・・・・・助けてくれると、思ったのに・・・・!!
あの時の、千尋の眼は、そう言っていた。 堂々と、・・・・「王子様」のように凛々しく、窮地の少女を救ってやればよかったのかもしれない。 すがりついてきた細い腕を、皆の面前で振り払った時の。 驚きと絶望に凍りついたような少女の瞳が、瞼から消えない。 帳簿をめくる龍の少年の手が、ふと止まった。 ・・・・・間違えている・・・・ここもだ。 心ここにあらず、といった調子で仕事をしていたのが、帳面にありありと現れている。 ため息をつきつつ、訂正印を押して手直ししていると。 「お呼びですかー? こっちはまだ忙しいんですけどっ。」 つっけんどんな若い女の声が、障子の向こうから。 「ああ、リン。終業間際の慌ただしい時に、悪いな。」 ハクは立ち上がって、自分で障子を開けた。 そこに、一応形だけはきちんと控えている、リン。 ・・・だが、その小奇麗な表情(かお)は。はすかいに少年上司を睨みつけていて。 「楓の間の雷神様は、落ち着かれたか?」 「今のとこ、白拍子のお姐さまがたが上手くあしらってくれてますが」 「そうか。・・・・・センは?」 「さあ?」 リンはぷい、と横を向く。 教えてやるもんか。惚れた女泣かせた後始末くらい、自分でしろ。 愛想一つない態度も無理ないことと眺めながら、ハクは金刺繍の着物を取り出した。 「お預りした、雷神さまのご衣裳だ。私が直接届けに行くから、これを入れる何か気の利いた箱か篭を下からもらってきて欲しい。」 ・・・そんなコト、別にオレに言いつけなくったって、自分で取りに行けばいいじゃんか、と言いたいのは山々のリンだが。 ちら、とその着物を見ると、あのタチの悪い客が、センが汚した、どうしてくれる、といってぎゃあぎゃあ喚(わめ)き散らしてていたのが嘘のように綺麗さっぱり、新品のようになって畳まれている。 こういう時、魔法って便利なモンだね、などと思いつつ。 承知しましたー、としぶしぶ下がって行こうとするリンを。 ハクは、もう一度、呼び止めた。 「すまないが。もうひとつ、頼まれてくれ」 胡散(うさん)臭げに振り向く小湯女に。 「センに。後ほどここか、わたしの部屋へ来るよう伝えてくれないか」 「・・・・どっちにですか。」 中途半端な言い方、するんじゃねぇ。 「では、ここへ」 「帳場に、、、じゃ、『仕事』ですね?」 ちろりと上目遣いで、確認を取る狐娘。 自分の部屋へ来い、なんて個人的なコトだったら、絶対に伝えてなんかやるもんか、と。 「もちろんだ」 「伝えますけどぉ。来ないかもしれませんよ。泣いてるし」 龍神の眉が、かすかに曇る。 が。それは、一瞬のこと。 「来てもらわねば、困る。湯婆婆さまが相当なお怒りなのだ。始末書のひとつも書いてもらわなければ」 「し、始末書っ?! ハク様だって、見てたじゃねえかッ!!! センは、、、センは、『被害者』だ! 始末書だぁ?? いったい、どういう了見で、、、!」 とたん、熱くなって喰ってかかる狐娘。 に、冴えた声音のまま、答える帳場頭。 「形はきちんと整えねば。この先、センも働きにくかろう」 ぎり、とリンは奥歯を噛み締めた。 ・・・・・筋は、通っている。 センとこの小憎らしい龍のガキは、いつの間にか油屋公認みたいになっちまってるけど。 センがそれに甘えて、ごたごたをうやむやにした、みたいな影口叩かれてもかえって可哀想だ。 まだまだ、人間が嫌いな従業員も結構いることだし。 だがな。 女として、あの場のやり過ごし方は、どう考えたって、納得いかねぇ。 ああ、オレは納得いかねえとも。 かわいそうに、必死に逃げてきたセンを、なんで抱きとめてやらなかったんだ。 自分の身がそんなに可愛いか? お前なんか、男の風上にも置けないヤツだってのが、よおぉぉぉく分ったとも。 ・・・・・・目の前で表情ひとつ変えずに言葉を放つ上役を、胸の内で散々に罵倒しながらも。 一応は頭を下げてから、従業員用の階段を下りてゆく狐娘。 その後姿を見送る碧の瞳が、ふっ、と揺れ。 ・・・・・ああ、・・・まだ、泣いているのか。 ハクは、・・・・襟元や肩口が手ひどく裂けた水干姿で、必死に駆け寄ってきた千尋の姿を思い出し。 血が滲むほどに、くちびるを噛んだ。 楓の間の雷神は。 