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お祓いを受けたときに。 神主さんの上げていた祝詞(のりと)にうたわれていた、不思議なことば。 『ニギハヤミコハクヌシ』 それが、急に色鮮やかな意味をなす言葉としてよみがえり。 思い出すはずのなかったことごとが。 呼び覚まされた。 「あ・・・・!」 それと同時に、-----------------突如千尋の頭の中に、目の前に、順不同、意味脈絡のつかない、とんでもない量の記憶の断片が渦を巻いて襲い掛かった。 横っ面をはたかれる二頭の豚が、料理屋の椅子から転げ落ちる。 フェリーから列をなしておりてくる、白い紙の仮面と赤い装束の透明な生き物が鼻の前を横切り。 反吐(へど)を吐きながら自分に迫り来る、巨大な黒い化け物。 街々に薄くのびて手招きする、実態を持たない、影。 声を上げながら豪奢なじゅうたんの上を跳ねる緑の生首が、舌を出しておどりかかる。 嘲(あざ)笑うかのような、けばけばしい色彩の建物。 それらのすべてが、轟音をたてて少女の精神を狂気の淵へと引きずり込む。 「きゃああああああああーーーーーーーーーーーーーっ」 千尋は両手で頭を抱えてしゃがみこんだ。 もう、その瞳は正気を失い、平常な思考力などなくなっている。 目を開けると、恐ろしい幻覚に取り囲まれて身動きがとれなくなり、 目を閉じると、凄まじい幻聴に苛まれて頭が割れそうになる。 「千尋!」 ハクは夢中で、少女を抱きしめようとしたが。 「いやーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」 千尋はその手を、ばし、と振り払い、今度はめくらめっぽうに走り出した。 「千尋!!」 転がるように走る少女の行く先には、川が。 前後左右もわからなくなったまま、泣き叫びながらざぶざぶと水の中へ。 「!!!!」 ハクの顔から血の気が引いた。 どぷん。 ぶくぶくぶくぶく・・・・・・・・・・・・・・。 暗い水が、少女を飲み込む。 思いがけない獲物に舌なめずりし。 掴みこんで、放さない。 浴衣の少女はあっという間に流れの中に姿を消した。 ちゃぷっと音がして、 何かを懸命につかもうとする小さな手が、もう一度水面を切って浮かび上がったが。 すぐさま、ぐい、とまた水の中に引きずり込まれてしまった。 来ないでーーーーー!!!! 水中に逃れてもなお、恐ろしい幻覚は追いかけてくる。 べったりと自分の身体に、心に、まとわりついて、振り払っても振り払っても、剥がれない。 <モット深ミニ、モット深ミニ・・・・・> 幻覚に絡めとられて、体がいうことをきかない。 水に喉を締め上げられて、息ができない。 水は狂喜する。 今まさに、餌食にならんとする清い少女を、手中にして。 ごぼっ、と大きな音がした。 少女の肺に残っていた、わずかな酸素が気泡となって吐き出されたのだ。 痙攣する少女の指が、それを掴もうと伸ばされたが。 握り締めた手の中で、その透明な丸い玉は、さらに小さな気泡と砕けて指の間から逃げて行った。 水が。娘の最後の呼吸を止めるため、彼女の臓腑へ -----------本来なら、空気で満たされているべき、気道へ、肺へ、--------------- 一気になだれ込もうとする。 苦しげに引きつった少女の唇がこじあけられて。 魔性の水が、高笑いを上げた時。 --------------------させぬ!! 何かが必死で少女の唇をふさいだ。 * * * * * * * * * * * * ざば。 船べりに、水中から抜け出た少年の手が、かかった。 「おお、、、、おお、、、、、、、」 船端でおろおろと事のなりゆきを見守っていた船頭が、何本もの手を伸ばし、大急ぎでそれを引き上げる。 船頭に助けられて、まず、緑なす黒髪の少年が水面に顔を出し。 ついで、彼にいだかれている人間の少女が、空気のある世界へと、生還した。 「あああハク、だから、いわんこっちゃない・・・・」 「水は呑んでいないはず。だいじょうぶです」 「ほれ。気付け薬じゃ」 「すみません」 水神の少年は、少女の口をこじ開けると、船頭に渡された丸薬をその喉に無理やり押し込む。 「・・・・っ!!」 とたん、千尋はむせこんで暴れ、それを吐き出そうとしたので、ハクは手のひらでしっかりとその口を押さえつけた。 ほんの一瞬、彼女の顔は苦痛にゆがんだが、-----------すぐに落ち着いた。 そして、少女の頬に、ばら色の血の気が少しずつ、戻ってくる。 「ほれ」 老人がもう一粒、丸薬を差し出した。 「は?」 「お前さんの分じゃ。」 「あ、いえ、私は平気です」 「何言うとる! 顔色なんぞ、ありゃせんぞ! 飲め!」 「・・・・ありがとうございます」 少年は目を閉じてそれを飲み下す。 とたん、焼き付くような刺激が喉を下り。 胃の中に火をつけられたかのような感覚に襲われて、思わず顔をしかめたが、それと同時に体の中を熱い血液が一気に駆け巡り、全身に活力が漲(みなぎ)った。 