恋の音色・2 「ったく、準備だけでくたくただぜ。上客が来るたんびにこれじゃ身が持たねぇよ」 リンはそう言いながら凝った肩をぽきぽきと鳴らした。玄関の掃除が終わった後も、あちこち回されて掃除をさせられたのだ。 リンの隣では、同じく走り回ってきた千尋がくったりとなっている。慣れてきたとはいえ、全力で働くのはさすがにくたびれる。手を抜くということをしない千尋ならば、尚更である。 そうして僅かの間二人が休息しているうちに、階下が騒がしくなる気配がした。どうやら上客が到着したらしい。 「リンさん、お客さん着いたみたいだよ」 「だな、休憩も終わりか」 疲れを振り払うように勢い良く立ち上がったリンに続いて、千尋も腰を上げる。 「ああほら、見てみろよ、あの真ん中にいるのが例のお客だよ」 出迎えで賑わった階下では、着物姿の女性や侍風情の男達が湯婆婆に歓迎されている。 その中心にいる一際鮮やかな衣装の女性を、リンが指し示した。 薄衣を被っているので顔はよく見えないが、他の女中達とは違い、結い髪を下に降ろしている。 その黒髪は膝をすぎるほどに長く、あたかも滝の流れのように艶やかだ。 凛然とした美しい立ち姿が、遠目にも堂々とした様子をうかがわせる。 彼女が歩く度に、手にした錫杖が涼やかな音をたてた。若い女性には不似合いなはずのそれは、彼女の通力が並ならぬ事を示している。 「神様って、もっとすごいの想像してた。あんな綺麗な人もいるんだねー」 「ああいうのは位が高いんだよ。ここの客には珍しいけどな」 油屋の客はどちらかというと人外の姿の神々が多く、千尋は人の姿をした神というのをほとんど見たことがなかった。ハクは別だが。 「さてと、来ちまったからには宴やらなにやら忙しくなるぞ。ほら、早く来いよ」 「あ、待って、リンさん!」 慌てて着いていこうとした千尋は、出迎えの一団の中にハクの姿を見つけ、思わず立ち止まった。 (あれ?ハクがお出迎えなんて珍しいな) 油屋内での立場は父役よりも上になるハクだが、接客などで表に出てくることは滅多にない。問題が起きたときの処理くらいのものだ。 「おい千!どうしたんだよ」 「あ、ごめんなさい、今行きます!」 やや苛立ったリンの声に、千尋ははっとなって走り出す。 振り返るその寸前に、客の女神がハクの肩に親しげに手を置くのが目に映った。 千尋の胸にちりりとなにかが走る。 初めて感じるものに、千尋は首を傾げた。 なんだか落ち着かない感じがするのだが、なんだろう。悪い予感とか、そういう類のものだろうか。 気がかりを感じながらも、これからひっきりなしにやってくるだろう仕事に向かうため、千尋は思案を切り上げて走っていった。 豪奢な襖絵で囲まれた大広間は、今日の客に合わせて花で飾られている。 金屏風の前には青色の秋草がとりどりに生けられ、とりわけ竜胆の群青が鮮やかに映えていた。 その屏風の中心にゆったりと座た女神は、自分の気に入りの色彩に気分を良くしたらしく、機嫌良く微笑んでいる。 湯殿が整うまでの間のほんの一時ではあるが、上位神をもてなすため、座敷ではささやかな楽と舞が披露されていた。 「ふふ、この油屋は下級の者の集まるところと言う神もいるが、そなたが来てからは随分と居心地がようなった。肩肘張らぬ分私にはかえって気分がよいよ」 「恐れ入ります」 誉める言葉を受けて、ハクは静かに礼を返す。けして愛想のいいとは言えない彼がこの場にいるのは、他でもないこの上客の指名である。 人の歳になぞらえると妙齢の女性に見える彼女は、古からの池を住処としている竜神である。 池だけではない、そこを拠点とする二つの大河をも支配している。先祖代々の血筋を持つ、由緒ある存在だ。 広く知られている名を遊亀という。 彼女はハクの見目の良さと賢さを気に入っており、一度は手元に引き取ろうかという話もあったのだが、ハクが辞退したのでその時は流れた。 その後も湯治に来る度なにかと声をかけるので、この上客がハクを贔屓にしていることは油屋中の皆が知っている。 遊亀は返事をしたハクの表情が前よりも柔らかいことを見て取り、ふっと微笑する。 玄関で対面したときから様子が変わったことに気が付いていたが、どうやら気のせいではないらしい。 彼女は傍らに控えている老女に語りかけた。 