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<<< 紙風船 (3)>>> 

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紙風船を打ち打ち、からころと歩いていた千尋を、若い男の声が呼び止めた。




「ねえ彼女。一人で来てんの?」

「え?」

彼女。
・・って、わたしのこと?



千尋が振り返る。
ほとんど襟も抜かず、胸元もきゅっと詰めて着ている藍染め浴衣。
妙なしなを作ることを知らない、清楚なうなじが。
むしろ不思議な色香を醸し出していることに、本人は気付いていない。



「あれ? 君さ、どっかで会ったことない? 初めて会った気がしないんだけど」
祭の法被(はっぴ)姿の若者が、前歯を半分見せて笑う。


「ええ・・と?」
そうだっけ? 覚え、ないよう・・・。


・・・・・『どこかで会ったことない?』『初めて会った気がしないね』
俗っぽい誘いの常套句だということくらい、知識としては、知っていたはずだが。

そういう駆け引きに免疫のない少女は、面食らう。


「いやぁ、可愛いなぁ。すごく似合ってるよ、その浴衣」
相手がはっきりとした拒絶の態度を示さないことに気をよくした男は、馴れ馴れしく千尋の肩に手を置く。

「一人でいたって面白くないだろ?一緒に遊ぼう」

「え?ええ?でも、あの・・・」

「ほら、あっちで面白そうなの、やってるし」

手慣れた調子の男のペースにずるずると引きずられ、肩に置かれた手を振り払うこともできず、目を白黒させている千尋。


「にしても、蒸し暑いなー。これ冷たくておいしいよ。飲む?」


べらべらと一方的にしゃべる相手に、どう対応したらいいのかわからないまま、
紙コップに入れられた透明な飲み物に口をつける。


「ーーーーーーーーっっ!!!!」


口の中が、ひりひりする!!
喉の奥が、熱い!!
胃袋が、ひっくり返る!



「あれ。どしたの」

「こ、これ、お酒じゃないですか!」

「そうだよ。冷酒。口当たりいいだろ」

「辛い〜〜〜〜〜〜〜!」

「え?かなり甘口だと思うけど?」
男は咥え煙草を揉み消して、むせる少女の背をさする。




櫓(やぐら)太鼓ががんがんと頭に反響する。
さきほどまでは、あんなに小気味良く聞こえていたはずの、その音が。
突然、いいようもなく不快な大音響となって、襲いかかってきた。
少女は、思わずしゃがみこむ。


線香花火を束ねてあった紙縒り(こより)が解けて。
それらがばらばらと足元に散らばる音さえも、鼓膜を激しく逆撫でする。



「ごめんごめん、ちょっと休む?」
派手な祭法被の堅い肩が、ほっそりとした少女を背からゆらりと包み。
人の流れを避けて、参道の脇に座らせた。


次に、千尋の視界が暗く遮られて。
薄く笑う唇の端が見えた。




   あ。いけない。どうしよう・・・・。




ぽとり、と食べかけの白い龍が。
落ちた。





煙草臭い匂いが急に近く感じられ。
祭囃子がうんと遠くに感じられた。




自分の身に何が起ころうとしているか、は、おぼろげにわかる。
が、頭の芯が痺れて、うまく身をかわせない。




がくがくと震える指先から。
ぽろん、と紙風船がこぼれ落ちた。





あ・・・っ!!




そのまま紙風船は、突風にひょお、とさらわれて。
つつつうーーーーーーっと横滑りに参道の人流れに紛れ込む。




紙風船!わたしの!!
踏まれちゃう!






少女は男に奪われていた体重を懸命に取り戻し、我が身をその腕から引き剥がした。
背に回されていた力を、ありったけの力で振り払って、紙風船を、追う。


「あ!? おい、君ー!!」
男はあわててその袂(たもと)を引き掴もうとしたが。
それまでほとんど無抵抗だった少女の、突然の行動の変化に、またたき一つの差で追いつかなかった。


「おーい!!待てってば!」

濃紺の浴衣をひるがえして、その後姿はよろよろと人いきれに呑まれてゆく。

それを追う、法被姿の男。





月を抱く棚田をかすめて吹いた、一陣の川風は。
『誰か』の故意か。偶然か。
少女のたからものをさらったまま。
歌うようにひょうひょうと吹く。


そのいたずらな風が一瞬ゆるみ、紙風船の動きが止まったのを見定めて。
千尋はばっと手を伸ばした。





取った!







