潮鳴り 











「ほら。海が綺麗だよ。・・・・泣かないで」


肩を抱き寄せてくれるひと。


どうして、わたしの気持ちがくじけているときには。
いつも側にいてくれるんだろう。



「うん・・・・ごめんね、ハク」



健気にことのはをつむぐ少女の肩は、まだかすかに震えている。





終業時刻をとうに過ぎ。
湯屋の最後の見回りを終えようとしていた時に。

家畜小屋の隅で、小さくうずくまっているいとしい娘に気づいた。
まるい背と茶色がかったまとめ髪が、小刻みに揺れていて。



・・・・声を殺して泣いているのがわかった。



聞かずとも、涙の訳は、痛いほどにわかる。


それは。
自分が龍神であるからではなく。

ひとりの、人恋う男だから。



少女の涙を見過ごすことなど、できるはずもなく。

そっと傍らに寄り添って声をかけたものの、気の利いた慰めの言葉のひとつも見つからず。


よかれと思って胸を貸したのだけれど。 
とたん、彼女は余計に泣き出してしまって。



なすすべもなく。
すがりつく千尋を抱き締めたなり、切ない思いのまま龍の姿となっていた自分。


気がついたら、ここへ------------自分の私室へと、少女を連れて来ていた。
いや、攫ってきたと、言うべきか。





若い娘の喜びそうなものなど何もない部屋ではあるが。
雨上がりの海が見える北向きの、風の通る、角部屋。





開け放した窓。
海面(うなも)を渡る月の光に頬と心をさらして。
無心に寄りかかる少女の髪の香りが、潮風とからみあって肩にまといつく。

眼下には、青緑色にほやめく、海蛍。



寄せては返し。たたみかける、しめやかなさやめきは。
潮の遠鳴りか。おのれの慕情か。いや、・・・・劣情か。



豊かな水は人の心を癒してくれる。
たっぷりとたゆたう海を眺めれば、少しは少女の気が晴れるかと。

夜空は波立つ心を静めてくれる。
ふる星なめらかな夜の光を浴びれば、少しは少女の胸が慰められるかと。




そう思って、ここへ連れて来たはずなのに。




泣き濡れた横顔は、月影に美しく。清らかで。 そして、・・・悩ましく。

潮騒に揺れる龍神の心を捕らえて、放さない。




千尋には。 自分より他に、ここでの庇護者がいない。

だから。
自分が彼女に何をしようと、何を言おうと。おそらく、彼女は逆らわないだろう。

自分のことを。そういう対象だと捉えていなかったとしても。
嫌、というひとことさえも言えず、目をつぶって飲み込んでしまうかもしれない。


それがよくわかっていながら。
この青暗い自室に少女を連れて来て。こうして細い肩を抱いているというのは。

男として、卑怯なことなのだろうか。






水平線近く見え隠れする、漁火(いさりび)を眺めつつ。


この場で彼女の名を奪い。
帰り道を無くしてしまえたらと。

かすかに胸によどむ、薄重たい思いを波間に預け。


龍の少年は、浅いため息を落とす。





「お父さんもね。おかあさんもね。 わたしのこと、わからないの。 どうしても聞いてほしいことが、あるのに」

思い出したかのように、時折しゃくりあげる、少女。



「ハクの魔法で、できない? ちょっとでもいいから、おとうさんたちとお話するとかって・・・」

「千尋。私の力で湯婆婆の魔法に干渉することなど」

「・・・あ・・・そうだよね・・・・」

「すまない」




隣の少年が奥歯を噛み締めたのに気づいて、千尋はあわてて言葉を足す。




「あ! あ、ごめんなさい!! ハクが謝ることじゃないの! わたしの我侭だもの」

「千尋」

「ハクに甘えてばかりじゃ、いけないよね。 ごめんね」





必死で謝る娘が不憫で。
自分のふがいなさが情けなくなる。

好いた女のささやかな願いひとつ、叶えてやることが、できないのか。
神としても。魔法使いとしても。中途半端な力しか持たぬ、この自分。




   ・・・・・無理を承知で。やってみようか。  
     ・・・それで千尋が笑ってくれるのなら。





「千尋。少しなら・・・できないことも、ないかもしれない。」

「え・・っ」



とたん、さっとばら色に染まる、少女の頬。

龍の子の真正面に向き直り、その白皙のおもてのすぐ下から彼の顔を覗き込み。
くちびるに息がかかるほどの近さから、真剣な眼差しで、問う。



「ほんとに?? ほんとに、できるの??? ハク、だったらわたし、お礼になんでもする! お願い!」




ハクの眉が、かすかに曇る。




ここで。
このような、場所で。
