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「おじいさん、船を! ・・船を出してくださ・・・」 りぃぃいいいん!!!
ハクの言葉が終わるより先に。 伏籠(ふせご)の中の鈴虫が、鳴いた。 掟を破るようなことは言ってはならぬと。 してはならぬと。 鈴虫が、鳴いた。 船頭は。 龍の少年の心の叫びを。 聞かなかったことにした。 舟歌を低い声で口ずさみながら。 静かに川面の月を眺めていた。 月が傾いてゆくにつれて、彼方から・・・ かすかに祭囃子が聞こえてくる。 ああ。もう、そんな刻限なんじゃな。 ちんからしゃーん。どんどんどん。 ひゃら、ぴーひょろろ。どどどん、どん。 ちんからしゃんしゃん。からから、からら。 ぴーひょろろんろん。からから、どぉん。 祭囃子(まつりばやし)が呼んでいる。 祭が終わると、歌ってる。 櫓太鼓(やぐらだいこ)が追いかける。 娘を還せと、龍神に。 文月(ふづき)初めの七の日の。 祭が終わってしまうよ、と。 紙風船を攫(さら)ってくれた川風の神は。 あたしを共犯者にしないどくれよ、と。 おそらく憤っていることだろう。 嫌な役目だが。 年長者のつとめというやつじゃな。 やるせない気持ちを押し殺して。 船頭は、若い二人に声をかける。 「・・・・そろそろ船を出す時間じゃぞい」 瞬間、龍の少年はびくん、と震えて。 少女を抱きしめる腕に、さらにぎゅっと力を込めた。 りぃぃいいいん。 ・・・・・りぃぃいいいん。 伏籠の鈴虫は。 まだ、鳴いている。 「ハク・・・」 「・・・・連れて行く」 「ハク?」 「連れて行く」 「ハ・・・・」 「連、れて、、行、、!」 振り絞る声が掠れているのが、自分でもわかる。 受け止めた千尋の言葉は。 どこまでも、やわらかかった。 「うん。連れて行ってね」 りぃぃいいいん。 ・・・・・りぃぃいいいん。 今すぐには叶わない、遠い約束。 ちゃんと、わかっている。 ・・・・ふたりとも。 だから。 咎めない。 船頭も。 鈴虫も。 りぃぃいいいん。 ・・・・・りぃぃいいいん。 「連れて、行くから」 「うん」 いつか。必ず。 どこか、ふたりで暮らせるところへ。 「もう少し、待っていて欲しい。」 「はい」 ハクに手を取られて、屋形船をあとにする。 桟橋を降りて。 川原の草を一歩踏みしめたとき。 「あ! わたしの紙風船!」 二人の行く手の草なかに、濡れしぼんだ紙風船が転がっていた。 水神の少年がそれをそっと手に取って。 さわ、と乾かして千尋に渡した。 人間の少女は、それを受け取ると。 ふう、と少し膨らまして。 歩きながら、また少年に渡す。 少年もゆっくり足を進めつつ、ふう、と息を吹き込んで。 もう一度、それを少女の手に。 そして少女が同じことをして。 また紙風船を少年に。 ふたりのあいだを行ったり来たりするたびに。 少しずつ膨らむ、紙風船。 紙風船が。 まんまるになったなら。 ・・・帰るから。 ・・・還すから。 「この紙風船は。私にくれまいか」 「・・・いいよ」 ほつほつと歩きながら。 また、ふう、と一息だけ入れて。 ハクは千尋に紙風船を渡す。 「あそこに、古い鳥居が見えるね?」 「うん」 法被の男から逃げて。 紙風船を追いかけて。 あの鳥居をくぐったら。 ここに、出た。 「少し『前の時間』に還すから」 「前の時間?」 また、少しまるくなって。 ハクの手に戻される、紙風船。 「よく聞いて。鳥居をくぐったら、小物屋の前に出る。」 