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<<< 胡蝶 (15) >>> 

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    ひらひらひら。
    ふわふわふわ。






大井川を越えたところが、嶋田の宿。
ここは東海道五十三次の中でも、かなり大きな宿場町のひとつでございまして。
本陣だけでも3つ、旅篭屋は48、その他大小の店々など合わせますと総戸数1,468にものぼる賑わいだ宿場にございます。

姫宮ご一行は、ここで今宵のお宿をとられまする。



しとしと雨足強まる中、じわりじわりと水かさを増す気性の激しい大井川。
それはそれは難儀して、やっとのことで行列が川を渡りきりましたとき。
もう、夜闇はすぐそこに迫っておりました。

人も、馬も、みなぐったりと精魂つきて。
誰も彼も、ああ、湯や酒など浴びて早々に休息を取りたいもの、といった様子にございます。






「霙(みぞれ)大根の飾り包丁はぬかりないな?」

「牡丹海老と生湯葉の蒸し物は出来上がったか?」

「鰈(かれい)には葉山椒を添えるのだぞ」


本陣ではただ今、夕餉のお支度で宿じゅうが大わらわにございました。






    ふわふわふわ。
    ひらひらひら。






その、殺気立つほどにばたばたと慌ただしい配膳所に。



ひらひらと、透明の、蝶が。
・・・・・ごく小さい、美しげな水の蝶が。
あとからあとから、ひそかに舞い寄って。





山のように準備されたお膳に音もなく近付きますと。
そのお料理の中に、すい、すい、すい、と次々に溶けてゆくのでありました。






* * *





そして。


ちょうど、子(ね)の刻限(午前0時)ごろでございましたでしょうか。


川越えの疲れも手伝って、みなぐっすりと泥のような眠りに落ちて。



千の姫宮のお部屋の前で寝ずの警護をするはずの宿直(とのい)番までも。
槍を枕にこっくりこっくりと、居眠りをしておりました。



折からの雨は、ますます酷い降りとなってまいります。

時折、重い天空を。雷鳴が、閃光をともなって駆け抜けますたびに。

庭の植え込みも、かがり火も。
びくりと、その身をふるわせるのでございました。



そのざあざあと波立つ雨の中に、足音をしのばせて。
気配を消して歩みをすすめる、すらりとした人影がひとつ。

その人影の目指す先は。
千の姫宮がお寝みになっていらっしゃる、奥座敷。





    ・・・・・薬は、充分効いているだろうか。





座敷の手前の板廊下で。
その人影は、慎重に宿直番の様子を伺いまする。



宿直番が、ふにゃふにゃと寝言を口にしているのを横目に。
柱の陰から、一歩、また一歩と姫宮のお部屋へと足を進め。





眠りつづける警護の男の肩をかすめて、そっと襖を開けようとしましたとき。







----------かたん!




宿直番が枕にしておりました槍が、かくんと倒れ。
その拍子に、ふっと居眠りから覚めた男と、姫宮のお部屋の襖に手をかけようとしていた男との目が合い。


「曲者!」



    ・・・・・・しまった!!




喉元めがけて切り込んでくる槍先を、髪の毛一本の差でとっさにかわし。
そのまま相手の懐にもぐりこんで、渾身の力で利き腕を払い上げ。

勢い余った警護番の振りかざした槍が、侵入者の白い頬をざす、と掠(かす)め、
空を切った血飛沫が襖にぴしゅ、と鮮紅の染みを飛ばしたのと。

槍をかざした男のみぞおちに、ずん、と侵入者のこぶしが決まったのとは、ほぼ同時。





ざあ、と強まった横殴りの雨の庭。
がろごろと雷をたくわえて、低く肥ゆる黒い雲。




槍はがたりと床に落ち。
警護の男はそこに、気を失ってくずおれましてございます。




姫の寝所に忍び込もうとしていた男は、
わずかに乱れた呼吸(いき)を整えながら。
頬の血を手の甲でぐい、とぬぐい。




  
    ・・・・・薬の量が、足りなかったか。




本陣の夕餉の膳に。
ひそかに紛れ込ませた、水の蝶。


ただの水ではありませぬ。


実は、眠り薬を仕込んだ水を蝶にして。
姫の供回りの者たちの酒や肴にしのばせたのでございます。





頬に傷を負った若き侵入者は、心を静めつつ、今一度用心深く奥座敷の襖に手を。



ごろごろと遠鳴りながら、垂れ込める黒雲はさらに膨れ上がり。
地上の騒動は、音荒く降りしきる雨に掻き消され。




と。




「・・・誰かいるの?」





襖向こうから可憐な声。

それに吸い寄せられるかのように、襖が開かれましたとき。






がらがらがらがらがらっ!!!
ぴしっ・・・・・・ごろがらがあああん!!!





かみなり雲が一気に裂けて。
荒れ狂う閃光が地上に落ち。
いかづちの炎を背に、一瞬逆光の中に浮かび上がった気高き手負いの獣。


追い詰められて逃げ場を失った鳥獣のように、張り詰めた瞳をしていながらも。
ただよう高雅な気品は拭いきれず。

荒い息の下からほとばしるのは。
どこまでも一途な、若い恋心。



「・・・・神泉苑の・・・・・!」


千の姫は、我を忘れてそのお方のもとへ駆け寄って。
無我夢中で、その首にしがみつき。

そして間近に見た、鴨の若君のお美しいお顔の無残な槍傷に愕然として。


「お怪我を!?」


手当てをするものがないかと、おろおろと部屋の中を見渡される姫を抱き取って。
若君は声を殺して、早口で告げられます。



「迎えに来た。約束どおり、わたしの北の方になっておくれ」

「なんてことを!! 殺されてしまう!! 」

「中庭の向こうに、馬を用意してある。急いで」



姫はぼろぼろと涙をこぼしながら、訴えられます。

「駄目。わたしが逃げたら、お父帝さまや、お祖父さまにご迷惑が・・・・・・・」




姫君の必死の訴えを聞いているのかいないのか。

若君は、やおら部屋の中の姫の着物やお化粧道具などを取り上げられますと、かたっぱしからばらばらと乱雑に投げ散らかされて。


黄金刺繍の袿(うちき)、五色の綾糸を垂らした大和扇、螺鈿細工の鏡台。
女君のお部屋をまろやかに飾っていた雅びなものものが、次々と荒々しく捨て放たれて。
見る間に、お部屋の中は、滅茶苦茶に取り乱されてゆき。



「な、何を?」


驚く千の姫の手をぐい、と引き寄せて。


「心配いらない。姫は逃げたのではない。不埒者に攫われたのだ」


「そんな-----------」


まだ何かを言いかける千の姫のくちびるは。
半ば強引にふさがれて。


あふれる涙をぬぐうこともできぬまま。
強い力で抱き締められて。





     ------------病がうつってしまう・・・・・・。

     ------------構わない。







部屋をわざと荒らしたのは。

抵抗する姫を無理やり連れ去ったのだと、装うため。

万一の時、咎を受けるのは。自分ひとりでいい。





藁で編んだ粗末な雨具に姫を包むと。
そのまま横抱きに抱え上げて。


鴨の若君は、雷雨に荒れる春の嵐の中へ飛び出してゆかれました。




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♪この壁紙は薫風館さまよりいただきました。♪



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