのは。









暗くてよくわからないが、ハクは立ち上がり、向こうの方でごそごそ物探しのようなことをしはじめたらしい。

そして、何やら見つけて取り出すと、今度は、寝室から続きの簡単な作り付けの炊事場へ立った気配がした。



そうして、闇色の向こうから。





きゅっ。






蛇口をひねる音と。






とぷとぷとぷ。






器か何かに、水を溜める音がした。



それから、しゃっ、とマッチを擦る音が聞こえて。







しゅぼぉぉお・・・・・・っ。






一瞬、空間は、強烈なオレンジ色に押されて、ほふっと膨らんだ。






たいした焔(ほのお)ではなかったが、暗さに慣らされようとしていた人間の少女の目に、突然のそれは眩しすぎ、千尋は思わずきゃあと声を上げてしまった。



「あ、ごめん、びっくりした? ちょっと待ってて」



点火の瞬間の強い炎色は、少年の声が終わるより先に、しゅうんとしぼみ。
いきおい弱まった火は蝋燭にうつされて、ほどよい大きさにまるく安定する。

ぽぉ・・・・・と部屋の隅が照らされて、亜麻色の逆光の中に、白い水干の背中が浮かび上がった。



「明るすぎる?」

千尋を振り返って、声をかけるハク。



「ううん」


千尋は目を凝らしたが、ちょうど炎の影に包まれる位置にいる少年の表情はよくわからない。



そのともし火は、ころんとした形の可愛らしい西洋蝋燭で、水を張った透明なガラスの鉢に浮かべられていた。


それを手に、ほつほつと彼は近付いてくる。


少年が歩みを進めるたびに、その水面がたおたお揺れて。
さほど広くはない空間に投げられる光の波のゆらめきが、水のかたちの影あとを壁や床にいくつも残しては消えてゆく。



                         tomoさま画


「綺麗・・・・」



そして、ほのおのゆらぎとともに、そこはかとなく漂う、不思議な香り。
風邪のために中途半端に鋭くなってしまっていた千尋の嗅覚を刺激しすぎることなく、それはあたりに甘くたゆたった。


少年との距離が縮まるにつれて、その顔もだんだんはっきりと見えてくる。


彼の浮かべていたほほえみはやっぱり、優しかったけれど。

どことなく、いつもと違うように見えたのは・・・・・ろうそくの灯に合わせてハクの顔にちらちらと影がゆれるせいにちがいないと、千尋は思おうとした。




♪この壁紙はシシイさまよりいただきました♪