「うん」 「そこで紙風船を買ったなら、すぐにご両親のところに帰るんだ」 「すぐに?」 「そう。決して、一人で飴細工を買いに行ってはいけないよ」 「・・・・・」 「もし、またそんなことをしたら・・・・」 紙風船を千尋に渡す、ハクの手が震えて。 押し殺すような声で、続ける。 「また、あの男に会う」 「・・・・・・」 そしたら、また助けてくれるのかな、・・・・ などという子供っぽい考えは、すぐに見破られた。 「今度は、助けてあげられないよ」 あのとき。 千尋が、朦朧とした意識の中で、男のなすがままにされそうになっていた、『あのとき』。 紙風船を攫(さら)い、千尋の意識を呼び覚ましてくれたのは。 少年の昔馴染みの風の神。 人間の子のことなんかほっときなよ、とぶつぶつ言いながらも。 少年の必死の願いを、聞き届けてくれた。 『一回きりだよ? 面倒なことに巻き込まれるのは御免なんだから』と、 くどいほど念を押して。 琥珀川を失った自分は、鳥居を越えて『向こう』へ行くことはできない。 風の神が、紙風船を使って、この川原まで千尋を呼び寄せてくれなかったら。 ・・・・・・どうしようもなかっただろう。 そして、もしまた、千尋が同じ過ちを繰り返したなら。 彼女はもう決して愚かな人間の娘を助けてはくれまい。 「それが、私にとってどんなに辛いことか。わかるね?」 ハクは足を止めて、まっすぐ千尋に向き直って、言った。 「・・・・うん」 紙風船は、ふっくらと満月のように膨らんだ。
ちんからしゃーん。どんどんどん。 ひゃら、ぴーひょろろ。どどどん、どん。 ちんからしゃんしゃん。からから、からら。 ぴーひょろろんろん。からから、どぉん。 祭囃子(まつりばやし)が鮮やかに。 櫓太鼓(やぐらだいこ)は加拍子(くわえびょうし)。 *加拍子:曲の終わりに、太鼓のリズムが変化して
次第に曲の速度を速めて盛り上げていくこと。 せかすように、あおるように。 「さあ。お行き」 ハクが、立ち止まった。 ここから先には進めない。 「うん」 でも。 千尋はハクに背を向けることができなくて。 彼の方を向いたまま、三歩、四歩、と後ろずさる。 そして、ぽおんと紙風船を打ち上げる。 「ハク。今夜は、わたしに見送らせて」 ぱん。 ぱあぁん。 打ち上げたなら。 軽い浮力のかさりとした手触りを残し。 半透明にくすむまるい残像を虚空に残し。 吐息のような半弧を描いて。 若魚のようなしなやかさで。 届け。 届け。 紙風船。 あのひとのもとへ。 空中にきれいな曲線を描いて。 紙風船は少年の手の中に。 「うん。」 少年は静かに少女に背を向ける。 そして、さくさくと夏草を踏みしめて、屋形船へ。 船べりに立って、振り返ると。 藍染め浴衣の少女は、じっとこちらを見つめていた。 「おじいさん。船を出してください」 千尋は。またたきもせず。 川霧にかすむ屋形船の最後尾に立つ白い着物の少年を見送っていた。 ゆったりと着流しにした、夏物の単(ひとえ)。 うっすらと控えめな縦縞(たてじま)だけが浮き出て見える、地織り模様。 帯は紺無地、細身仕立ての博多帯。 ごく簡単に貝の口に結んだだけの。 *貝の口:帯の結び方の一つ。
