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瀬に棹させば〜〜 ア ヨイヤサ〜ヨォ 淀の関まではァ ひとくだりヨ〜ォ 祭で見初めた あの娘(こ)はなァ ア ヨイヤサ〜ヨォ 踊る中じゃア 一(いち)じゃった アア セイヤ〜ノォ 舟歌だ。 船頭がうたっているのだろう。 渋みのある、いい声で。 雨夜の風情によくのって。 「あ!」 「どうしたの」 「船頭さんも、中に入ってもらわないと! 濡れちゃうよ」 うっかりしていた。 自分たち二人は雨を避けて室内にいるというのに。 船頭さんのことをすっかり忘れていた。 「ああ・・・・だいじょうぶ。川よりこちら側は、雨は降っていないよ」 「え?」 千尋が船の外をうかがうと。 局所的な降雨、とでもいうのだろうか? 初めて見る、不思議な天候。 これまで歩いてきた川原は、今まさに夏草が梅雨の終わりの雨に打たれている。 おそらく、棚田の若稲も濡れそぼっていることだろう。 紙風船を追ってくぐりぬけた、古く色褪せた鳥居も、ぼんやりと雨にけぶっているのに。 屋形船の浮かぶ川面には、雨雫ひとつ落ちている様子もなく。 さらに、向こう岸の空には、星々をしたがえた上弦の月。 その下には、派手派手しいネオンがまたたいている。 あれ。今夜は満月じゃなかったかな。 ・・・・それに、このあたりにネオン街なんて、あったっけ。 一瞬、疑問が頭を掠めたが。 千尋はすぐに、別のことに心奪われた。 目の前の少年が、懐から朱塗りの笛を取り出して。 舟歌に合わせ始めたのだ。 ほんの隣の村じゃのに ア ヨイヤサ〜ヨォ 文(ふみ)を届けるすべがない ア サノヨ〜ヤァ せめて名ァなりと わからんか ア ヨイヤサ〜ヨォ あの娘(こ)に見せたや 桂の蛍 アア セイヤ〜ノォ 高く低く、舟歌にからみつく澄んだ笛の音に聞き惚れて、・・・千尋の頭の中から月やネオンのことなど、たやすく追い出されてしまった。 こんどの荷ィは きついがよォ ア ヨイヤサ〜ヨォ 祝儀はたんと はずむとな ア サノヨ〜ヤァ 土産に簪(かんざし) 買(こ)うてこよか ア ヨイヤサ〜ヨォ あの娘(こ)に映えよう 紅珊瑚(べにさんご) アア セイヤ〜ノォ こぶしのきいた、いぶし銀のような歌声と、それを追う、細く天に通る笛の音。 そこに時折、鈴虫の絶妙な合いの手が入り。 風船蔓のまるい実は、そよぐ音にかすかに震え。 時々・・・どちらが笛で、どちらが鈴虫か、わからなくなる。 千尋は、うっとりと耳を傾けていたが。 ようし 次の淀の市 前(せん)に見かけた髪飾り ア ヨイヤサ〜ヨォ 喜ぶじゃろか 街土産 ア サノヨ〜ヤァ 積荷は紅白 嫁入道具 ア ヨイヤサ〜ヨォ 白無垢嫁御を見たならば 祭で見初めた あの娘 アア サノヨイショ ドッコイショ 吹き終えて、少年が紗の笛袋に横笛をしまいながら、ふと顔を上げると。 千尋が涙ぐんでいた。 「可哀想な歌・・・」 「ああ、泣かないで、ただの歌だから」 少年が慌てて傍らに寄り添って、肩を抱こうとしたが。 それより一瞬はやく、千尋は彼の首にしがみついた。 娘の肩を掴みそこなった両の掌が。 空を泳ぐ。 「好きだ、って言ってもらってたら、・・・その女の子、お嫁になんか行かなかったかもしれないのに」 「!」 「一緒に踊りの輪の中にいただけじゃ、だめだよね。名前、聞かなきゃ、だめだよね」 「・・・・・」 「ハクは・・・・・」 「何?」 「・・・・・なんでもない」 ----------目を伏せて。飲み込んだことば。 ハクは、わたしの名前を聞いてくれないの?