そして初めて、たった今まで自分がどれほどの恐怖と戦っていたのかを、自覚して。 ほーーーっと大きな息を吐く、水神の少年。 と。 腕の中の少女が、かすかに身じろぎをした。 「千尋?」 名を呼ぶと。 うっすらと目を開けた。 「ハク・・・?」 「私のことが、わかるかい?」 「うん」 少しずつはっきりしてくる、少女の視界。 ほの明るい行灯(あんどん)の光。 風船蔓が揺れる、御簾。 伏籠の鈴虫。 自分は、屋形船の中に、助け上げられたらしい。 「・・・・ごめんね、また迷惑かけて」 「そんなことはないよ。私の不注意だ」 「わたし・・・・全部、思い出した」 「うん」 そしてふたりは、ゆったりと抱擁しあった。 船頭は、音を立てぬよう、船室を後にした。 りぃぃぃいいいん。 りぃぃぃぃいいいいいいいんん。。 千尋が身体を少し離そうとすると。 白い麻絣の腕が、それを遮った。 「もう終わるから。もう少しこのままで」 「?」 言われて、彼女はやっと理解した。 水神の少年は。 自分を乾かしてくれているのだ。 少年の腕の中で。 濡れそぼった浴衣や髪が、みるみる軽くなっていくのがわかる。 「ハク」 「うん?」 「鈴虫は、連れて帰るんだよね」 「ああ」 りぃいいいいいん。 りぃぃ・・・。 「声も姿も良いから。座敷での音曲に重宝されるだろう」 「ハクは鈴虫を人間の姿にできるの?」 「できるけど?」 湯屋でそれをするのは湯婆婆だけだが。 「その逆は?」 「え?」 「わたしを・・・・鈴虫に、できる?」 翡翠の瞳が。 一瞬焦点を失った。 あわてて千尋は言い直す。 「あ!ごめん、なんでもない!忘れて!」 自分は人間の世界に帰って。 ハクは湯屋に戻る。 きっと今は、それが一番いいことなのだ。 これまでの彼の言動が、あますところなく、それを物語っているではないか。 彼は、自分を迎えに来たわけでも、人間の世界に戻ってきたわけでもなく。 会いに来てくれただけなのだ。 たぶん、、、かなりの無理をして。 それだけでも、充分だと思わなくては。 「ありがとう。約束どおり、会いに来てくれて」 「ちひ・・・・」 張り詰めた水面のような碧の瞳が、揺れた。 「わたし、嬉しい。」 千尋はぴょこんとハクの膝の上から降りると、にっこりと、笑った。 「ちょっと浴衣直すから、こっち見ないでね」 「・・・あ、ああ」 千尋はやおら立ち上がると、少年にくるりと背を向けて、ゆるんでしまった帯に手をかける。 ハクも、急いで彼女に背を向け。 開け放した、作り付けの窓に肘をついて、静かになった川面に視線を移す。 「ごめんね」 しゅるしゅると、しゅすの帯が解かれる音。 「何が?」 ちゃぷ、と水面を魚が跳ねる音。 「わたし、ハクのこと、忘れてて」 結び紐をするりと解く。 はら、と乾いた音がして、流水模様の裾が床に落ちた。 「仕方ないよ・・・・そういうことに、なっているのだから」 所在なげにかきあげる、額髪。 「でもね。わたし、自信持っちゃった」 裾丈を決めてから、肌をそっと藍染め浴衣の中におさめ。 前合わせをていねいに整えて、腰紐を結ぶ。 「自信?」 少女の身じまいする気配が、背中越しにくすぐったくて困るので。 ハクはいたずらに、風船蔓(ふうせんかずら)の丸い実をもてあそぶ。 「うん」 千尋はおはしょりをつんと引っ張ってから。 胸のふくらみの少し下で、結び紐をきゅっと締め。 うふふっ、と笑いながら。 思い切って、言った。 「忘れててもね。やっぱりわたし、またハクのこと好きになっちゃった」 「!」 思わず振り向いてしまいそうになって。 大慌てで、視線を川にもどすハク。 よいしょ、とつぶやきながら、千尋は朱色の文庫を背にのせる。 作り付けになっている帯だから、結びなおすのは簡単。 軽やかな声で、さらに、言う。 「わたし、『向こう』に帰ったら、またハクのこと、忘れちゃうんでしょ?」 「・・・・・・・」 ぷつん。 少年の指先が震えて、風船蔓の実が、潰れた。 「でもね」 最後に髪を直しながら、うんと元気な調子で、千尋は言った。 「だいじょうぶだよ。ハクが会いに来てくれたら、また好きになるから」 「ちひ・・・」 「だから、・・・・だから、また会いにきてね?」 やはりあくまでも明るい声だったのだが。 ・・・・・・その語尾がかすかに震えたのを。 ハクが聞き逃すはずがなかった。 枷がはずれたかのように。 彼は振り返り。 その両手は、まっすぐに一番愛しいものへと伸ばされて。 あらん限りの力で、その細い肩を抱きしめていた。 「ハク!・・こっち見ないで、って、言っ・・・」 半ば強引に、こちらに顔を向けさせた千尋の。 両の瞳は、涙でいっぱいになっていて。 もう彼は。 心の叫びを抑えることができなかった。 「おじいさん、船を! ・・船を出してくださ・・・」 りぃぃいいいん!!!
・・・・・ハクの言葉が終わるより先に。 伏籠(ふせご)の中の鈴虫が、鳴いた。 * * * * * ☆あもさまが、挿絵を描いてくださいました! こちらです!ぜひご覧になってください!! |