ボートにのって (3) 





「おやゆびひめ、って知ってる?」

「え?」

「あのね、このくらいの、ちいさなおひめさまの出てくるお話」


横たわる千尋が、熱の下がりきらない小さな手で示した大きさを見て、ハクは首を傾げる。



月のない夜の静けさに包まれて。
水鉢に浮かべた薄桃色の西洋蝋燭は、ゆわゆわと部屋を照らす。


熱が高いためか、千尋はなかなか寝付けないようで、小さな寝返りばかりを繰り返すので。
それなら気散じに物語でもと思い、龍の少年はぽつぽつと話し相手になっていたのだが。




「残念ながら、知らないね。ごめんよ」




一寸法師・・・に出てくる姫は、特に小さいわけではなかったし。





身の丈が一、二寸ほどの姫の話だと言う。
はじめは『竹取の翁の話』かと思ったが、違うらしい。



「ちいさなおひめさまと、つばめと、かえると、もぐらが出てきてね」

「うん」


幼いころ病気になると、母親が枕元で読んでくれた童話なのだという。



とりとめもない話に相槌を打ちながら。
ハクは、不思議な香りを放ちながら揺れる、蝋燭の炎を見つめていた。

焔(ほのお)のひとゆらごとに、室内に広がる香り。
それは、彼が慣れ親しんできた、伽羅(きゃら)や白檀(びゃくだん)の香とは筋の違うもの。

咲きそめた花のつぼみのような甘さと、柑橘系の果実の清涼感を思わせる香りとが微妙に混ざり合っていて。
その相反する二種類の香料は、絶妙なバランスを保って上手く調合されているのだけれど。

龍の少年の鋭い嗅覚には、それらは決してひとつに溶け合って感じられることはなく、まるで水と油のようにくっきり色分けされた、別々のものとして認識されてしまう。





「・・・・るかなぁ?」

「---------え?」



少女の問いかけに、ハクはあわてて顔を上げた。


「ごめんよ、よく聞こえなかった。もういちど・・」




千尋の顔を覗き込もうとしたハクの水干の袖が、くい、と掴まれて。
瞬間体勢を崩した彼は、そのまま少女の顔近くまで引き寄せられた。



一瞬どきりと顔を赤らめた龍の少年。

そのさらりと揺れる前髪の間に、千尋は小さな指を滑らせて。
少年の白い額に手を添えた。



「ち、千尋?」

「-------------やっぱりだめだねぇ」

「???」



少女の唐突な行動が理解できずに、とまどっている龍神の子に。
くすくす笑いながら、千尋は説明する。



「あのね。『おやゆびひめ』の絵本にね、素敵な場面がいっぱいあるの」

「う、うん。それで?」

「うまく説明できないからね、こうやったらハクに伝わらないかなぁと思って」

「こうやったら、って? この指のこと?」



千尋の熱を含んだ指先は、彼の額にぴたと張り付いている。


「ほら。ハク、前にしてくれたでしょ」





湯屋にはじめて入ったときに。
ボイラー室の場所を教えるため、彼は、千尋の額に指先を触れさせてそこから直接、目的地へのみちゆきを示す映像を彼女の脳裏に送り込んだ。
千尋はそのことを、言っているのだ。
あのように、自分の頭の中にある物語の様々な場面を、そのまま龍の少年に伝えられないものかと。



「あ、あれは、、、、その、術のひとつで、、火急の事態だったから、、、、、」

「わかってるってば、冗談冗談。わたしになんかできないに決まってるもん」

人間って不便だよね、と笑う。





翡翠色の瞳の奥底が。
また、かすかに震えた。






「ねえ、逆はできない? ほら、こうやって----------」

千尋は無邪気にハクの手を取ると、今度はそれを自分の額に押し当てる。

「わたしの思ってること、読み取るとか。ハクならできるんじゃない?」






     ・・・・・・ああ、どうして。今夜は『こんなこと』が何度も続くのか。







「できるんでしょう?」





     ・・・・・・。

     湯婆婆に命じられて情報収集するときにも。何度も、使った手段。
     時には相手を気絶させて----その意識の奥底を無理やり読んだことも。




「ハク?」



龍の子はふっと、静かな笑みを浮かべた。



「すまないね。話して聞かせてくれないか」

「えー。なんだ、できないの? 残念」

「・・・・考えを他人に『読まれる』など、気持ちのいいものではないと思うよ」

「うーん。そうかもね」






そう。

たとえば自分が難なく行ってしまえるそんなことが、時に、彼女らの能力外のことであったりする。
だからこそ、人間は自分たちを『神』と呼び、あがめたり怖れたりするのだが。



