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かたたん。かたたん。 ごぉーーーっ。 ちりん。ちりん。 遠くから聞こえる、電車の音。 ああ、もう、始発が出る時間なのか。 夜が明ける前に帰らなければ。 また、あの少女は。 きっと、まんじりともせずに、待っているに違いない。 身体は重いが。 なんだか、とても温かくて、心地よい。 このまま、もう少し眠っていたいような気もする。 冬の朝、ぬくぬくとした布団の中で二度寝を貪りたいときのような、気分だ。 いや。 起き上がろう。 今日は、千尋と電車で遠出をする約束をしていたのだ。 ・・・ハク・・・・ ・・ハク・・ 幻聴が。 「ハク? 気がついた?」 ぼんやりと戻ってきた視界いっぱいに広がる、懐かしい笑顔。 それが、今度は、歪む。 「よかった・・・・・」 自分の頬と唇にぽとりと落ちた、海の味がする、あたたかいもの。 それが、彼の意識を鮮明に呼び起こす。 「千尋!?」 少年が起き上がったのが早かったか、少女がその首にすがりついたのが早かったか。 「うっ、うぇ〜〜〜〜ん〜〜うううう〜〜〜〜え〜〜んえ〜〜んえ〜〜ん」 白い水干の胸に顔を押し付けて、大声で泣き出す、少女。 状況が、よくわからない。 「ち、千尋? どうしたの? どこか、痛いの?」 「え〜〜ん、え〜〜ん、えっ、えっ、えっ、あああ〜〜〜〜〜〜〜ん!!!!!」 背中でまだ、しゃくりあげている、少女。 「お、重いでしょ、、ハク怪我してるのに、、、わたし、歩くよ」 「大丈夫。もう、どこも痛まない」 少し、微笑む横顔。 泣くだけ泣いたら、疲れてしまったらしい。 足が立たなくなってしまった少女を背負って。 さくさくと森の中を歩く、龍の少年。 もうじき夜が明ける。 二人は、『駅』へと向かっていた。 次の休みのときでいい、という千尋を押しとどめて。 「約束したのだからね」 「でも・・」 龍の回復力は、驚くほど早いという。 とはいえ、まだ治りきっていない傷も、あるはず。 「この傷はね。自業自得なんだ。」 「え?」 なんのことだろう。 油屋の薬草畑を荒らすもののけと闘って負った傷ではなかったのか。 「さっき千尋が話していたね。森の神様に、私のもとまで連れてきてもらったと。」 「うん」 「森の神は、怪我をしていただろう?」 「なんで、知ってるの?」 「・・・・森の神を傷つけたのは、私だから・・・・」 少年は、目を伏せた。 湯屋の薬草畑に侵入したのは、あの神だったのだ。 あの、愛嬌のある森の神の事は昔から知っていた。 自分は、そこを流れていた川だったのだから。 龍神は、彼のことを、好きだった。 最近、あの森は人に手ひどく荒らされて、多くの動物達が傷ついていると聞いていた。 おそらく、その動物達を癒すために、薬草が必要だったのだろう。 そのくらいの察しはついていた。 しかし。 湯婆婆の命は拒否できない、呪われた我が身。 昔世話になった神に、恩を仇で返すようなことをした。 だから。 この傷は、当然の報いだ。 千尋が、かの神を癒してくれたと聞いて、心底ほっとした。 「千尋。ありがとう」 「どうして?」 「そなたは、私の心を軽くしてくれる」 「??」 わからなくても、いい。 少女の存在が、どれほど自分をほぐしてくれているかということなど。 「あの。ハク」 「うん?」 「足、痛くない?」 「別に? 何故?」 「だって・・・ハク、裸足だもの」 ああ。気にも留めていなかった。 片方は術に使ってしまったし、もう片方は鼻緒が切れて履けなくなってしまっていたし。 「平気だよ」 「ほんとに?」 「ほんとに」 駅が見えてきた。 あかつきの空の向こうから。 折りよく、電車が近づいてくる。 少年が懐から取り出した小さな2きれの紙片を、車掌が手動のシュレッダーで細かく裂くのを、千尋は不思議そうに眺めていた。 「ハク、いつの間に、切符買ったの?」 「これはね。本当は、油屋から電車でお帰りになるお客様にお渡ししたりするものなんだけどね」 「あーー! 帳場頭さんが、そぉいうこと、していいの?」 「あとで、千尋の給料から、引いておく」 「えーーーー!!!!」 紫だつ東雲(しののめ)の中を。 滑るように走る電車。 他には乗客もなく。 思えば、湯屋に入ってから、こんなにゆっくり二人だけでいるのは、初めてではないだろうか。 「どこまで行きたい?」 「どこでも、いいの?」 「いいよ」 「じゃあ・・・市へ行きたい」 女というものは。 皆、買い物が好きだから。 少し微笑む少年。 「市が立つのは、確か今日までだったね。何か欲しいものがあるなら、買ってあげるよ」 「ううん。わたしがハクに買ってあげたいものがあるの」 「ふうん。楽しみだね」 翡翠の瞳が、細められる。 「何を買ってくれるの?」 「ないしょ!」 ハクに買ってあげたいもの。 それは。 ・・・・・新しい草履。 あまり上等なものは買えないけど。 おとうさんを助けてくれた、お礼。 かたたん。かたたん。 こくり。 かたたん。かたたん。 こっくり。 -----------ふふ。急に大人しくなったと思ったら。 無理もない。一晩中、不安と戦いながら私の傍らについていてくれたのだから。 かたたん。かたたん。 こくん・・・はっ! 睡魔に襲われて、船を漕ぎかけていた千尋が、ばっと目を開ける。 「眠いのだろう? 着いたら起こしてあげるから、少し寝なさい」 くすくす笑う、龍の少年。 「ううん! 子供扱いしないで! 平気だもん!」 それならば、と、ささやく少年。 「実を言うと、私は少し、疲れた。まだ時間はあるから、ひと眠りしても、いいかな?」 「うん! わたし、ちゃんと起きてて、ハクを起こしてあげる」 「頼むよ」 ・・・・・ほどなく、少年の肩に愛らしい重みが寄りかかる。 さらさらと、白い水干にこぼれる、茶色がかった柔らかな髪。 すうすうと、規則正しく繰り返される、息の音。 少女に気づかれないよう、そっと片目だけ開けてみると。 力の抜けきった細い右手が、まるい膝小僧から今にもずり落ちそうになっていた。 ハクは、静かにその手を取って、千尋の膝の上に戻してやる。 それだけのつもりだったのだけど。 そのまま自分の手を離して、こちらへ戻すつもりだったのだけど。 ---------構わない、だろう・・・・・少しの間だけなら。 その小さな手を離すかわりに。 少しだけ、力を込めた。 かたたん。かたたん。 紫だつ東雲(しののめ)の中を。 滑るように走る電車。 あけぼのいろに、頬を染めているのは。 寄り添う二人か。 それとも、車窓を流れる朝の雲か。 かたたん。かたたん。 かたたん。かたたん。 かたたん。かたたん。 <<<おわり>>> *お口直しに、もう一度、イラストをどうぞ* |