その何日か前のこと。
新商品『油屋いろはかるた』の字札をすべて書き上げれば、千尋とふたり、一泊二日の休暇を出す、と湯婆婆はハクに約束した。
ハクがやっとの思いで字札をそろえ、湯婆婆に差し出すと。
「ああ、ご苦労さん。下がっていいよ」
「は・・・?」
「聞こえなかったかい? 下がりな、って言ったんだよ。」
「あ、あの・・・例の、『約束』は・・・」
「ああ?」
「『約束』・・・です」
「何だっけ?」
く。しらばっくれるなんて。
・・・・・い、言いにくいではないか。
「字札を書き上げれば・・・・『休み』をいただけると・・・」
「ああ! アレのことかい!」
「思い出していただけましたか」
頷く湯婆婆に、ほっとする、ハク。
「思い出したよ。センをどっかに
連れ込みたいとか言・・・」
「『連れ出す』、のですっっ!!」
・・・・に、日本語は正しく使ってもらわねば!!
がしかし、女経営者はむきになった少年の様子を、爪の先ほどにも気に止めることなく。
「しかしねぇ、営業日に二人揃ってフケられたりしちゃあ、下のモンに示しがつかないだろうが」
「はあ・・しかし、『約束』では・・・」
・・・・それを楽しみに、幾晩も、幾晩も、幾晩も、徹夜をして、、、、
ハクは長い睫毛を伏せ、指にできたいくつもの赤い筆マメを見やる。
「泣くんじゃないよ、そのくらいで」
「泣いてなどいませんっっ!」
「ちょいと気に入った小湯女の二人や三人に手ェ出すくらい、ごちゃごちゃ言わないけどね、あたしゃ。」
「『一人』です!!!」
だから!日本語は正しくっ!!!
「『不倫旅行』ってうのはちょっとねぇ。」
「『不倫』ではありませんっっっ!!!!」
日本語知らんのかっ!!
独身だっ!ふたりともっ!
目の前に食い下がる少年の額を、つんつんときせるで小突きながら、湯婆婆は続ける。
「ともかくね、えこひいきは困るんだよ。なんせ女の多い職場なんだから。」
そ、そんなことは、言われなくとも!!
・・・・贔屓するどころか、皆の前ではむしろそっけなくしているくらいなのだ!
反論しかねてじりじりしている少年を横目に、ぷはーーーっと煙草の煙を吹き出し、湯婆婆は思案顔。
「でもまあ、『約束』を反故(ほご)にするのは掟に反するしね」
そうそう。破っては、いけないのだ。『約束』は。
少年の瞳に、ほっとかすかな希望の光が。
「だから、あんたから
『辞退』してくれないかね?」
がぁるがるがぁぁあーーーーーーーっっ!!!
いきなり龍姿となってしまい、湯婆婆に噛み付かんばかりの、ハク。
の、頬をぺしぺしと叩きながら。
「ああッ、うっとうしいッ!!! やめなってば、みっともない! わかったよ!」
じゃあ来週の末、廿日(はつか)の日から休みをやるよ、二人してどこにでも好きなとこ行っといで、と彼女は言い渡した。
安心して、少年の姿に戻る、ハク。
だが。
「あ、その日は・・・油屋の『社員親睦旅行』の日では?」
「ちょうどいいじゃないか」
「・・・・は・・?・」
・・・・反論しようとして、、ハクはやめた。
確かに、湯屋の営業日に二人そろって休みを取ると、きっとリンや坊が勘繰ってうるさいだろう。
ふたりで手荷物を風呂敷にまとめ、仲良く太鼓橋を渡って出かけるところなど、皆に見られたときには。
特に、大湯女連中に見つかりでもしたら。
・・・・・・何を言われるかわかったもんじゃない。
社員旅行に欠席するほうが、まだ目立たないか。
もし何か言われても、言い訳など、いくらでもできるし。
帳場の仕事が残ってしまって行けなくなった、とか。
急な出張を命じられた、とか。
千尋の方は・・・・・・まあ、何とでも言い逃れできよう。
頭脳明晰な帳場頭のこと。
口実とアリバイ工作くらい、いくらでも思いつく。
・・・・恋する乙女、いや龍神はいくらだって強くも、小ずるくもなれるもの。
「いい考えだろ?」
意味ありげに、にやりと目尻で笑う、魔女。
「はあ・・」
「それともあんた、『社員旅行』とかって好きだったかね?」
「いいえ。」
もちろん、彼にとって社員旅行など、気の進むものでもない。
千尋とふたりで過ごす方がずっといいのは、言うまでもなく。
「承知いたしました」
うまく丸め込まれているような気がしないでもないが。
まあ、いい。
一方、湯婆婆にすれば。
湯屋営業日に、ハクに帳場を留守にされるというのは、できれば一日でも避けたいところ。
それに、旅行代金の会社負担金が二人分浮くのも、ありがたい。
今週中に手続きすりゃあ、ぎりぎりキャンセル料もかからないし。
もちろん、この子らが出かける費用は、自前。こっちの知ったこっちゃない。
ほほっ。
ほんと、抜け目のない湯屋経営者と。
目の前にニンジン、もとい、千尋をぶら下げられた龍の少年との間で。
・・・・『商談成立』。
しゃんしゃん♪
ハクは、静かに頭を下げて、湯婆婆の部屋から退出した。
ぱたん。ドアを閉め。
そして。
弾む足取りで、エレベーターへ。
しゃ〜あ♪ しゃ〜あ♪ しゃ〜あ〜あ〜〜〜〜♪♪
おっといけない、気持ちが浮き立って、思わずまた龍姿になっていた。
これではエレベーターに入れない。
白龍は、何食わぬ顔でまた少年に戻り。
エレベーターの中に姿を消した。
その後ろ姿を。
目を丸くして固まったドアノブが、呆然として見送った。
「・・・・・・『龍のスキップ』・・なんて。。。初めて見たよ・・・・・・」
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