「なんだったんだろうね? 銭おばあちゃん」
ハクはため息をつきながら、再び人の姿となり、首を振る。
わかるものか。まったく魔女のすることといったら。
予測がつかない。
「でも、いいもの、もらっちゃった」
銀の指輪を灯りにかざし、にっこり笑う、千尋。
う。
まだ何かする気か。
いくら千尋とはいえ、もう、勘弁してほしい。
「失くしちゃいけないよね。」
千尋はアクセサリーを入れている小箱の中から、細いチェーンを取り出す。
そして指輪をはずし、それに通して、すい、と首に回すと、
「ハク。後ろ、止めて。」
くるりと背を向ける。
え。
微妙に緊張する、ハク。
ええと。
ポニーテールの下の細いうなじに、ちょっと動揺。
それに、こういった装身具の扱いには不慣れだ。
「やりかた、わからない?」
・・それもあるけど。
「あのね、丸い金具のとこについてるツメみたいなのを引っ張ってね、・・・」
指示されるとおりに、しているつもりなのだが、指先がなんとなく汗ばんで、うまくいかないのだ。
四苦八苦しながら、やっとの思いでチェーンの金具を止めると。
「ありがと。・・・意外にハク、不器用なんだね」
千尋はくすくす笑いながら。
セーターの首元を引っ張って、チェーンに繋がれた指輪をその胸の中にすとん、と落とす。
<!?!?!うっっ!?!?!?!>
「?? どしたの、ハク?」
突然、なまあたたかい柔らかな感触が自分の身を包み、ハクは全身から汗が吹き出すのを感じた。
この、危ういぬくみが。
理性という枷(かせ)で沼の底に鎮めている龍の本性を鷲掴みにすることを。
目の前の少女は、ちっとも理解していない。
何も、考えていないに、決まっている。この人の子は。
挑発するとか、そういう気持ちがこれっぽっちもないことは、このあっけらかんとした笑顔からも、明らか。
だから、困る。
とても、困るのだ。
少しは、こちらの精神状態というものも、考えてほしい。
今夜は何か起こるかもしれないのだ。
冷静でいる必要があるのに。
とりあえず、そういうことは、やめてもらいたい。
雨は止んだままだし、
どうやってそれを伝えたものか、と思いを巡らせかけた時。
ひょぉ〜〜ぉお〜〜〜ん〜〜〜〜・・・・・
突然、龍神の耳に風鳴りのような、まがまがしい音が聞こえた。
反射的に千尋を自分の胸の中にかばい、そのまま、がばと床に身を伏せる。
「きゃっ!? ハク、何す・・・」
だめだ!今、声を出されるのはまずい!
ハクはとっさに、自分の唇で、少女の言葉をふさぐ。
「!?!?!っ?!?!?!」
丸い瞳をもっとまん丸にして、全身硬直した、千尋。
し、心臓止まっちゃう!!・・・・・と思ったのは、一瞬のこと。
ハクは、すぐに千尋から顔を放し、人差し指を彼女の唇にあてて、声を出すな、という仕草をした。
その厳しい表情に、ただならぬものを感じて。
千尋は声を飲み込む。
ひょぉ〜〜おお〜〜〜おおおおおおんん〜〜〜〜・・・・・
聞こえた。千尋の耳にも。
今までに聞いたことのない音。
耳鳴りのような。空間を歪ませる、不気味な音。
人の心の中をねじあけて、無断でその中にどろどろと流れ込んでくるような、嫌な音。
・・・怖い。
いったい何なのか、ハクに、尋ねたい。
睫毛に感じる、ハクの吐息。
でも、その顔は険しいままで。
翡翠の瞳は、空(くう)を鋭く、睨んでいて。
今、声をかけてはいけない状況にあることくらい、千尋にもわかる。
ぎゅっと彼にしがみついて、恐怖に耐えるしかなかった。
ぼ〜〜〜ん。ぼ〜〜〜ん。ぼ〜〜〜〜ん。
突然、壁の時計が鳴り出す。
が、その音は、千尋が普段聞いている時報とは全く違う。
千尋の部屋の壁時計は、毎時0分になると、オルゴールの音がディズニーのテーマ曲を奏で、それと共に、かわいらしい人形が出てきて、くるくる回ったりするのだ。
この音は、ミステリー映画の中などによく出てくる、古い柱時計のような音だ。
千尋はがたがたと震えながら、ハクにぴったりとくっつく。
きゅぅるきゅぅる・・きゅるきゅるきゅるきゅるっ!
千尋は大きく目を見開いた。
壁時計の針が突然、時を刻む方向とは反対向きにぐるぐると回り出したのだ。
-------やだやだやだーーーっ。怖いよーーーーっ。
千尋の震えは、肌を通してそのままハクに伝わる。
ハクは、少しでも千尋を安心させようと、彼女を抱きしめる腕の力を強め、頬をぴったりと寄せた。
びょぉおおおおおおおお〜〜〜〜〜〜
なにかとてつもなく強い力に、体が押し流される! 巻き込まれる!
風?!
それとも水?!
鉄砲水に飲み込まれたかのように。
------------やだーーーーーーーーっ!
千尋は声にならない声で叫ぶ。
せっかくこっちの世界に戻ってこれたのに!!
これ以上また、わけのわからないところへ飛ばされるなんて、いやーーーーーーっ!!!
必死の心の叫びとは裏腹に、
どこかとんでもない所へごうごうと流し去られてゆく、感覚。
もう、千尋は目を開けていられない。
ただひとつ、頼れる腕に必死でしがみつくのが精一杯だ。
恐ろしさにかちかちになってしまっている人の子を、抱いたまま。
ハクは、自分達を連れ去ろうとする潮流の行く末を、ぎっと見据えていた。
------時が逆流している。銭婆が言っていたのは、このことか。
自分も、一応龍神の端くれだ。
少しくらいの時わたりなら、問題なくできる。
だが。
この時間の狂いはただごとではない。
何が起こったのか。
時を戻そうとしているのは、何者か。
時の波間にあおられるふたりは、激流にもまれる木の葉のようで。
歯をくいしばるハクの目の前に、様々なよしなしごとが、走馬灯のように現われては、あっという間に、後方に流れ去ってゆく。
愛しいものの手を放し、人の世界へと送り出した時の、風。
夕暮れ前、太鼓橋で出会った、まとめ髪の少女。
魔女の前に跪(ひざまづ)く、幼い自分。
埋め立てられる、琥珀川。
桃色の、子供靴。
嫁入り姿の雨の神。
冷たくなった、母龍。
しっかり見ておかなければ。
どの程度の時を流されているのかを見極めておかなければ、帰るときに、困る。
時の逆流はまだまだ続く。
もしかすると、もう自分が生まれた時よりもはるか以前かもしれない。
時間だけではなく、場所も狂っているようだ。
大丈夫だろうか。
こんなにも膨大な時と場所の流れを、自分の力で渡り切る事が、できるだろうか。
いや。何としてでも。無事戻らなければならない。
腕の中の愛しい少女のために・・・・・・
二人を押し流す流れの先に。
光が見えた。
出口らしい。
その光が突然大きくなり、あまりのまぶしさに思わずハクが目を閉じた時。
「ハクーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!」
ハクの心臓が凍りついた。
千尋が腕の中から滑り落ちた。
必死で伸ばした手と手は。
かすかに指先どうしをかすめたのを最後に。
またたく間に引き離されていった・・・・・・・
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