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・・・・・軽い・・・・・。 もちろん、千の姫宮のお言葉にいち早くお応えになられたのは、その場で一番お近くにいらした、鴨の若君にございました。 失礼つかまつりまする、と皆の面前できちんと姫にことわりおいてから。 やおら、千の姫宮をお抱え上げになりますと。 ・・・・豪奢な衣装を幾重にも重ねていらっしゃるというのに。 姫宮のそのお身体は。 まるで、ひいな人形のように軽くて。 攫おうと思えば。 盗もうと思えば。 このまま簡単に連れ去ってしまえそうなほどに、たよりなく。 この腕に少しでも力を込めれば。 花のように手折れてしまいそうなほどに、細く。 こんなに。こんなに痩せていらしたか? 千の姫は。 お車から駕籠までは、ほんの数歩。 若君は、一歩また一歩と。 踏みしめるように。 噛み締めるように。 足をおすすめに。 駕籠までが永遠につづく道であったらよいのに、と思われたのは、 ・・・・・姫宮もまた同じこと。 壊れ物のようにたいせつに。 そっとそっとお駕籠に乗せられようとしました、そのとき。 姫の小さなお手が。 ぶるぶると震えながら、青い袍(ほう)の端をちからいっぱい握り締めたのを。 若君が気付かれぬはずはございませなんだ。 裏切りたくて。裏切ったのではないの。 あなたが神様じゃなかったから、袖にしたとか。 あなたのお家筋が、どうこうとか。 もののふの長に心うつりしたからとか。 そういうのでは、ないの。 ことばにしたくてできなくて。 泣きたくても泣けなくて。 いちばん言いたいことを、伝えることは許されず。 ただ、必死に、いとおしいお方の着物を握り締めることしかできない姫宮と。 抱き締めたくてできなくて。 わかっているよと言えなくて。 涙こぼさんばかりの想い人を前に。 慰めの抱擁ひとつ与えられない自分がもどかしく。 ただ、抱え降ろす指先に、ほんの少しだけ力を加えることしかできなかった若君との。 見つめ合うせつないひとみとひとみは。 ばたんと降ろされた駕籠の木戸に断ち切られ。 涙にぬかるむ鈴鹿の峠。 花嫁行列はゆるゆると進むのでございました。 * * * * * 伊勢鈴鹿の関を越え。 四日市の湊(みなと)沿い。 波の音にも心は震え。 日本武尊(やまとたけるのみこと)さまの草薙の剣を祭る熱田神宮。 お参りするも、気はここにあらず。 尾張鳴海では、華麗な絞りのお召し物を献上されるも。 姫にとっては、その柄の花も鳥も、心動くものではなく。 岡崎の。東海道ではいちばん長いという矢矧橋や。 吉田城下の。東海道一、形よいという豊橋を渡りますと。 海風の強さに、浜の松が鳴いたと『十六夜日記(いざよいにっき)』に伝わる、白須賀、潮見坂。 そのまま海沿い、荒井へ進み。 今切の渡し。 「入り鉄砲出女」に厳しいことで有名な、新居の関所。 舞阪、浜松と水の名所をめぐり。 天竜川の「池田の渡し」。 「夜泣き石」の日坂のお宿。 裳裾引けば届くほどの近さを進みながら。 おふたりはほとんどお言葉もかわせぬまま。 姫行列はお江戸日本橋へと、日一日と近付いてございます。 こほん。こほん。こほこほ、こほごほっ。 千の姫宮のお咳は、なかなかにおさまりませず。 車に駕籠に揺られどおしでは、治るものも治りませぬ。 どこかに、しばらくご逗留、ご休息あそばれればまだよいものを、と、 周りの者ものは皆思ったのにございますが。 卯月はじめの、将軍殿のお誕生日に間に合わせるようにとの強行軍で。 それも思うようにかなわぬのでありました。 そして。金谷、大井川。 『箱根八里は馬でも越すが・・・・』のお歌で知られた、水の難所にさしかかりましてございます。 幕府は防衛上の理由で、この川に橋を架けることを許しませんでしたので。 ここは、川越人足たちに渡されることになりまする。 ここを通るたびびとたちは。 あるものは、川越人足に引かれて、徒歩(かち)で。 あるものは、馬で。 あるものは、人足の肩に乗り。 また、ご身分高いおかたは、お輿に乗って。 この、気荒い川を渡るのでございます。 雨が続いて水かさが増え、川を渡れないときなど。 『川留め』と言いまして、何日も足止めされることがございます。 おりしも、季節は冬から春へのうつりどき。 春一番、春二番、などと呼ばれる嵐雨がよく降るころでございましたし。 上手い具合に、空模様もぐずつきつつありましたので。 ここでしばし行列を止められないものかと。 乳母はひそかに、思ったりなどしていたのでございますが。 あいにく、川越の棟梁の見立てによりますと。 今すぐならまだ、かろうじて渡れるとのことで。 姫にご養生の時間を差し上げることはできませなんだ。 姫のお咳は、いよいよ酷くおなりです。 咳き込むお声が、低くくぐもっているのは。 外の者たちになるべく聞こえないようにと気を使い、お袖に顔を埋めていらっしゃるからでございましょう。 それに、わずかに息があさくなっておいでのことに。 駕籠につきしたがう鴨の若君は、誰よりも気を揉んでいらっしゃりました。 -------お熱があるのでは。 ゆうべあたりから、それが気になりつつも、どうすることもできませず。 せめて、川を越えるためのお輿に乗る姫宮を助けようと。 さりげなく側に控え、お駕籠の引き戸を開けますと。 ・・・・・・・姫!! 若君は一瞬、息が止まる思いにございました。 姫は、狭いお駕籠の中で。 うつぶせに臥せってうずくまり、細い息であえいでおいでにございました。 座っていることが、もう、できなかったのでございましょう。 長いおぐしが肩に背に。衣に床に。 沢瀬のたるみを下る清水のようにあふれ落ち。 流るる黒髪にうずもれて、ぐったりと身を伏していらした千の姫宮は。 それでも、かすむ視界のその先に、いとしいお方の姿をとらえられ。 少し、微笑まれました。 若君が手をお貸しになられましたとき。 やはり、その小さなお手は火のように熱く。 ああ。こんなにも、高い熱が。 どうして、この小さな姫がこのような目に遭わねばならぬのかと。 若君が奥歯を噛み締めましたとき。 姫の熱い手の中から。 そっと、若君に手渡されたものが。 ・・・・・・!?・・・・・・ ひんやりと冷たいそれは。 まえに、若君が千の姫宮に贈られた、あの琵琶の撥にございました。 はっとして、そのお顔を見上げますと。 熱にうるんだお目で、姫は静かに微笑んでいらっしゃいました。 人知れず、袖から袖へと渡された琥珀の撥。 おふたりの、数すくない思い出の品。 ねのもちづきの、萩襲ね。 耳に遠鳴る想夫恋。 乾いた庭の水の琴。 誰がためにと、鳴らしたか。 月に高鳴る撥音(ばちおと)は。 誰のもとへと、歌うたか。 あの夜の、琥珀の撥を。 千の姫は、たいせつにたいせつに、しのばせていらしったのでございました。 ・・・・・あなたが持っていて。 見ると、姫のお召し物の袖口には。てんてんと赤いものが。 わたしは、たぶん。 長くない。 どう見てもそれは、お唇や頬の紅が移ったものではなく。 そのとき若君のお心は。決まったのでございます。
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