豊穣な八重桜の古木のひとむらが、なみなみと湯をたたえた岩風呂に甘い影を落とし。
桜花にけむる、たおやかな、湯。
湯気にけむる、ひさかたの、月。
二つの川がひとつになる流れの中ほどにある、こんもりとした中州。
そこにしつらえられた、温泉宿『櫻屋』の別邸。
竹で作られた透垣(すいがい)の向こう。
満開の桜に覆われるようにして。
隠し湯のようにひっそりと、夜空をあおぐ湯殿がしつらえられている。
山中に気まぐれに沸いた天然の湯場のような趣で。
「千尋。先に湯を使っておいで。わたしは宿帳を書いているから」
そう言われたもので、素直に先に湯に身を浸している、千尋。
ほこほこと湯気をあげる水面に、桜の花びらがあとからあとから舞い落ちる。
それらは次々と折り重なり、花筏(はないかだ)をなして、ゆったり川へ流れ落ちてゆく。
ほんとに桜のきれいなお宿。
お風呂から上がったら、縁側にお料理運んでもらって、
そこで食べたらおいしいだろうな。
あそこから見た桜の花もすごくきれいだったし。
楽しみだな。
そうそう、ハク、お酒飲むよね。
忘年会のときも新年会のときも、ハクにはお酌してあげられなかったし。
今日はいっぱいお話しながら、お酌もしてあげようっと。
ああ、そのまえに、ハクをお風呂でお世話してあげないと。
うふふ。
わたし、湯場でのお仕事、だいぶじょうずになったと思うんだけど。
ほめてくれるかなあ。
なんとなくうきうきと楽しそうに湯に浸かっている、桜色の、少女。
一方、部屋の中では。
沙耶の差し出した茶------塩漬けにした桜の花びらを浮かせてあり、ほんのりとかぐわしい春の、茶-------を前に。
ハクの。
筆を持つ手が、一瞬止まっていた。
「あの? どうかされました?」
『櫻屋』の若女将にけげんな顔をされ、ハクは、はっと気を取り直し、再びさらさらと宿帳に筆を走らせた。
おとまり: 卯月廿日
おところ: 不思議の町 川向う2丁目3番地 湯屋『油屋』
おなまえ: ハク
妻 セン
少年の書いたものを深く気に止める様子もなく、沙耶はさらりとそれを受け取る。
うぐいす色のちりめんに、枝垂桜を染め抜いた着物がよく似合う。
『 妻 セン 』
・・・・・・・・・・・・。
・・・・別に、この宿の者以外の誰に見られるわけでなし。
彼らとて、宿帳に記載されたことがらの隅々まで詳細に読んで見咎めるわけでもないだろうし。
ちょっとした、遊び心というか。
若干の希望をこめた、軽い冗談というか。
『妻』か。
ふむ。
悪くない。
『妻 セン』
くっ。
くくっ。
くくくくくくくくくくくくくくーーーーーっ
・・・・・沙耶が、心配そうに少年の顔を覗き込み、その額に手をあてた。
「あの。・・・ハクさま? どこか、お加減でも?」
* * * * * * * * * *
どん!