自分が腕ひとつ動かせば、たやすく少女を自由にできてしまうような、この間合いで。


そのようなことを、簡単に口にされては。困る。



自分は決して精錬潔白の士ではないのだ。
よこしまな思いも。どす黒い汚れも。ごく普通に持ち合わせている、ただの男だ。


信用されすぎているのか。
無邪気すぎるのか。



それとも・・・・・すべて、承知の上での言葉か。




気持ちは揺れる。

迷いは、吐息から。
まばたきから。指先から。
少女に伝わってしまうのではないか。




少女の視線を受け止めかねて。
返す言葉を選べずにいると。


とりすがる細い指の力が、ぎり、と、強まった。
白い水干の袖を縫い留めてある糸が千切れそうになるほどに。




「言って。どうすれば、いい?」




思いつめた、瞳。
細い喉からほとばしる、懇願の声。
それは、若い龍神には耐え難いほどに甘く。




「・・・・千尋。夢の中でご両親に会わせてあげることくらいしか、今のわたしにはできない。それでも構わないかい?」

「うん! ありがとう!」


とたん、千尋はすっと立ち上がり。足早に部屋の隅へと歩いゆく。



「えっ?? ち、千尋!?」


目を丸くしている少年の目の前で。
少女は何の迷いもない仕草で押入れを開け、夜具を引っ張り出すと、手早く畳の上にのべ始めた。


押さえ込んだやましい心を読み透かされたのかと、青くなるハク。

の、目の前で千尋は、すいと髪を解き、桃色の水干を脱いできちんと畳む。



「ちひ・・?」

「じゃ、おやすみなさい、ハク」

「・・・・え」

「素敵な夢を、見せてね」

「・・・あ・?・・ああ・・うん。」




幸せそうに微笑んだ少女は。
そのまま、男が普段から使っている布団の中にすぽっともぐりこんでしまって。

あっけにとられている龍の少年の前で、しばらくごそごそと寝返りなどうっていたが。

さんざん泣いて、疲れていたのであろう。ほどなく、すうすうと寝息を立て始めた。





   ・・・・・・・・やれやれ。





苦笑しながら、少女の枕元にいざり寄る、ハク。




  
   
この、桃色の頬に少し触れるくらい。罪にはならぬだろう。






白い指先で、そのほたほたとしたまるみを愛撫していると。
やはり、気持ちは押さえられなくなる。





   
許しておくれ。 わたしは、弱いね。






その、色づきはじめたばかりの果物のようなみずみずしい頬に。
そっと、くちびるを寄せた。




「うう・・ん・・・」




盗んでよかったものだろうか。・・・むろん、よいはずは、ない。
かすかな罪の味が、くちびるに残る。






今度は、自分が約束を果たす番だ。







ハクは、千尋の枕もとで、目を閉じ印を結んだ。

湯婆婆に知れたら八つ裂きにされるかもしれないが。
構わない。


口の中でふつふつと、音にならない言霊(じゅもん)を唱えはじめる。


と同時に、激しい頭痛と、心臓を締め付けるような痛みが少年に襲いかかる。
が、彼は、強引にそれを意識の外へと追いやった。





頭の芯が切れようと。
心の臓が裂けようと。

約束は、約束。
誰よりも大切な、少女との。


呪文を、唱えつづけ。


家畜小屋で眠る、彼女の両親の意識をたぐりよせる。
人間であったころの、記憶を・・・・できるだけ、できるだけ幸福な、記憶を。
ひとつだけ、彼らに握らせてみる。





・・・・・うまく、つかんでくれ。






人としての記憶は。
いっとき、豚の意識にはねのけられたりゆがめられたりしていたが。

やがて、一つの形を結んだ。

ハクはほっとして、それを千尋の眠りの中へと、静かに流し込む。




* * * * *


「千尋ー。晩御飯できたわ。お父さん、呼んで来てちょうだい」

「はーい」

親子三人水入らずの、夕餉。
今日のメニューはちらしずし。明夫の好物なのだ。
部屋は、花や風船や折り紙細工などできれいに飾りつけがされていて。
テーブルの真中にはやたら沢山のろうそくを立てたバースデーケーキ。


「おとうさん。お誕生日、おめでとう」

「おおっ! 美味そうじゃないか」

「うふふー。わたしと、おかあさんとで朝からがんばって手作りしたんだよ」

「そうか! 嬉しいなぁ。千尋がケーキ作れるようになったのか」

「うん! 味見して?」





   ささやかな家族の団欒。    
   その中で交わされた会話は、どこまでが真実で、どこからがまぼろしか。     
   ハクは、精神を集中させて、少女の夢を支えてやる。     
   が、続く会話に、彼はぎょっとした。





