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さわさわと降り出した雨の中。 少年に伴われて歩みを進める。 大事な紙風船は、雨を避けて、自分の袂(たもと)の中にくるんで。 自分の髪は、少年が白い着物の袖にかくまってくれているから、濡れることはない。 肩先は。 少しだけ、濡れる。 でも。 それよりも。 「あの・・・・あなたが、濡れちゃうよ」 袖の下から遠慮がちに声をかける少女に。 少年は涼やかに微笑んだ。 「平気だよ。雨に濡れるのは、好きだ」 自分に気を遣わせまいとしているとかでは、なく。 ごく自然にそんなふうに言ってくれるので。 気負うことなく、甘えられる。 なかなかいない。こんな人。 そんな少年の振る舞いに。 すぅっと心が引き寄せられるのが、わかる。 ずぅっと、こうやって歩いていられたらいいのに。 とは、思ったが。 ほどなく草原が切れて、川原に出た。 「あそこだよ。雨が止むまで、休んでおゆき」 少年の指差す先に、碧い川が横たわっていた。 そのほとりに、簡素な板造りの船着場があって。 船止めの杭に、もやい綱を渡して、一艘の屋形船が浮かんでいる。 近づくにつれて。 提灯をともしたその船のかたちが、はっきりわかるようになってくる。 船の舳先に、藁蓑(わらみの)をすっぽりとマントのようにまとった船頭が座っていた。 笠はかぶらずに、フードのように首の後ろにかけて。 つるりと禿げた頭と、小さな丸い黒眼鏡。 少年に連れられて、ほとほとと歩いてきた少女を見て。 船頭は顔色を変えた。 「ハク! 話が違うぞい!?」 少年は落ち着いて説明する。 「『連れて帰る』わけではありません。・・・・『川の向こう』の雨が止むまで、雨宿りをさせるだけです」 千尋は、少年を見上げて尋ねた。 「あなた、ハク、って言うの?」 「・・・そうだよ。」 「ふうん。きれいな名前だね。」 「そうかな」 何故か少し寂しげな微笑。 「わたしも、ハクって呼んでいい?」 「・・・・・いいよ」 少女の様子を見た船頭が、心なしかほっとした表情を浮かべる。 --------ああ、何もわかってはおらんのだな。 少年は船頭に向き直って、声をかけた。 「おじいさん。すみませんが、『向こう』の雨が止むまで、船を出すのを待ってくれませんか」 千尋は、ハクという少年に手を取られて、提灯をほんのりともした屋形船に乗り込む。 窓辺の御簾はすべて巻き上げてあるが。 一箇所だけ、巻き上げていないところが。 なぜだろう、と千尋がよく見ると。 ほっそりとしたうす緑色のつる草の鉢植えがそのたもとに置いてあって。 それが、孟宗竹の御簾をつたって絡まっている。 『朝顔につるべとられて・・・』ではないが、御簾を巻き上げるとそのつる草が根元から千切られてしまうので。 それで、その一枚だけ、御簾は下ろしたままになっているらしい。 我が物顔に御簾を占領したつる草は、ほっそりとした姿のわりに、なかなかにしたたかな生命力を発揮していて。 そこここに白い小さな粉のような花を咲かせ。 また、ちょうどひとさし指と親指で作った円くらいの大きさの、淡い黄緑色のふうせんのような可愛らしい実をたくさんぶら下げている。 千尋がそれに見入っていると。 「風船鬘だよ」 「ふうせんかずら?」 「うん」 「ふうん。『ふうせんかずら』っていうんだ。ハクって、物知りなんだね」 「そんなことはないよ」 「わたしが小さい頃、近所にたくさん植えてあってね、この風船の実をつぶして遊んでよく叱られたの」 少年は目を細めた。 「紙風船と違って・・・一度つぶしてしまったら膨らまないものね」 そう言いながら。 少年は座敷の隅にあった行灯(あんどん)に灯を入れた。 行灯(あんどん)の光に浮かび上がった、少年の姿を改めて見たとき。 千尋は突然、あることに気がついた。 「あーーーーーーーっ!!!!!!」 「ど、どうしたの?」 少女の突拍子もない声に、目を丸くする少年。 「ご、ごめんなさいーーーーーー!」 「え?」 「どうしよう、どうしよう・・・ほんとに、ごめんなさい・・・」 「だから、何が?」 「・・・・・・・。」 「言ってくれないと、わからないよ」 「・・・・・・・・・・・口紅」 「口紅?」 そう言われて、少年が自分の着物を見ると。 白い麻絣(あさがすり)の単(ひとえ)の。 襟元といい、胸といい、肩口といい、袖といい、、、、あちこちに、桃色の紅が。 千尋は、申し訳なさに縮こまった。 