と、思ったのだが。


伸ばした指先に、しゃらっとした油紙の感触だけを残して、
紙風船は、今度はしゅるりと上空に舞い上がる。



ちんからしゃーん。どんどんどん。
ひゃら、ぴーひょろろ。どどどん、どん。




祭囃子とつむじ風にあおられて。
紙風船は踊るように、飛ぶ。
人波の、頭すれすれに。
遊ぶように、舞う。

朦朧とする意識を必死で奮い起こし、息を切らせて追う少女を連れて。




から、、ころからころ、からころ、、、、から、ころ。


下駄の音を不安定に響かせ。
ぶつかる人、人、人に、ごめんなさい、と謝りながら。
もつれる足で転がるように走る自分の姿は、
傍目にはどんなにか無様に見えることだろうとは思ったが。

そんなことを気にしてはいられなかった。





からころ、から、、ころ。から、ころ、ろん。



頼りなげなその丸みは、ふわふわと表参道を離れ。

古ぼけた鳥居をくぐり。


やがて、・・・・足元もおぼつかない、昏(くら)くて、草深い横道へ。







待って!待って!
行かないで!
わたしの、大事な紙風船。


待っ・・!!!





・・・・・・べしゃ!









・・・・・・・。





「・・・痛・・・ぁ」



履き慣れない下駄が片方脱げて、転んでしまった。




目の前にころがっている紙風船。
やっとの思いでそれに手を伸ばし。

そっと胸の中に抱きしめて。
少女は肩で息をした。
もう、動けなかった。





「あーあ。急に走ったりするから。回っちまったろ?」




その声に。
千尋は、びくりと身を固くした。



ばさばさ、ばさばさばさ。



無遠慮に草を踏み分けて近付いてくる、足音が。
地に伏せる少女の耳に、届く。

千尋は恐怖に凍りついたが、
もう逃げ出すだけの余力が残っていなかった。




「自分からこんなとこに『誘っ』てくれるなんてさ。手間はぶけて、いいや」




夏草を分ける足音は、どんどん近付いてくる。





    ああ。こんな、背伸びした装いをしてくるんじゃなかった。
    年相応の、金魚の浴衣で、来れば良かった。







ぎゅうっと目を瞑った少女の体が。
ぐい、と荒々しく抱き取られ。



千尋が声にならない悲鳴を上げようとしたとき。








「ここはそなたの来るところではない。すぐに帰れ」









頭の上から、凛とした涼やかな声が響いた。






え?






恐る恐る目を開けると。




すぐ目の前にあったのは。
派手な祭法被ではなく。
白い、麻絣の縞の着物。



そおぉっと視線だけを上げると。
自分を腕に抱いているのは。


追いかけてきた男ではなく。

それより幾分若そうな------少年と言ってもよいかもしれない-----驚くほどに美しく顔立ちの整った男の人だった。




    あ・・・・。このひと・・・・?





見覚えが・・・ある?
水面のように張り詰めた、深い碧の瞳。
肩口で切りそろえられた、まっすぐの髪。





法被の男は、闖入者が若く、また、体格的に自分の方が上だと見て取って。
鼻で笑った。
「なんだよ。邪魔すんなよな。お子様は向こうで待ってな」


男は少年を軽く小突き、少女の藍染め浴衣の襟首をぐい、と掴んだ。



-------嫌ーーーっ!!


咄嗟に千尋が少年にしがみつき、その胸に顔を埋めたのと。
少年が、男の手をさっと振り払ったのとは、ほぼ同時。


「うわっ!?」



どすん、と存外に大きな音がして。
驚いて千尋が振り返ると、男は顔から地面に突っ込んでいた。



茂みに転がった男は、一瞬、状況がつかめなかった。
手を振り払われただけのはず。
投げ飛ばされた、のか?
相手が細っこいのに油断して、虚をつかれたか。



男は声を荒げた。
「何しやがるッ! 俺が釣ったんだ。横取りすんじゃねえ!」

ばっと体勢を立て直すと、煙草臭い息を撒き散らし、
少年の胸倉に、がっ、と掴みかかった。



少年は冷たく澄んだ表情一つ変えるでもなく。

少女を腕に庇ったまま、
まるで、まとわりつくうるさい蚊を叩き落とすかのように。
ぱし、とその汗臭い二の腕をはたいた。


・・・ように、見えたのだが。




少年の手が男の腕に触れたかと思った瞬間。




----------------げしっ。




骨が折れるいやな音と、男の悲鳴が聞こえた。




   ・・・・何・・・・・?


恐る恐る後ろを見返った千尋が見たものは。


尻餅をついて腰を抜かしたまま、怯える目でこちらをうかがう男の姿だった。
ぶらんとした右腕を庇いながら、じりじりと後ずさりしようとしている。




「・・・・立ち去るがいい」



不思議な威圧感に満ちた声が、夜風に響き。


祭法被の男は、弾かれたように立ち上がると、一目散に走って逃げていった。




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