「美味しく焼けてる?」

「ああ、もちろんだよ、千尋」

「よかったー! じゃあ、今度ハクにも焼いてあげようっと」

「・・・え? 誰だ、それは。男か?!」

「あのね。わたしの大切なひとなの。わたし、大人になったら、ハクのお嫁さんになりたいの」

「何ッ!?」

「あなた。目くじら立てないのよ。子供の言うことなんだから。」
くすくす笑う、悠子。

「ゆゆゆゆ、許さん!!どこの馬の骨だ、そいつはっ!!」

「やさしい人なんだよ。こんど、おとうさんやおかあさんにも会わせてあげるからね。」





   印を結ぶ指先が、呪をとなえる口元が。 かすかに震え。
   しまった、と思ったときには、もう遅く。   
       
   ほんとに、束の間の少女の夢は。     
   そこで、途切れてしまった。





* * *


「ハク・・・・ハク。大丈夫?」

瞼を開けると。
心配そうに、自分の顔を覗き込む、少女のひとみが、そこにあった。


夜は、うっすらと明けはじめている。

「・・・・千尋?」

「よかった。ものすごく苦しそうにうなされながら寝てるんだもの。どうしたのかと、思った」



無理な魔法を使ったから。
体が耐えられなくなって、あのまま意識を失ってしまったらしい。

まだ少しふらふらする頭を押さえながら、ハクはゆっくり起き上がろうとしたが。
身体は言うことを聞いてくれなかった。


「うっ!?」

頭の芯を殴られたかのような疼痛が走り。彼はまた、ずん、と、布団の中に倒れこんだ。


「ハク!!」

千尋が顔色を変える。


「・・・大丈夫」

「大丈夫じゃない!! どこが痛いの?? 釜爺さん起こして、お薬つくってもらってくる!!」


半べそをかいて部屋をとびださんばかりの千尋の手を、ハクはぐい、と掴んだ。


「平気だ。それよりも・・・・」

「うん?」

「そなたさえ構わなければ・・・わたしの側にいて欲しい」



夜具の中に横たわったまま。少女の手を握るハクの力が。
微妙に、変化する。

決して強引に懐へ引き込もうとするような力をこめているわけではない。
振り払おうと思えば、人間の娘にもたやすくそうできるであろうほどの、かすかな力が加わっただけ。

だが。皮膚いちまい下の血潮はとても熱く。




「ハク・・?」



その力の意味を。
千尋は、彼女なりに、一生懸命考える。



「・・・千尋がいてくれれば、薬はいらない」


「あの、、ハク、寂しいの? 添い寝してあげようか?」



小さい頃、風邪などひいて、寝込んでいると。どうしようもなく心細くなることが、あった。
そんな時、母親に添い寝をねだると、あかちゃんみたいなんだから、などと言いながら、悠子は必ず眠りにつくまで側についていてくれた。



そのことを思い出して。



ひょこ、と少年の隣にもぐりこむ、腹掛け姿の少女。
ぴったりと彼に身を寄せると、小さな声で話しかける。



「ハク・・・楽しい夢、ありがとう。」

「いや・・どんな夢を見たか、覚えている?」

「うん! わたし、おとうさんとおかあさんに、どうしても言いたいことがあったの! 言えて、よかった!」



翡翠の瞳がかすかに細められる。



「何を、言いたかったのかな」

「ええっっ。。。。!!  えー、ええとー、、、、内緒!」

「わたしには、教えてくれないの?」

「うん。教えてあげない」

「そう」



布団の中で、少女を抱き寄せて。
龍の少年は。 少し笑った。



「あの・・・・お礼に、なにが欲しい?」

「え?」



千尋の律儀な申し出に。
少々面食らう、ハク。

まさか、もう、いただいてしまいましたと言うわけにもいかず。



「あ、いや、いいよ。そんなこと・・・・」

もごもごと語尾を濁してみるのだけれど。



「だめ! それじゃ、わたしの気が済まないの!」

少女が食い下がるので。



「それでは、・・・このまま朝まで添い寝してもらおうか」

「そんなので、いいの?」

「いいよ」



油屋は宵っぱりの仕事だから。
みな、朝は遅い。


実は、千尋も、まだ眠り足りなかったところ。




「いっしょに、もう少し、眠ろう」

「うん」




人の子供は、寝つきがほんとに良くて。


ひとつふたつ、小さな欠伸をしたかと思うと。
あっという間にすやすやとやすらかな寝息をたてはじめる。






わたしも。いい夢を見れて、嬉しかったよ。







龍神の少年のつぶやきは。
たぶん、少女には届かなかったろう。





正夢に。なるとよいね。






朝まで、もう少し。
やがて、龍の少年も安らかな眠りにおちて。


頬寄せて、幸せそうな寝顔のふたりは、ままごとの夫婦のようで。


もうひととき。このままで。







・・・・・潮鳴りの子守唄に、包まれて・・・・・・









<<<<    完    >>>



♪この壁紙はしゃらくさまよりいただきました♪



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