『満員電車の中で知らない女性の口紅がワイシャツに付いてしまって(^^;)』などという生易しいレベルではないのだ。 どう見ても、、、、その。 言い訳のしようもないというか。 ・・・・・事実、つい今しがたまで『言い訳のしようのない体勢』でいたわけなのだけど。 さきほどまでは、夜目だったので、気づかなかったのだが。 こうして、灯りのもとで見ると。 白い麻に、口紅のピンクはとても目立つ。 おろおろとハンカチを取り出して、自分のくちびるから移ってしまった汚れをぬぐい取ろうなどとするのだが。 むろん、そんな事くらいで落ちるようなものではない。 少年は苦笑しながら、ハンカチで口紅をとんとんたたいたりしている少女の手を、止めさせた。 「いいよ。気にしないから」 「でも」 仕立ての良い、高価な品であることくらい、千尋にもわかる。 それに、麻は・・・クリーニングも難しいのだ。 できることなら、その着物を脱いでもらって持ち帰り、きれいにしてから返したいところだが。 その単(ひとえ)一枚、さらりと身に纏(まと)っているだけの少年にそんなことを言い出すわけにも、いかない。 困りきっている少女に、少年は意外なことを言ってのけた。 「美しいね」 「・・?」 「ほら。川の流れを慕って散り落ちた花のようだ」 「え?」 その涼しげな麻の生地には。 縦糸にところどころ拠り(より)の異なる糸を使ってあって、 遠目には一見無地に見えるのだが、よく見ると、織り模様で縞(しま)が浮き出るような意匠が凝らされている。 確かに、その典雅な縞模様を水の流れに見立てれば、点々とついたまるい唇の跡は、水面(みなも)に遊ぶ可憐な花びらに見えなくもない。 「わあ、ほんとだ! お花みたいに見え・・・」 言いかけて、千尋はしまった、と手で口元をかくす。 だから! そんなのんきなこと、言ってる場合じゃ・・・・ でも。 申し訳ない、と、焦ると同時に。 不思議な感じ方を、する人だなあ・・・・。 その独特な美的感覚に少しうっとりしてしまう、千尋。 「そなたもそう思う?」 千尋のとまどいになど、まったく気を取られるようすもなく。 少年は、ほんとうにうれしそうに、言う。 不思議な、ひとだなあ。 「きれいだね」 「・・・・うん」 少年があまりに自然にそんなふうに言うものだから。 千尋はその言葉に吸い込まれるように、うなずいた。 りぃぃぃいいいいん。 りぃぃぃいいいいん。 室内のまろやかな明るさの中で、千尋は、行灯とは反対側の窓辺に竹細工のまるい籠(かご)が伏せてあるのに気がついた。 りぃぃぃいいいいん。 りぃぃぃいいいいん。 その伏籠(ふせご)の中から・・・聞き覚えのある、鈴虫の声が漏れてくる。 ああ。ここから聞こえてきてたんだ・・・・・ 千尋は、籠に耳を寄せる。 「『伏籠の虫』は哀れだけれどね」 ハクがそっと、その傍らに。 「さっき川原で捕まえてね。このままここで夏を越すのは無理だから、連れて帰ろうと思って」 「連れて帰る・・・って、ハクの住んでるところに?」 「そうだよ」 「そこって、涼しいの?」 「涼しいというか・・・・・季節感がないというか」 「・・・・ふうん・・・」 外国かな。そんなところもあるのかな。 りぃぃぃいいいいん。・・・・りぃぃぃいいいいん。 伏籠の鈴虫の鳴く声は。 雨音に溶けて切なく。 「なんだか・・・・悲しそうに聞こえる・・・・」 「秋の虫は美しい歌声を奏でて、伴侶となる雌を呼ぶものだけれど。この鈴虫は季節を見誤ってしまったのだね。」 「・・・・・・・」 「どんなに鳴いても、愛しい娘には届かぬのに」 「でも・・・、雄の鈴虫って最後は雌に食べられちゃうんでしょう?」 「本望ではないかな。愛しいものに食らわれて。その血となり肉となれるのなら。伏籠にひとり篭(ご)められているよりは」 「しかたないよね。今の季節じゃ・・・雌の鈴虫なんて、いないものね」 「・・・・そうだね」 籠の鈴虫の声に目を閉じた少年の横顔は。 どこか翳(かげ)りをおびていて。 ・・・・・・『伏籠の虫』は。私だ。 りぃぃぃいいいいん。・・・・りぃぃぃいいいいん。 行灯の灯は、魚の形を梳(す)き込んだ薄手の和紙を通して、船内の座敷を淡く照らす。 白い障子紙と使い込まれた畳が、その光をなかば吸収し、なかば反射して。 人と人が近しく話をするのに、ちょうどよい明るさをつくり出し。 肩寄せ合って虫の音に耳を澄ます、二人を包み込んでいた。 * * * * * |