ばささっ。
「あっ、すみません、お客様、粗相を・・・・」
沙耶は、ハクの部屋から退出したとたん、廊下の角で出会い頭ぶつかってしまった客に詫びた。
「・・・・・・・・」
「申し訳ございません、だいじょうぶでございますか?」
「・・・・・・・・」
ぶつかった拍子に取り落とした宿帳が、床にばさりと広がっている。
・・・その、声出さぬ"相手"の視線は、その宿帳のとある1ページに釘付けになっていたのだが。
沙耶はさりげなくそれを拾い上げると、とんとんと整えた。
「どうも失礼いたしました。ごめんくださいませ」
「・・・・・・・・」
物言わぬ相手に、愛想良く会釈をして、その場を去り。
彼女の姿が見えなくなってから、その客はやっと、一声を発した。
「・・・・・ア・・・ッ・・」
そして、くるりときびすを返すと。
「ァアアアアアア〜〜〜っっ!!!##」
・・・泣き叫びながらどこかへ走り去って行った。
* * * * * * * * * *
「アッ、、アッ、、、アアアアーーーーッ!」
ぽろぽろと涙を流しながら、一生懸命、何事か言わんとしている、黒い仮面男。
「何なんだよー。いったいさぁ」
あぐらをかき、じれったそうに問いただす、狐娘。
こいつが取り乱すってことは・・・
「なぁ、カオナシ。ひょっとして、センがどうかしたとか? あいつ、今日はここには来てねーんだけどさ?」
とたん、泣き叫ぶ声が1オクターブ上がる。
「アッ! アアッ! ああああぅ〜〜〜〜〜〜〜っ!!! ああっあぅあうあっ!!」
・・・大当たりらしい・・・。
それならば、なんとしてでも、聞き出さなくては。
「だから! 泣いてるだけじゃ、何なのかわかんねーだろーがっ!」
「いったいどしたんじゃ?カオナシよ?」
蜘蛛の老人が、むしむしとひげをさすりながら、尋ねる。
ここは『櫻屋』本館。
その大広間で。
あうあうと泣き喚いている黒いの。
そして、それを取り囲んでいるのは。
手足が8本あるのと。男勝りだけど、まあ、小綺麗な女と。ころころ太ったネズミの子と。毛虫みたいな鳥と。巨顔の魔女姉妹と。その他大勢、油屋従業員一同雁首そろえ。
「ちう? ちうちうち?」
「あれ、坊。・・カオナシの通訳できんの?」
「・・・・・・・・
ちうぅ」
その間も、おいおいと泣きながら何かを必死で訴え続けている、黒いの。
「ああッ! まどろっこしいったらッ! いったい何が言いてーんだよっ!」
「リンよ。無理じゃて。コイツは・・・・誰かの声でも借りんかぎりは、話せんのじゃから・・・」
「ん?『誰か』の、声?」
ちら、と狐娘の視線を感じて、大慌てで巨大な赤ん坊姿に戻る、子ネズミ。
「坊は無理だぞーー!こんなにおっきいんだからな!!!なー?!カオナシー??」
「アァ。。。。(うん、ちょっとサイズオーバー)」
次に視線を感じたハチドリが引きつる。
「!?!?っ」
が、これにはカオナシが首を振った。
「アアー。。。。(こいつ飲み込んだって、話せないじゃん)」
「それじゃあ・・・」
「な、ななななな、なんじゃい、リン! 年寄りに向かって何を言う気じゃ!?!」
「・・・・釜爺、言い出しっぺじゃんか」
「・・・・・ア゛ア゛、ア゛ーーー(すんません。なんぼなんでも堪忍したってください)」
正直不味そうだし・・・、とまどいがちに首を振る、カオナシ。
「じゃあ、、、申し訳ないっすけどぉ・・・」
「ええっ!! 冗談じゃない、あたしゃごめん・・」
「ァアッ!? アアアアアアアアアアーーーッ!!!」
妹魔女が言い終わるよりも先に、カオナシはぶんぶんと激しくかぶりを振った。
「・・・・なんなのさ。そのリアクションは。」
「
アッ?!・・・・ア・・・・ァ・・」
「ん?」
つんつんと突付かれてリンが振り向くと。
「・・・・アぅアぅ・・・ア・」
遠慮がちに、しかし、はっきりと彼女を指差しているカオナシ。
「げっ!?」
「アアアぅ、アん、アアぅ・・♪」
もじもじと、身体をゆする。
釜爺が、カオナシの通訳 (?)を。
「どうせ飲むんじゃったら若い娘の方がいいらしいのぉ」
「えーーッ! あたいに押し付けるのかよ」
とたん、まわりからやんやと声がかかり。
「そうそうリンが適役だぞ」
「はよぅ行け」
「骨身を惜しむなよ」
無責任なカエル男達に、リンが声を荒げる。
「やってらんねぇよッ!」
「可愛い妹分のためだろうが」
「〜〜〜〜〜〜〜〜!」
あんぐり口を開けてスタンバイしている、カオナシ♪
「ホホホホホ きたないねぇ・・・・」
手を合わせた釜爺が、彼の『座右の銘』を、つぶやいた。
「リン・・・手ェ出すんなら、しまいまで、やれ・・・」
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