堂々たる押し出しで、男ぶりも羽振りもよく、いつも他の客より0が桁一つ多い額の金を落として豪遊して行く、いわば上客中の上客で、大湯女たちの間などでは結構人気は高いのであるが。 札束さえあれば何をしでかしても何とでもなる、と高をくくっているところがあり、扱いに失敗すると何かとやっかいな神で。 つまらないことで癇癪を起こしたり、他の客と揉め事を起こしたりと、そういう面では評判芳しくなく。 特に困るのは、手癖、というか女癖が悪いこと。 大湯女ならばまだともかく、湯殿で小湯女の体に触ったり、座敷で女中に悪ふざけをする、などということはしょっちゅうで。 まあ、たいていの女達は心得たもので、「もぉー!いやだぁ、お客さまってばー!」などと笑ってやり過ごすかわりに、小奇麗なかんざしだの櫛だのを握らされ、それでおしまい、というのがほとんどなので。 初心い、というか、そういう客あしらいに慣れていないような娘は、あまりあの神には近寄らせないよう、それとなく兄役たちに気を配らせていたのだが。 今宵、あの神の座敷に酒など運んだのは千尋だった。 雷神の悪戯(わるふざ)けが過ぎたのか。 驚いた千尋が激しく抵抗したためか。 ハクが現場に到着したとき、・・・客間から転がるように逃げてきた少女の衣服は、それはそれは酷いものだった。 その場に居合わせた従業員たちの目にも、何事が起こったのかはすぐに察しがつくほどに。 獣に追い詰められた、瀕死の小動物のような目で飛び出してきた千尋が、視線の先にいとしい龍の少年の姿を見つけた時。 さっと彼女の頬には安堵の色が広がって。 「ハクーーーーーっ!!!!!」 周りの視線もはばからず、ウサギの仔のようにその胸に飛び込んでこようとしたのは、無理もないこと。 だが。 帳場頭の少年は、少女を突き放した。 「何事だ。私のことは、ハク様と呼べ」
少女の瞳が、凍りついた。 そして。 その氷が溶けて。 しおからい雫となって、あとからあとからあふれてこぼれて。 肩から。指先から。細い背から。 涙といっしょに力が抜けて。 千尋は人形のように、ぺたりとその場に座り込んでしまった。 「セン!!」 リンが駆け寄って妹分を抱き締めたのを。 横目にも見ようとせず、龍の少年は平伏していた。 その前には・・・・怒りにわなわなと震える雷神が仁王立ちに。 「申し訳ございませぬ。まだ下働きを始めたばかりの小娘にございまして。とんだ失礼をいたしました」 「謝って済むものではないわ! この顔、この着物、どうしてくれるッ!?」 雷神の自慢の顔には、頬にくっきりと赤い爪の痕が。 金襴豪華な衣装には、料理だの、酒だのの染みがべったりと。 ・・・・・・・娘の、正当防衛ではないか!
どれだけ、そう叫びたかったことか。 自分が大切にしている、たったひとりの少女を。 その汚らわしい手で弄ぼうとした、傲慢な男に。 どれほど、その場で殴りかかり、食らいつき、血の海の底に命沈むまで、噛み裂いてやりたかったことか。 しかし。 面子を潰されて頭に血の上っている雷神を前に、帳場頭の少年は、歯を食いしばりつつ丁重に頭を下げた。 「お召し物は、わたしどもが責任を持って元通りにいたします。もちろん、本日のお代は頂戴いたしませぬ。どうぞ、お怒りをお鎮めくださいませ」 他の部屋の客が、遠巻きにこちらの様子をうかがっている。 雷神がこのまま怒りを撒き散らしていては、彼らにとばっちりを及ぼさぬとも限らず。 また、彼らの目の前で、客への対応を見誤った場合、客から客へと悪い風評はあっという間に伝わってしまおう。 さらに、雷神とつながりのある数多くの下級神は、彼に義理立てして、いっさいここへは寄り付かなくなってしまうのは、目に見えている。 湯屋油屋の常連客の多くは、雨を司る雷神ににらまれたらどうしようもない、立場の弱い神々に占められているのだ。 客商売は、水ものである。 ささいなきっかけで、大繁盛していた店が、見る見る傾いてしまうことなど、よくあること。 もし、ここがそんなことになったら。 ここで働いている従業員達は。 ---------------行き場を失う。 みな・・・元いた世界からはぐれて。あるいは追われて。 この湯屋に迷い込んで、生き長らえているものたちばかり。 仮にこの湯屋が倒れたとして。 世渡りの上手い者なら、なんとか他に働き口でも見つけてやっていくこともできよう。 