「姥、このハクは以前見たときよりも顔色がよいように思うよ。さて、なにがあったのやら」 からかうような眼差しを向けられて、ハクはただ緩く微笑んで答えた。 自分が変化したというのなら理由は一つしかないのだが、それを口にする気はない。 「おや姫様。ほんにそのとおりでございますねぇ。ほほ、口の堅い童や、一つわけを聞かせてくれぬか」 「これ姥、そう呼ぶなとなんども申したではないか」 老婆の追求をどうかわそうかとハクが思うよりも先に、姫と呼ばれた遊亀が機嫌を損ねてふい、と横を向いた。 といっても、心安い乳母に対して拗ねてみせているだけのことだが。 「ああ、これは失礼を。お前様がお生まれの時からお仕えしている婆のこと、ついお懐かしい呼び方をしてしまいます。お許し下さいませ」 「姥はいつまでも私を子供扱いする。もどかしい」 おそらくは何度も繰り返されたのであろうやりとりを聞きながら、ハクは話の矛先が自分からそれたことに胸の中で息を付いた。 自分の変化の理由を訊かれたのなら差し障りのない範囲で答えるだろう。隠し立てする理由はないのだから。 だが、なるべくならば明かしたくないというのも心情である。 変化の経緯を話すには千尋のことは抜かせるはずもなく、想いを寄せる少女の話など、人に聞かせるのははばかられるものである。少なくとも、ハクはその手の話を気軽にできるような性分ではない。 「失礼いたします。湯殿の準備が整いましてございます」 愛想のいい笑顔を浮かべた父役が知らせに来たことで、宴は一時打ち切りとなる。 案内を受けてすっと立ち上がった雪に続いて、ハクも座敷を出た。 薬湯の香りが立ち上る湯殿の間を、千尋はいそいそと歩き回っていた。 上客が来ているとはいえ、一般のお客も当然やって来る。湯女の一部が例の竜神にかかりっきりになってしまう分、千尋はその補欠として湯殿で神々のお世話を手伝っていた。 「失礼します、新しい手ぬぐいお持ちしました!」 「はい、ありがとさん」 人手が少ない分湯女達も手一杯で、雑用まで手が回らないらしい。千尋はあちこちの湯殿で、たらいの補給やら札の手配をして回っていた。 「千!悪いけどよもぎ湯の札取ってきておくれ。オスマ様のだって言えばすぐ出るから」 「はい!」 一つの用事が終わったかと思うと、今度は隣の湯殿から用を頼まれる。千尋は今日何度めかになる番台へ、再び走り出した。 廊下に出ようとしたところで、あたりの雰囲気がふっと静かになった。 何事かと千尋が辺りを見回すと、吹き抜けに面した廊下を例の上客の一団が歩いていくのが見えた。どうやら湯殿へ向かうらしい。彼女のような身分の高いお客の湯殿は個室になっているので、一段高い階にあるのだ。 お客のことをじろじろ見るのは失礼だが、千尋は薄衣を外した女神の姿に少し見入った。 きりっとした形良い眉に、切れ長の瞳がなんとも美しい。 どことなく気の強そうな雰囲気があるが、それがまた彩りとなって、一層の艶を見せている。 千尋の世界で考えると、女優でもそうはいないような美人である。 見れば、千尋の他の従業員やお客も、思わずといった感じに彼女の姿に見入っている。 一方、当の本人はそういった下々の視線を気にするでもなく、錫杖の音を響かせながら悠然と歩いている。 高位の女神は大抵奥ゆかしく振る舞うのだが、彼女の場合、支配者として視線を受けることに慣れているのだろう。 しばしの間、その場に息をひそめるような空気が流れた。 だが、そのうちに皆それぞれに気を取り直して、いつもの賑々しい湯殿に戻っていく。 その中で千尋もまた客から目を離して用事に戻ろうとした。 だが、歩きだそうとしたところで、女性に従うようにして歩くハクが目に入ってしまう。 (あれ?ハク、まだあのお客さんのところにいるんだ・・・) 出迎えの時も珍しいと思ったハクが、今もまだ客についたままというのが千尋には妙に気になった。 ああして一緒にいることに帳場の仕事が関係しているとは思えないし、千尋の知識で思い当たるような理由がない。 (でも、なんかのお仕事なんだよね?) ざわざわと奇妙な不安感が胸に広がるのを感じながら、千尋は自分に言い聞かせるようにそう考えた。 ハクの様子に別段おかしなところはないし、不安な要素などなにがあるだろうか。 (そうだ、薬湯頼まれてたんだった。急がなきゃ) 千尋が思考を仕事に切り替えようとしたその時、流れるような所作で歩いていた女神がふと足を止めた。 それを見て何故かどきりとしてしまった千尋の方へ、切れ長の瞳がついと向けられる。 (え?) 上の階から千尋の所へは結構な距離がある。視線が真っ直ぐここに注がれているわけではなかったが、千尋はひどく落ち着かない気持ちになった。 じっと見つめていたことが失礼になったのだろうか。彼女を見ていたのは千尋だけではなくその辺の従業員も同様なのだが、根が生真面目な千尋は、挨拶と謝罪を兼ねたつもりでぺこりと頭を下げた。 客の方はどうやら千尋をはっきりと視界に捕らえていたわけではなかったらしく、千尋が頭を下げたことでかえってその姿をはたと見つめてきた。 視線を真っ直ぐ注がれ、千尋はますます身を固くした。 女の切れ長の瞳は、美しいが一種刃物のような鋭利さがあり、ただの人間には強い魔性すら感じさせる。 だが、千尋のにとってみれば、彼女は「大切なお客様」という印象が強く、恐れよりも驚きや困惑の方が勝っていた。身体をこわばらせているのは、怯えではなくただ緊張しているためである。 そんな千尋の様子を見て、女神の瞳がふっと細められる。 そのまま何事もなかったように客は再び歩き出し、千尋は自分の対応がこれで良かったのかどうかもわからず、悩みつつも仕事に戻っていった。 幾人かの女達を伴って遊亀が湯殿に入っていくのを見送った後、ハクは宴の準備のためきびすを返した。 席を外していた間の帳簿の動きも気になる。上客に呼ばれてそれに応じるのも仕事だが、その為に自分の責務が人任せになるというはどうにも落ち着かない。 それに… ハクは先程のことを思い出す。 上客の遊亀が突然歩みを止めた時、後ろに付き従っていたハクは、まず現場の責任者としてそれに注意をはらった。 だが、彼女の視線の先に千尋がいることに気付いた時、ハクの意識は責任者としてのそれではなく、一人の男のものとなった。 過剰な反応をせずに済んだのはまだ幸いと言えるだろう。 千尋のこととなるとハクはとにかく冷静でいられなくなる。客が彼女の方へと視線を向けたという、ただそれだけのことでも、つい大袈裟に身構えてしまったのだ。 まずいことをしたと、ハクは少し後悔していた。背後の気配が変化したことに、おそらく遊亀は気が付いただろう。 けれど、その失態よりももっと気がかりなのは、そもそもなぜ遊亀が千尋の方を向いたかということである。 なにか不興の種でもあったのだろうか。 なにしろ千尋は人間である。神々の中には人間を嫌う者も多い。逆に好く者もあるが。 機嫌良くしている時は寛容な遊亀だが、高位の姫君であるだけに、気むずかしく我が儘な面もある。怒らせた者が酷い目にあったという話も聞こえてくる。 その遊亀の視線が千尋に向いていたということが、ハクの心中に穏やかならぬものをもたらした。 気持ちの上澄みの部分は仕事に向かっているのだが、その下ではそわそわと不安がただよっている。 「ハク様、宴の料理はこれでよろしいでしょうか?指示通りの品を揃えましたが…」 「ああ、これで一通りはいいだろう。酒は充分に用意したな?」 心中に心配事があっても、ハクの仕事の速度は緩まない。入浴が終わるまでの短い時間の間に、できるかぎり指示を出しておかなくてはならないのだ。 なにより、千尋のことが気にかかる分、殊更に遊亀の機嫌をとっておく必要がある。 「…ところで、調理場の人数は足りているのか?」 「は?調理場ですか?特に困っているという話は聞きませんが」 「今日はいつもよりも膳の数が多くなる。洗い場に人を増やしておくように。…千がいいだろう。すぐに指示を出しておけ」 一応は思案するようなふりをしてから、ハクは今思いついたというように千の名前を出した。 客の目に付かない裏方に配置しておけば、少しは安心できるというものだ。 いわゆる職権濫用なのだが、あまりに自然な思考すぎてハクにはその意識すらない。千尋優先に物事を進めるのは彼にとって至極当然のことなのだ。 他の従業員達はそんなハクの思惑に気が付くこともなく、指示通りに事を運んでいった。 もっとも、わかっていたところで、意見できる者などいなかっただろうが。 |