今の自分にとって、それは邪魔物以外の何でもない。
歯がゆくて、うっとうしくて、おぞましくて、たまらない。


千尋との間に、ほんの少しの距離も置きたくないのに。
千尋に、ほんの少しの距離も感じさせたくないのに。







もしも。




気味悪い、とか。
こわい、とか。

そんなふうに、この少女に思われたりしたら。







・・・・・身の置き所が、ない。

















「ハク? 聞いてる? ねえ?」

「あ、ああ、ごめん」


千尋が怪訝な瞳で見上げている。
このままではいけないと気を取り直し、彼はなんとか話題を変えようとする。




「蝋燭の香料は強すぎない?」

「ううん。いいにおいだね」



千尋は目を閉じて小さく深呼吸する。
蝋燭から漂う香りには、鎮痛効果や緊張緩和の効能があり、風邪で炎症を起こしている喉や、熱にきしむ頭にはありがたいものだった。


「そう。よかった」



とろりとやわらかくあたりにくゆる花香と。
散水のように、すいと空気をつらぬいて直線的に拡散する、かすかな酸味を含んだ果実の芳香。


確かにうまく配合された美香ではあるが、もともとが異質のものであるそれらは、どんなに重ねあってもひとつに溶け合うことはないと、ハクは思う。

それがまるで・・・・千尋と自分のようだと、感じてしまう自分は、、、、どうかしている。




「うそ」

「え?」

「いいにおいだと思ってる顔じゃないもん」

「あ・・そんなことは・・・・ごめんね、慣れない香りに少し酔ったのかもしれない」




ぽっとしているようで意外に鋭い少女の洞察力に、ハクは内心ぎくりとする。

そして、考えてもせんないことは、できるだけ思考の隅に押しやらねばと思うのだが。
それは布(きぬ)にぽとと落ちた薄墨のように、じわじわ広がる染みとなり、なかなか消えてはくれない。


こんなことにこだわるのは、愚かだと思うし。
こんなことにこだわっていることを彼女に知られるのは、恥ずかしいと思う。




「ハクが嫌なんだったら、ろうそく消してもいいよ」

「ああ、ごめん、そうじゃないよ。大丈夫」

「ハクがいてくれるんだもん。暗くてもわたし平気」



自身の体の方が辛いであろうに、けなげにこちらを気遣う少女を前に。
ハクは、くん、と胸を締め付けられる。



「悪かったね、気を使わせてしまって。そなたは病だというのに」

「・・・・・ハク」

「何?」

「今夜はよくあやまるね」





じっ・・・と音を立てて、蝋燭の炎がはぜた。
細かな火の粉がぱらぱらと水面に散り撒かれ、川面にしだれる柳枝のような光模様をそこここに映し出し。
ひと呼吸だけおいてから、闇色のなかに溶けて消えた。




「なにもハクはわるくないよ」

「・・・・」

「わたし、あやまられるようなこと、ハクになにもされてない」



あとにのこる、かすかな光の残像。
それは、線香花火のしまい火にも似て。




「ハク・・・何かあったの?」




いまだ不安定な炎の赤みは、水のいろに溶け込んで弱められ。
壁に映し出される灯かり影のかたちは、水に揺らされてふわりとまるくなったり、また細くなったりした。




「何もないよ。さあ、もうお休み」



ハクは静かに首を振って、会話を終わらせようとする。
養生させようと思って連れてきたというのに、逆に気を揉ませてしまうなど、・・・これでは本末転倒だ。



「でもね。あのね。ええと・・・」

それでも千尋は、懸命にことばを探し、視線を宙にさまよわせる。
なんとか思うことを整理して相手に伝えようと、たどたどしい口調で想いを紡ぐ。



「ええと、その・・・きもちが、少しよわくなってるときとか、うしろ向きになっちゃってるときとかって、、、、なんていうのかな、わけもないのに、つい、あやまりたくなったり、するじゃない?・・・だから、、、あの、、、、、、」



