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<<< 胡蝶 (13) >>> 

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   ・・・・・軽い・・・・・。





もちろん、千の姫宮のお言葉にいち早くお応えになられたのは、その場で一番お近くにいらした、鴨の若君にございました。



失礼つかまつりまする、と皆の面前できちんと姫にことわりおいてから。

やおら、千の姫宮をお抱え上げになりますと。



・・・・豪奢な衣装を幾重にも重ねていらっしゃるというのに。
姫宮のそのお身体は。


まるで、ひいな人形のように軽くて。




攫おうと思えば。

盗もうと思えば。


このまま簡単に連れ去ってしまえそうなほどに、たよりなく。




この腕に少しでも力を込めれば。
花のように手折れてしまいそうなほどに、細く。







   こんなに。こんなに痩せていらしたか? 千の姫は。







お車から駕籠までは、ほんの数歩。




若君は、一歩また一歩と。


踏みしめるように。

噛み締めるように。


足をおすすめに。





駕籠までが永遠につづく道であったらよいのに、と思われたのは、
・・・・・姫宮もまた同じこと。




壊れ物のようにたいせつに。
そっとそっとお駕籠に乗せられようとしました、そのとき。


姫の小さなお手が。
ぶるぶると震えながら、青い袍(ほう)の端をちからいっぱい握り締めたのを。


若君が気付かれぬはずはございませなんだ。








   裏切りたくて。裏切ったのではないの。



   あなたが神様じゃなかったから、袖にしたとか。

   あなたのお家筋が、どうこうとか。

   もののふの長に心うつりしたからとか。



   そういうのでは、ないの。








ことばにしたくてできなくて。
泣きたくても泣けなくて。
いちばん言いたいことを、伝えることは許されず。


ただ、必死に、いとおしいお方の着物を握り締めることしかできない姫宮と。





抱き締めたくてできなくて。
わかっているよと言えなくて。

涙こぼさんばかりの想い人を前に。
慰めの抱擁ひとつ与えられない自分がもどかしく。



ただ、抱え降ろす指先に、ほんの少しだけ力を加えることしかできなかった若君との。





見つめ合うせつないひとみとひとみは。


ばたんと降ろされた駕籠の木戸に断ち切られ。






涙にぬかるむ鈴鹿の峠。

花嫁行列はゆるゆると進むのでございました。





* * * * *




伊勢鈴鹿の関を越え。

四日市の湊(みなと)沿い。
波の音にも心は震え。

日本武尊(やまとたけるのみこと)さまの草薙の剣を祭る熱田神宮。
お参りするも、気はここにあらず。

尾張鳴海では、華麗な絞りのお召し物を献上されるも。
姫にとっては、その柄の花も鳥も、心動くものではなく。

岡崎の。東海道ではいちばん長いという矢矧橋や。
吉田城下の。東海道一、形よいという豊橋を渡りますと。

海風の強さに、浜の松が鳴いたと『十六夜日記(いざよいにっき)』に伝わる、白須賀、潮見坂。

そのまま海沿い、荒井へ進み。
今切の渡し。
「入り鉄砲出女」に厳しいことで有名な、新居の関所。

舞阪、浜松と水の名所をめぐり。

天竜川の「池田の渡し」。
「夜泣き石」の日坂のお宿。




裳裾引けば届くほどの近さを進みながら。
おふたりはほとんどお言葉もかわせぬまま。

姫行列はお江戸日本橋へと、日一日と近付いてございます。






   こほん。こほん。こほこほ、こほごほっ。


千の姫宮のお咳は、なかなかにおさまりませず。

車に駕籠に揺られどおしでは、治るものも治りませぬ。
どこかに、しばらくご逗留、ご休息あそばれればまだよいものを、と、
周りの者ものは皆思ったのにございますが。

卯月はじめの、将軍殿のお誕生日に間に合わせるようにとの強行軍で。
それも思うようにかなわぬのでありました。






そして。金谷、大井川。



『箱根八里は馬でも越すが・・・・』のお歌で知られた、水の難所にさしかかりましてございます。



幕府は防衛上の理由で、この川に橋を架けることを許しませんでしたので。
ここは、川越人足たちに渡されることになりまする。


ここを通るたびびとたちは。

あるものは、川越人足に引かれて、徒歩(かち)で。
あるものは、馬で。
あるものは、人足の肩に乗り。
また、ご身分高いおかたは、お輿に乗って。


この、気荒い川を渡るのでございます。



雨が続いて水かさが増え、川を渡れないときなど。
『川留め』と言いまして、何日も足止めされることがございます。


おりしも、季節は冬から春へのうつりどき。
春一番、春二番、などと呼ばれる嵐雨がよく降るころでございましたし。

上手い具合に、空模様もぐずつきつつありましたので。


ここでしばし行列を止められないものかと。
乳母はひそかに、思ったりなどしていたのでございますが。



あいにく、川越の棟梁の見立てによりますと。
今すぐならまだ、かろうじて渡れるとのことで。
姫にご養生の時間を差し上げることはできませなんだ。




姫のお咳は、いよいよ酷くおなりです。

咳き込むお声が、低くくぐもっているのは。
外の者たちになるべく聞こえないようにと気を使い、お袖に顔を埋めていらっしゃるからでございましょう。

それに、わずかに息があさくなっておいでのことに。

駕籠につきしたがう鴨の若君は、誰よりも気を揉んでいらっしゃりました。




   -------お熱があるのでは。



ゆうべあたりから、それが気になりつつも、どうすることもできませず。




せめて、川を越えるためのお輿に乗る姫宮を助けようと。
さりげなく側に控え、お駕籠の引き戸を開けますと。






   ・・・・・・・姫!!






若君は一瞬、息が止まる思いにございました。





姫は、狭いお駕籠の中で。
うつぶせに臥せってうずくまり、細い息であえいでおいでにございました。


座っていることが、もう、できなかったのでございましょう。



長いおぐしが肩に背に。衣に床に。
沢瀬のたるみを下る清水のようにあふれ落ち。


流るる黒髪にうずもれて、ぐったりと身を伏していらした千の姫宮は。



それでも、かすむ視界のその先に、いとしいお方の姿をとらえられ。
少し、微笑まれました。





若君が手をお貸しになられましたとき。

やはり、その小さなお手は火のように熱く。





   ああ。こんなにも、高い熱が。






どうして、この小さな姫がこのような目に遭わねばならぬのかと。
若君が奥歯を噛み締めましたとき。






姫の熱い手の中から。

そっと、若君に手渡されたものが。






   ・・・・・・!?・・・・・・





ひんやりと冷たいそれは。









まえに、若君が千の姫宮に贈られた、あの琵琶の撥にございました。




はっとして、そのお顔を見上げますと。
熱にうるんだお目で、姫は静かに微笑んでいらっしゃいました。







人知れず、袖から袖へと渡された琥珀の撥。
おふたりの、数すくない思い出の品。


ねのもちづきの、萩襲ね。
耳に遠鳴る想夫恋。

乾いた庭の水の琴。
誰がためにと、鳴らしたか。

月に高鳴る撥音(ばちおと)は。
誰のもとへと、歌うたか。






あの夜の、琥珀の撥を。
千の姫は、たいせつにたいせつに、しのばせていらしったのでございました。








   ・・・・・あなたが持っていて。








見ると、姫のお召し物の袖口には。てんてんと赤いものが。








   わたしは、たぶん。 長くない。








どう見てもそれは、お唇や頬の紅が移ったものではなく。








そのとき若君のお心は。決まったのでございます。





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♪この壁紙は薫風館さまよりいただきました。♪



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