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少年は、ほう、っと大きなため息をついた。 そして、腕の中で、まだがちがちと歯の根も合わずにいる少女に、ゆっくりと語りかける。 「よかったね。何事もなくて」 少女の唇が、ありがとう、の形にかすかに動く。 が、声が、出ない。 「もう少し、こうしている?」 少年の膝の上に抱きかかえられているような格好のままでいるのは悪いとは思いながらも、千尋は、うん、とうなずく。 「もう少し、だけだよ?」 もう一度うなずく少女を、麻絣の袖がそっと包み込む。 ・・・・りぃぃぃいいいん。 ・・・・・・りぃぃぃいいいいん。 その袖にしがみついている少女の耳に。 季節はずれな、細く澄んだ音が切れ切れに届いた。 あ? 鈴虫の・・・声・・・? まだ、七月の初めだし。 虫が鳴くには、早すぎるけど。。。。 「あのね。そなたのような若い娘が、見知らぬ男に簡単に気を許してはいけないよ」 鈴虫の声と、どこか似ている少年の声。 「危ない目に、遭うよ?」 その声に酔うように、うん、と千尋がまたうなずいて。 ぴた。 と、さらに少年に身を寄せる。 「・・・・・意味がわからないかな」 わからないので、けげんな瞳で少年を見上げると。 彼は苦笑していた。 「いや、いいよ。」 「・・・?」 ・・・・・りぃぃぃいいん。 ・・・りぃぃいいん。 季節はずれの鈴虫の鳴き声が、耳に心地よい。 少年の腕の中にいるのも、心地よい。 千尋はやっと、さきほどまでの恐怖から解き放され、元気を取り戻しつつあった。 ・・・・・りぃぃぃいいん。 ・・・りぃぃいいん。 狂い鳴きする鈴虫の。 透明な歌声に混じって。 ・・・・・・ちゃぷちゃぷちゃぷちゃぷちゃぷ。 水音。 川の流れのような。 ええと。 この辺に、川なんて、あったっけ・・・・ りぃぃぃぃん・・・・りぃぃぃぃぃん・・・・ ちゃぷちゃぷちゃぷちゃぷちゃぷ。 昔は、子供が遊ぶ川もあったらしいのだが。 もう、とうに埋め立てられて、その下流には今ではマンションが建っているという。 川の水は田畑に回す灌漑(かんがい)用の用水路へ回されてしまったと、聞いた。 そういえば、祭囃子が聞こえない。 そんなに遠くまで走ったっけ。 ちゃぷちゃぷちゃぷちゃぷちゃぷ。 りぃぃぃぃん・・・・りぃぃぃぃぃん・・・・ 「つぶれてしまったね」 「え?」 「紙風船」 「あ! ほんとだ」 自分が彼にしがみついていたから。 二人の間にはさまっていた紙風船は当然ぺちゃんこになってしまっている。 少年はそれを手に取ると、ふうっとふくらませて、渡してくれた。 「・・・ありがとう」 会話はそこで、途切れてしまう。 ・・・・何か、、もっと話をしたい。。。 何でもいい。 話の糸口がほしくて。 とりあえず、千尋は尋ねてみる。 「ここ、どこなのかな? この辺に川ってあったっけ」 しかし、彼はそれには答えてはくれず。 脱げたままだった片方の下駄を、思い出したように拾いあげ、袖口で丁寧に汚れをぬぐってから、履かせてくれた。 「・・・・・送るよ。立てる?」 「立てない。」 千尋は即座に否定した。 「まだ、立てないもん」 拗ねたようにぷいと横を向くと。 少年は苦笑して、すい、と抱え上げてくれた。 「えっ!?!? あっ、えっとっ!!! そういう意味じゃなくってーーーっっっ!!」 抱っこして連れてって、っていうつもりで言ったんじゃ、ないーーーー! 大慌てで、降ろしてーー!、と、じたばた暴れると。 少年はあっさり降ろしてくれた。 「じゃあ。どういう意味かな?」 不思議そうに微笑まれて。 千尋が、う・・・と口篭もっていると。 「足は大丈夫のようだね」 ・・・・・あっ・・!!!!! しっかり二本の足で立っている自分。 に気がついて、がーーーっと恥ずかしくなる、千尋。 少年はくすくす笑いながら少女の足元にかがみこむと、浴衣の裾についていた枯草や砂をぱんぱんと払い落としてくれた。 そして。 そのまま、瞳をまっすぐ上げて、月明かりに照らされた少女の顔を、少しまぶしそうに・・・そして少し寂しげに見上げて、言った。 「綺麗になったね」 言われ慣れないことをさらりと言われて、千尋はまたまたばーーーっと赤面してしまいながら。 その言葉の、言外の意味になど気づかないまま。 この浴衣を着てきて、よかったぁ。 現金にも、そう、思った。 「ほら、もうどこも汚れていないよ」 そう言いながら、少年は立ち上がる。 ・・・・・・・。 う? うわ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ! やだ、「そういう」意味だったのっ?! 自分自身が「美しい」と誉められたのじゃなくて、 汚れを落とした浴衣がきれいになった、と? 一瞬でも有頂天になったのが恥ずかしくて、千尋はまた、頭から湯気が出そうになる。 そんな、ひとりで百面相をしている少女の表情が面白くて。 また、少年はくすり、と笑う。 「・・・・・・・わ、笑わないでぇ。。。。。。」 千尋は、半べその真っ赤な顔を、紙風船で隠す。 「もうじき、雨が来るから・・・その前にお帰り」 え? たしかさっきまで、まんまるのきれいなお月様が出ていたはずなのに。 千尋は、両手で顔の前に持っていた紙風船のかげから目だけ出して、ちら、とまわりをうかがう。 川音と鈴虫の声が静かに響く中、あいかわらず、月は明るい。 「雨なんか、降らないよ。」 「降るよ」 「わかるの?」 「うん。雨を呼ぶことはもう出来ないけれど、水の匂いはよくわかる」 「・・・・・・・・」 意地悪言わなくてもいいじゃない。 そんなにしてまで、帰らせたいかな。 紙風船でまだ顔半分隠しながら、千尋はすこうし拗ねたふくれ顔。 りぃぃいいん。 りぃぃいいいん。 ・・・・・ぽつっ。 「!」 ぽつ。・・・ぽつん。 「やだーー! ほんとに雨!?」 ぽつん。ぽつん。 ぽつぽつぽつぽつぽつぽつ。 ほんとに、降ってきた! 千尋は慌てて紙風船を袂(たもと)にかばう。 「・・・だから、言っただろう?」 そう言いながら、少年は。 紙風船を濡らすまいと流水模様の浴衣の袖を引き寄せる少女を。 ・・・・・・自分の袂の中に、庇った。 その仕草は、親鳥が雛(ひな)を翼の下に庇うのに、似て。 ぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつ。 雨はまたたく間に本降り模様に。 「・・・・仕方がないね。私のところで雨宿りしていく?」 「うん!!!!」 * * * * * |