千尋はそこでいったん息をついで、丁寧に言葉を舌にのせた。









「やっぱり何か、あったんでしょう?」












見つめる瞳にこめられた、精一杯の少女の気持ち。

射ぬかれて包み込まれて。ハクは胸がいっぱいになった。

心寄せる娘が、こんなにも自分のことを案じてくれているというのに。
これ以上、何を望むというのか。

自分の中のくだらない葛藤で、彼女の心を煩わせるなど、男として情けないことこの上ない。


想う娘がまっすぐに示してくれる好意。
肩の力を抜いて、心をやわらかくして。素直に嬉しいと思えばいい。

誰に遠慮することもなければ、何にこだわる必要もないはず。



「千尋、すまな・・・」


言いかけて、ハクはあわてて言葉を止めた。

感謝の気持ちを伝えようとしたのに、つい、また謝罪の言葉が口をついて出るとは。
自分は、なんと気の利かない男なのか。


思わず苦笑しかけたとき。







----------千尋の顔がぐぅっと歪んだ。
















「・・・・・人間の女の子なんかに、・・・・話したって仕方ない?」













突如窓から吹き込んだ風にあおられて。
蝋燭の炎がごうと音を立てて膨らんだ。

真っ赤に飛び散る光の粉が部屋中に舞い乱れる中。
少女の声は、ふたたび涙混じりになっていた。











出口を見つけかけていた、少年のまよいごころは。







また、袋小路の中に閉じ込められた。














もう。

目の前で涙ぐむ少女を宥める余裕もなく。







言葉をなくして、その場に凍りついた。











「ハク」




おのれの名を呼ぶその声におののくように、ず、と後ろ手にあとずさった少年。

そのがちがちと震える袖に、千尋はしがみつく。



「いかないで! わたしのそばにいて!」



悲痛な叫びが部屋いっぱいに響いたが、今の彼に少女を受け止めるゆとりはすでになく、なかば逃げるようにして乱暴にその手を振り払う。


きゃあっ、という悲鳴から顔をそむけ。
彼女に背を向けた瞬間。





ぉぉぉぉおおおおお・・・っ






突然後方から立ち上った轟音と熱に、ハクがはっと我に帰って振り返ると、そこは四方から赤い炎に取り囲まれていた。

払いのけられた勢いで千尋が転んだはずみに、蝋燭を浮かべていた水鉢がひっくり返り、畳に引火したのだ。
乾燥していた狭い室内に、火の手はまたたく間に広がる。




「ハ・・・・」




めらめらと揺れる炎の向こうから、-----------千尋は、なおもこちらへ向かって懸命に手を伸ばし、無謀にも歩み寄ってこようとする。



「千尋!」


炎片が壁際の書棚に飛び火して、視界は真っ赤になった。
積み上げられていた膨大な書物はひとたまりもなく真紅の舌に舐め取られて原形を失い、無数の火屑となってばらばらと崩れ落ちる。
床にこぼれた焔は新たな火種となり、ぷすぷす軋(きし)みながら部屋を焼いた。




「動かないで!今助けに行・・・・!」




ぼうっ、とひときわ大きな音がして、部屋の真ん中に火柱が立った。
千尋が使っていた布団に火が移り、一気に火勢が増したのだ。


獣のように猛り狂う炎のまっただ中、桃色水干の肩に、ひとまとめに結い上げた髪に、容赦なく火の粉が降りかかる。
熱風が煙を巻き上げ、焦臭が鼻をついた。












炎と煙を蹴って。

千尋はいとしい龍の少年の元へと駆け出した。










水神の少年は。

無我夢中で、自分の『力』を使っていた。













♪この壁紙はシシイさまよりいただきました♪