だが。実際には。 ここに馴らされて。ここでしか生きるすべを持てなくなっている者も多いのだ。 路頭に迷って飢えて死ぬか。 供物に手を出して生贄の動物となるか。 正体のあるようなないような、影のような存在になってしまうか。 大げさでなく、そうなってしまう可能性はいくらでもある。 従業員を守るのも、管理職(じぶん)の役目。 龍の少年は、もう一度、深々と頭を下げた。 「すぐに、別の部屋を用意させましょう。・・・・セン! そなたもきちんと詫びぬか!」 叱りつけるように鋭く飛んだ声に、千尋の体が、びくん、と震えた。 リンが、何か言おうとした。 が、人間の娘は・・・・まだがちがちと震えながらも、這うようにして帳場頭の少年の隣までいざり寄り。 雷神の前に、すみませんでした、と聞こえるか聞こえないかほどの、細い声を振りしぼった。 その哀れな姿に、さすがの雷神の怒りもやや薄らいだのを見てとって。 ハクは、てきぱきと従業員に指示を与えた。 見目のよい白拍子たちに、雷神の顔の傷の手当てを申し付け、男たちには新しい部屋の準備と、雷神の好物を取り揃えた膳を整えさせ、客あしらいの上手い湯女に命じて、全身べたべたに汚れた雷神を湯殿へと案内させた。 そして。 「何をしている。皆、持ち場にもどれ。まだ本日の営業は終わってはおらぬ。気を抜くな」 千尋の肩を抱いてこちらを睨んでいるリンをはじめとする、他の従業員たちに厳しく申し渡すと、くるりと踵を返して帳場へ戻って行ったのだった。 ・・・・・・・・千尋は、泣かなかった。 自分が、冷たく突き放した、あの時まで。 どんなにか恐ろしかったであろうに。 不埒な男に懸命に抗いながら。 それでも涙は見せなかったのだ。 泣かせたのは。 心得違いの雷神ではない。 この、私だ。 帳場仕事をきちんと片付けねば、とは思いつつ、・・・どんなに考えまいとしても、先刻の一件が、頭から離れない。 ハクが音にならないため息を漏らしたとき。 「・・・あの。さっきはすみませんでした」 帳場と廊下を仕切る障子の向こうから。 消え入りそうな、声が聞こえた。 「お入り」 はい、と言って、側に来た千尋を見て。 龍神の少年は押さえつけていた怒りがふたたび爆発しそうになるのを、・・・かろうじて噛み殺した。 「・・・着替えてこなかったの?」 衣服の乱れは直しているものの。 縫い糸のほつれた襟元、裂けたままの肩口。 汚れたままの、胸元や袖口。 その破れや汚れから。 あの男のけがらわしい臭いが立ち上ってくるようで。 ハクは、吐き気を覚えた。 「あのう、、着替えの水干は夕方洗ったばっかりで、、まだ、かわいてなくて、、、、」 「・・・・そう」 ハクは、文机の上に一枚の紙を広げた。 「けじめはつけなくちゃいけない。始末書・・・ってわかる?」 少女が首を振るので。 龍の少年は、もう一枚紙を取り出して、それを自分の前に置いた。 「あのね。仕事上で大きな失敗をしたときに、上の者へ書いて渡す詫び状のようなものだよ。ここに、名前を書いて・・・・」 始末書の書き方など知らないであろう、幼い人の娘に。 わかりやすいよう、見本を。 千尋は、文机をはさんで、ハクの向かい側から、じっとその手元を覗き込んでいたが。 「あの・・・ハク、、さま」 「うん?」 「そっち行って、いい、、、ですか。反対側からじゃ、よくわからなくて」 「・・・ああ」 千尋が、すい、と立ち上がって。 白い水干姿の少年の傍らに座り、その肩越しに、書類を覗き込んだ。 ・・・・・桃色の水干から。 酒の臭いと。 料理の臭いと。 涙のかおりが、した。 ------たまらなくなって。 千尋に背を向けたまま、ハクは言った。 「・・・お脱ぎ」 「え?」 「綺麗にしてあげよう。・・・あの男の臭いなど、全部消してあげるから」 「あ、あの。。。。ハク、さま?」 「ハクでいい」 言うなり、振り向きざま。 なかば強引に剥ぎ取るように、 ハクは少女の身を覆う桃色の布を奪った。 「えっ?? ハ、ハクっ????」 面食らっている千尋の白い肩を。