やがて、藍色にくすむ夜霧の中に、屋形船は少しずつ溶け込んでゆき。 千尋が最後に見たものは。 少年が胸に抱く紙風船の淡い赤、だった。 * * * * * 「まあ、それほんとなの? あの小林君が、県会議員?」 「そうなのよ。意外でしょう?人って、何年もたつと変わるのよねぇ」 「へーえ」 悠子はまだ、級友との話に夢中になっている。 そこへ、からころと下駄を鳴らして帰ってくる、少女。 「あら、千尋。早かったわね。お父さんまだなのよ。まあ、綺麗な紙風船。いいもの買ったわね」 「うん。」 「で、さっきの話の続きだけどねぇ・・・・」 「うんうん」 悠子たちはまた、おしゃべりに興じ始める。 「その小林君が言ってたのよ。 何年か前につぶされちゃった、なんとか言う川。わたしたちが子供のころ、よく遊んだ、ええと・・・?」 「琥珀川? そういえばウチの千尋、小さい頃にそこに落ちたのよ」 「あ、そうなんだ。その琥珀川の水門ね、開けられることになるかもしれないんだって」 「あら。なんでまた?」 「村おこし、っていうの? ほら、このあたりめぼしい観光スポットもなにもないでしょう。琥珀川を再生させて、蛍とかトンボとか放して、話題にしようって話が議会で出てるんだって。」 「そうなの」 「自然保護団体も賛同してるらしくって」 「ふうん・・・・。大義名分はどうでもいいけど、・・・・懐かしいわね。」 「そうね。夏や秋は、綺麗でしょうね」 大人たちの会話を聞くともなく、聞きながら。 千尋は何気なく、今来た参道を振り返った。 よくわからないけれど・・・・誰かに、・・・とても懐かしい誰かに名を呼ばれたような、 そんな気がして。 なんとなく、川の流れのような・・・そんな涼しげな音が聞こえたような気がして。 それと・・・・。 「お母さん。今、鈴虫の声、聞こえなかった?」 「え?まさか。まだ7月よ。聞き間違いでしょ」 「・・・そうだね」 * * * * * りぃぃいいん。 りぃぃぃいいいん。 ちゃぷちゃぷちゃぷちゃぷちゃぷ・・・・・・・。 「ハクよう。センは・・・今ごろ無事帰っておるかのう」 「ええ。気配を追っていましたが、ついさっき、ご両親のもとに戻りました。」 「そうか。・・・・・寂しいのう」 「祭は終わりましたから」 「おまえさん、だいじょうぶかい?」 「だいじょうぶです。また来年、会いに行きます」 来年の今日。7月の7日の祭の日。 川の『こちら』側と、『向こう』側に裂かれたものたちが。 年に一度だけ、逢瀬を許される、夜。 ・・・・『七夕祭り』と、人たちは呼ぶらしい。 「若いモンにとって、一年は長いのう」 「いいえ。紙風船は、また膨らみますから。」 「そうか」 「はい。わたしがきちんと川の向こうへ行けるようになるまで・・・何度しぼんでも、きっと。」 「まあ、、、もう3,4年の辛抱、ってとこかのう?」 「・・・・そうですね」 派手派手しいネオンに彩られた夜の街が見えてきた。 自分は今はあそこへ、帰ってゆくのだ。 ・・・・・・千尋・・・・・。
川の流れ行く音と。 控えめに鳴く、鈴虫の声に紛れ込むかのように。 ハクはそっと、愛しい少女の名を呟く。 胸に抱くまるい紙風船には。 少女の香りがのこっていた。 白い麻絣の袖口には。 少女のくちびるの跡がのこっていた。 ハクは静かに目を閉じて。 そのまるい口紅の跡に。 ・・・・・自らの唇を、寄せた。 祭囃子は、もう聞こえない。
櫓太鼓も、もう消えた。 ちゃぷちゃぷちゃぷちゃぷ・・・・・。 りぃぃぃいいいいん。りぃぃぃいいいいん。 耳をかすめてゆくのは。 川面の水音と。 鈴虫の声。 ちゃぷちゃぷちゃぷちゃぷ・・・・・。 りぃぃぃいいいいん。りぃぃぃいいいいん。 ・・・・千尋。また来年、会いにゆくからね・・・・
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