ちりり ちりりと 鈴に似て 甲高く かすかに かすかに こころの 奥底から 聞こえてくる それは 誰の声? 恋の音色 「セーン!終わったかー?」 「はーい!今行きます!」 ぱたぱたと慌ただしく駆けながら、千尋は大きな声で返事をした。 一つ所の仕事が終わったら、その次もまた別の仕事が控えている。 営業前の油屋はいつも慌ただしいが、今日はまた一段と作業が多い。言いつけられる事柄が多すぎて、それこそ本当に息を付く暇もないくらいだ。 「ほらほら、さっさとせんか!掃除一つにいつまでかかっておる」 慌ただしく走り回る下働きの間をぬうように歩きながら、兄役が活を入れるつもりで大声をあげる。が、残念ながらそれは従業員の苛立ちを増長させるだけの野次にしかなっていない。 「チッ、だったらてめぇがやってみろってんだ」 千尋と一緒に玄関近くの床を磨いていたリンが、抑えた声で毒づいた。無理もない、隅々まで手間を惜しまず磨けと言いつつ、時間はかけるなと言うのだから。この理不尽さが下働きの悲しいところである。 そんなリンの傍らで、千尋はせっせと目の前の汚れを落としていた。性質が素直なこの少女は、言われた仕事をこなすことに一生懸命で、不満を言う余裕が無いらしい。 今日のお客はちょっと身分の高い神様だとかで、目に止まるだろう場所は徹底的に磨くよう言いつけられている。それこそ、見るかどうかもわからないような隅っこもだ。客商売とはそういう細かい部分が肝心なのだという。 「ねぇリンさん、今日のお客ってそんなにすごい神様なの?」 「んー、まぁな。俺達下っ端はあんま知らないんだけど、なんかどっかの湖の主らしいよ。女だってさ」 「ふーん」 湖ということは、ハクと同じようにやはり竜なのだろうか。黙々と床を磨きながら、千尋はふとそんなことを考えた。 「リンさん、こっち終わったよ。あと残ってるとこある?」 「お?もう終わったのか。んじゃ水換えて来な」 リンは手持ちの雑巾をたらいに放り込むと、手荒くすすいでから千尋にたらいを持たせる。 「気を付けて行けよ。走り回ってる奴多いからな」 重いたらいを持ってもふらつかなくなったあたりは頼もしくなってきたが、なにしろ千尋はよく転ぶ。汚れ水をぶちまけるようなことになったら厄介だ。 「はい!」 千尋は元気良く返事をし、たらいをしっかりと抱えて歩き出した。細い足に似合わず、足取りはしっかりしている。 その背中を見送りながら、リンは口の端を上げて小気味よさそうににっと笑った。 まだまだドジが多いが、仕事をそこそここなせるようになった妹分を見るのは気分がいい。 だがしかし、そういういい気分に浸っている暇はない。兄役どもに見とがめられる前にと、リンは再び床を磨きはじめた。 汚れた水を入れ替え、千尋は元来た道を急ぎながら戻った。 水を零さないよう歩くのは難しいが、周囲が慌ただしくしている状況ではゆっくり歩くのは申し訳ないような気がしてしまうのだ。 けれど、角を曲がったところで、急いでいた千尋の足がふと止まる。 (あ!) 人の行き交う中で、ただ一人白い姿の少年が目に入ったのだ。 他の従業員と同じく、彼もまた普段よりも急ぎ気味に歩いている。 それでもどこか泰然とした雰囲気があり、それが彼の上役という立場を示しているようだった。 視界に入ったのでつい目を留めてしまった千尋だが、今の状況を思い出してすぐにまた前を向いた。仕事中よそ見してたなんて気付かれたら、「ハク様」に叱られてしまうだろう。 その時、折しも前から歩いてきた小湯女が、勢い余ってぶつかりそうなほどに迫ってきた。 「ひゃ!ごめん、千!」 「ううん、こっちこそ!水かからなかった?」 すんでの所で衝突せずに済み、互いに謝ってすれ違う。 「危なかったぁ〜」 免れた大惨事を思ってドキドキしながら、千尋はハクに気を取られてしまった自分にちょっと苦笑した。 (やだな、ちょっと顔見られただけで嬉しいなんて) 先程目にしたハクは、二人きりの時の優しい姿ではなく、仕事に向かうときの厳しい表情をしていた。それでもその姿を見られるのは嬉しい。むしろ、千尋はああいうきりっとした彼も嫌いではないのだ。格好いいと素直に思う。 (なんか得した気分かも) 少し赤くなってしまった頬を意識しながら、千尋はついつい出てしまう笑顔を引っ込めるよう努力しつつ、リンのところへ戻っていった。 歩きながら指示を出していたハクは、耳に届いた覚えのある声に、ふと視線を向けた。 準備中の騒がしさの中でも、その声は際立つようにしてハクの耳に響く。 見れば、たらいを抱えた千尋が他の小湯女と言葉を交わして歩き去っていくところだった。 どうやらぶつかりそうになったようだが、あの様子だと大事にはならなかったらしい。 重たい荷物を抱えながらせっせと歩いていく千尋を見つめながら、ハクは僅かに目を細める。 その表情の変化を隣で話していた父役が見つけたが、彼はただハクが他の従業員の仕事ぶりを観察しているのだとしか考えなかった。 これが訳知りな女達であれば、その眼差しの意味を察しただろうが。 「ええと、それで、ハク様は今回もいつものように接待なさるので?」 「ああ、多分ご指名があるだろう。その間の帳簿は仮の形で記入しておくように。それから、お座敷に飾る花はあまり香りの強くないものを選べ。できれば秋草がいいだろう」 和らいだ表情をすぐに引き締めたハクは、まるで何事もなかったように仕事に戻った。 ただ、今し方見かけた少女の姿を、そっと胸の内に灯しながら。 |