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好きなひとと、落ちてゆくのなら。 行く先は、どこでもかまわない。 たとえそこが、水底(みなそこ)の冷たい泥牢でも。 この手を放さずにいられるのなら。 裾引く衣裳も長い髪もいらない。 そんなものと引き換えに、ひとときでも夢を見られるのなら。 すべて棄ててもあまりある。 いのち棄ててもよいのかと尋ねられれば。 迷いもてらいもなく。 「それならば、今」と。 愚かなことを、と笑われてもいい。 人恋うこころに。---------『分別』はいらない。 弥生なかばの夜半(よわ)の水は、冷たく。 鉛色の水は、重く。 水の扱いにおいては、ただ人ならぬ力をお持ちの鴨の若君をもってしても。 嵐に荒れる大井川を徒歩(かち)より渡るのは、生半可なことではございませぬ。 川岸から3間(約5.4メートル)ほどまで進みますと。 水の高さは脛(すね)から膝、膝から腰、腰から胸あたりまでにずいずいと押し寄せてまいります。 深さが増すとともに、水の重さも増して。 次第に、重い壁を押しのけながら進むかのような具合になって、足を一歩持ち上げるのも大変な難儀となってくるのでございます。 若君は、姫宮を下手側に、そして自らは姫の盾となって上手側を歩まれますが。 時折咳き込まれる姫を気遣いつつ、じりじりと、さらにまた4間(約7.2メートル)ほど入りますと。 川の水は、もう首元までせり上がり、水しぶきは容赦なくお顔を打ちますので、息をするのさえ、苦しく。 ------ごぉぉぉおおおおう・・・・・・・。 闇を揺する轟音に、思わず顔を上げますと。 上流から、なにやらやけに大きなものが、ぐいぐいと流されてまいります。 夜を透かしてよく見ますと、それは。 上手の村落からもぎ取られ、押し流されてきたらしい、水車小屋。 浮き沈みしつつ近付いてきたそれは、お二人の目の前を通り過ぎた直後、一気に加速して。 ------ずがぁあああん!! 川の中ほどに突き出ていた岩に真正面からたたきつけられて、ものの見事に粉々になりましてございます。 おふたりは、一瞬ぞっと身を固くされましたが。 それでも、振り返れば暗い竹林の中を、追っ手のたいまつが確実にこちらへ向かってくるのがわかります。 歩みを止めるわけにはまいりません。 川の中ほどには中州がございます。 そこまであと、およそ10間あまり(約20メートル)。 「姫。ここから少しの間、足はつかないと思う。」 千の姫宮は、青ざめた唇ながら、健気に肯かれます。 「ほんの、しばらくのあいだだから。怖くても我慢して」 「大丈夫」 「わたしにつかまっているんだよ。この深みさえ乗り切れば、ほら、あそこの中洲に向かってまた徐々に浅くなっていくはずだから」 姫がしっかりと肯かれたのを確認して。 鴨の若君は川底をがっと蹴られました。 その時。 かんかんかんかんかんかん! 異変を知らせる警鐘が川面一帯に鳴り響き、にわかにあたりが騒然としてまいりました。 増水による川下への被害をくいとめるため、ぎりぎりまで開門せずに関止めしてありましたいくつかの水門が。 とうとう、もちこたえられなくなって、次々と水を放ち始めたのでございます。 川の水は俄然勢いを増し。 そのうねりは、この世の全てを喰らい尽くそうするかのように貪欲に膨れ上がり。 「潜る!深く吸って!」 「はい!」 「----止めて!」 どぷん・・・・! 水底近くのほうがまだ流れは緩いと読んだ水の一族の御曹司。 ふたり呼吸を合わせて、一気に水中の深みに逃れ。 ・・・泥を含んだ水は、人の子の力など鼻にもかけぬとでも言うように容赦なく川の中のお二人を飲み込み押し流そうといたします。 まともに泳ぐどころか、引き離されまいと互いにしがみつくだけでもそれはそれは大変なことで。 もがけばもがくほど。 あらがえばあらがうほどに。 ますます足をとられ、体を切りもまれ。 ・・・ぐぼっ・・・・。 姫の喉から大きな気泡がこぼれたのを見てとった若君は、ぐい、と水底を蹴り。 ざぶぅっ! 大急ぎでいったん水面に顔を出されたのでありますが。 流され行くその先には。 さきほど水車小屋を打ち砕いた、あの巨岩が。 ---------ぶつかる!! 無我夢中の、決意。 水使いとして、もとよりしてはならぬこと。 川の神の大切な持ち物である水の流れを、無理やり、捻じ曲げようと。 ---------川の神よ! お許しを! 若君の喉の奥から、禁じられた呪文が唱えられ。 大岩のまわりの水がざわざわと泡立ちはじめ。 姫は、そのただならぬお顔つきに気がつかれ、何事か言われましたが。 もう、若君のお耳には入りませなんだ。 韻を踏んだ呪の言葉は。 ひたひたと川面を走り。 --------変わってくれ! ただ一度だけでいい! 禁句とされる文言を、必死で唱えられる若君の。 目と鼻の先に、もう、岩が。 --------こんなところで命落とさせるために。姫を攫ったのではない! 呪文は・・・ついには、血を吐くような叫びに。 「 変、わ、れ ー ー っ !! 」 祈りのはてに散ったのは。
水の蝶か、幻か。 胸に抱くぬくもりはたしかなのに。 少女が泣いているのはなぜだろう。 嵐の川にいるはずなのに。 水琴窟の歌が聞こえるのは。 背骨くだける音がしたのに。 痛みを感じぬのは。 ・・・なぜだろう。 * * * * *
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