一度だけ、ぎゅっ、と渾身の力で抱き締めて。 ハクはその水干を手に立ち上がった。 「そこに見本を書いたから。それにならって、自分でお書き。できるね?」 「あ、う、うん」 帳場の隅にある、茶を入れられる程度の簡単な流し台に立って。 ハクは、千尋の水干を、洗った。 指先に、血が滲むほどに、力を入れて。 悔しくて、たまらなかった。 愛しい娘が侮辱されようとしたのに。 庇ってもやれなかった、自分が。 救いを求めて差し出された手を。 受け止めてもやらなかった、自分が。 「わたし、あとで自分で洗うから、、いいよ、、、、ハク?」 ざあざあと水を流す音が、なかなか止まらない。 戻ってこない少年を気にして、千尋が遠慮がちに声をかける。 「いや。もう、落ちるから」 振り向かずに、背中越しに。そう、答えた。 きっと今、・・・・自分はどうしようもないほど情けない顔をしている。 ごしごし、ごしごし。 こんなことで。先刻の行動を帳消しにできるなど、思ってはいない。 でも。せめて。この手で、洗い清めてやりたい。 ごしごし。ごしごし。。。 氷のように冷たい水に。 指先があかぎれて、沁みた。 ごしごし。ごしごしごし。。。。。。 千尋が、幼い文字ながら『始末書』をすっかり書き終え、所在なげに座っているところに。 やっと、ハクが戻って来た。 洗ったばかりの桃色の水干を壁際に吊るしてから、千尋の隣に、座る。 「書けた?」 「うん」 書類を点検し、必要なところに印を押す。 「これができたら、水干はすぐに乾かしてあげる」 「うん・・・」 やっと、自分の側に戻ってきてくれた少年の背中に。 千尋は、指先だけでそっと触れてみる。 「ああ、ここにも名前を。『セン』でいいから」 振り払われたりはしないので、ほっとして。 少女は、白い水干の背に少し寄りかかってみる。 ぴしりと洗い上げられた桃色の水干。 きつく絞られて干されたその着物から、先刻の恐怖の痕は綺麗に消されていた。 「ハク」 「うん?」 「・・・・・・・ありがとう」 書類を処理していた、ハクの手が止まった。 声が、出なかった。 言葉のかわりに。 涙が溢れそうになって。 伝えたい。 謝りたい。 そして、愛していると、この手で唇で、示したい。 自分には、もう、その資格はないのだろうか。 身動きひとつ・・・まばたきもできなくなった、少年の、肩口に。 ----------------不意にことり、と軽い重みがのった。 「・・・?」 そして、規則正しい、吐息が。 すうすうと。とてもやすらかな。 「・・・・千尋?」 ・・・・・・張り詰めていたものがゆるんだのは、たぶん、少女が先。 少年の背に甘えることが許されたと思ったとたん。 その体温を素肌で感じたいと、目を閉じたとたん。 うつむく白水干の背中に自分の居場所を見出した安心感が。 そのまま睡魔となって、彼女を包み。 大好きな肩を枕に。 またたく間に、少女の意識は夢の中へと溶けていった。 背にやわらかな肌の重みを感じながら。 肩に素直なぬくもりを感じながら。 ハクは、身じろぎもできなかった。 「・・・・・わたしの背で、良いのか?」 口下手な龍の少年の唇からこぼれた言葉は、やっと、それだけ。 すやすやと眠ったままの少女は何も答えなかったけれど。 自分にかかる重みがすとんと増したように感じられたのが、なんとなく嬉しくて。 ハクは、やっぱり、身動きができなかった。 背も肩も露わな腹掛け姿のまま、無心に眠っている少女が風邪を引いては大変と。 軽い術を使って、部屋の温度を少し上げ。 こころもち、自分の体温も、上げた。 いや、・・・・・上がってしまった、というべきか。 ・・・・・幸福そうに寄り添う二人の後姿が、わずかに開いていた障子の隙間から垣間見えたので。 リンは、声をかけるのを、やめた。 音を立てぬよう気をつけて、障子をそっと閉めなおし。 少年上司から言い付かった篭を、そこに置いて。 心配させやがって。ちゃんと自分達で、おさまるトコにおさまってるじゃねぇか。 狐娘は軽い伸びをしながら、女部屋へと戻って行った。 いつしか、月は山の端(は)に姿を隠し。 明けの明星が、東雲(しののめ)を淡く染めるころになっても。 草原から寄せる朝風が、吊るしっぱなしの古ぼけた風鈴をちりりん、と鳴らしても。 贅美で華大な湯屋のかたすみの。 簡素で小さな執務室のなかでは。 時は、止まったままだった。 <<<< 完 >>>
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