・・・・さすがに、言えなかった。 まだ出会ったばかりの、この美しい瞳の少年に。 彼は幼い子供を宥めるように、そっと背を撫でてくれたが。 その口から出たことばは。 残酷だった。 「もうすぐ、止(や)むよ」 一瞬、千尋の頭の中が、まっ白になった。
気を取り直して、やっと、言う。 「まだ、こんなに降ってるよ。・・・止まないよぉ・・」 祈るように。 腕にぎゅうっと力を込める。が。 「村雨(むらさめ)だから。長引かないよ。」 「でも!!」 「これ以上長引いたら、『私が』困る」 ----------今度は。少年がことばを飲み込む番。 これ以上引き止めたら。帰せなくなる。
りぃぃぃいいいいん。 りぃぃいいいいいいん。 ふたりが飲み込んだ言葉のかわりに。 鈴虫が、また鳴きはじめた。 千尋の腕から。 肩から。 全身から。 力が抜けた。 抜け落ちた力と一緒に。 涙が溢れた。 あきらめよう。 これ以上甘えたら、いけない。 『困る』とまで、言われてしまっては。 どうしようも、ないもの。 りぃぃん。りぃぃいいいん。 遠慮がちに。鳴き続ける、伏籠の鈴虫。 雨はだんだん薄くなり。 雨音はだんだん遠くなり。 そして。 少女の睫毛は、まだ乾かぬのに。 雲の切れ間から、星が顔を出した。 「さあ。お帰り」 震えていたのは。 少女の肩と。 少年の声。 「うん。帰る」 まだ、ほどけない、腕。 「川原まで送るからね」 無理にでも振りほどかねば、とは思いながら、少女の背から放すことができない、手。 たがいに、たがいの体温を手放せないまま。 ふたりはよろよろと立ち上がり。 少年に抱えられるようにして、足を進める少女と。 少女に支えられて、かろうじて自分を保っている少年とが。 庇いあいながら、やっと桟橋に。 板造りの簡素な船着場の階段を下りて。 雨滴に光る草原に一歩踏み出したとき。 りぃぃいいいいいん。りぃ・・ん。 鈴虫が、ひときわ高く、鳴いた。 名残惜しげに後を引く虫の音に引き寄せられるように。 千尋は、もう一度だけ、川を振り返った。 「・・あっ!?」 「どうかした?」 「この桟橋・・・!!!!! ああ、ここって・・!!」 「?」 「なんで今まで気がつかなかったんだろ!!」 突如呼び起こされた、少女の記憶。 「わたし!わたし、小さい時に!!! あの船着場から、落ちたの! 溺れそうになったの!! それでね、、あのっ、!!!!」 なんだろう?! なに、この感じ?? 突然蘇った記憶と感情に興奮して、早口でしゃべる少女。 を、静かに遮る少年。 「・・・・違うよ」 「違わない! 思い出したの!! わたし、あの桟橋から白い大きな魚を見ていて、靴を落としちゃって・・・・・!」 「似ているかもしれないけれど。あれはそなたの言う川とは、違うよ」 「そこで、なにかとても大切なことが、あったの!!」 「違うんだよ。」 「でも!」 . . 「千尋。あの川は、・・・もうないんだ」 え・・・・・? 驚きに目を見開いた少女と。 しまった、と口元を覆い、動揺を隠し切れない碧の瞳の少年と。 「わたしの名前・・・・どうして、知ってるの・・・・・?」 「・・・・」 「どうして・・・・知ってること、黙ってたの!?」 「・・・・・・・・・」 「どうして?!」 とりすがる少女の問いに、何一つ答えることができず。 少年は拳を握り締めた。 固く目を閉じて。満天の星空を振り仰ぐ。 ああ! なんと迂闊な! そして次の瞬間。 石のように硬くなった少年の全身を。 少女の言葉が稲妻のように貫いた。 「・・ニギハヤミコハクヌシ・・?」
* * * * * ☆ひさかたさまが、イメージイラストを描いてくださいました! こちらです!ぜひご覧になってください!! |