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懸命にささやきかける乙女の声にたぐりよせられて。
混濁した意識の中から引き戻されましたと同時に、全身を刺し貫いた痛みに、鴨の若君は思わず顔をしかめられ。 頬打つ雨と。 髪にざらつく濡れた砂と。 足元を攫う濁水の感触。 弥生なかばの夜半の雨は、雪よりも冷たく。 春の嵐の豪風は、ひとふきごとに衣を剥ぎ取っていくかのように、寒々しく。 瞼を開けて、最初にその視界に飛び込んできたものは。 幸いなことに、この世で一番長く見ていたいと思う娘御のお顔でございました。 横たわったまま目線を右に流しますと。 どうどうと流れる川と、そのずっと先に、先刻あとにしてきた岸辺。 左に移しますと。 また、そちらにもやはり川の流れと、その先に川岸。 つまり、川のちょうど真ん中にいる、ということで。 ------ああ。岩に打ちつけられて・・・・そして、中州に打ち上げられたのか。 全身傷だらけの若君がうっすらと瞼を開けられましたのを見て。 千の姫宮はわあっとその胸に泣き伏されました。 いとしいお方の意識が遠のいていましたのは、ほんの一瞬のことだったのでございましょうが。 姫君にとっては、一生ぶんの時間が流れたかと思えたほどに長うございました。 「ごめんなさい・・・・ごめ・・・」 姫宮には、水の一族の細かい決まりごとなど、わかりませぬ。 でも、大事なお方が、自分のために何かしてはならないことをなさったことくらいは、察していらっしゃいました。 男君は、ご自分の胸の上につっぷしているやわらかなひとを確かめるため、起き上がろうと思われたのですが。 どうにも、体はいうことを聞きませぬ。 腕を動かしてみますと、左腕だけはとりあえず持ち上がりましたので。 それをそろりそろりと動かして、胸の上の重みにかさね。 ------姫? 喉に血がむせてうまく声が出なかったのでございますが、その掠れた囁きにぴくんと姫は反応されまして。 ------怪我は? 「大丈夫! 大丈夫よ!! 次はどの瀬をゆけばいい? わたしがあなたを引いて行く!!」 ------・・・・・・・・姫。 「教えて! 引きずってでも! 行くから!!」 寒さで氷のようにこわばったくちびるからほとばしる言葉のけなげさに。 若君は、胸を深くえぐり取られるような心地でございました。 ------よく聞いて。私は水の掟を破った。おそらくもう、八百万の神、誰一人として私を助けようとはしないだろう。 「嫌!」 ------でも、この身を川の神に差し出せば、あるいは、願いをひとつ聞き届けてもらえるかもしれない。 「嫌っ!!」 ------私の命と引き換えに、そなたを岸へ渡してもらえるよう、川の神に奏上してみよう。 「い、やーーーーーーーーっ!!」 姫は激しくかぶりを振られます。 「そんなことしたら。わたし、舌を噛むから!」 ------私を、脅そうというの? 「ええ、そうよ」 ------・・・聞き分けのない・・・・。 若君がかすかに苦笑されたとき。 ひゅぅうんっ!! 中州に取り残されたかっこうのおふたりの頭上に、火矢が。 振り返ると、手に手にたいまつを掲げたもののふたちが、もうわらわらと、さきほどあとにした川原に。 彼らは、姫のご衣裳や御髪などを取り囲み、何事か叫んでいる模様にて。 暗い川の中のどのあたりにお二人がいらっしゃるのか、川岸からはわからないのでございましょう。 さすがに荒れ狂う川の中には入ってはこないものの。 油を鏃(やじり)に染み込ませた火矢を放って灯かりがわりにし、お二人の姿を探そうとしているものと思われます。 「逃げましょう。 起きて! まだ、あきらめてはだめ!」 姫は、小さなお手でうんうんと若君の身体を引っ張られます。 びしゅうんっ・・・・! そのお二人のすぐ真横に。 また、火矢が。 ------姫。まもなくこの中州も水に沈む。その前に、・・ 「わたしひとりじゃ行かない!!」 ------どのみち私は、もう助からない。骨が折れて臓腑を貫いている。 「だめ! 一緒に行・・・」 叫ぼうとしたお口元を。 姫はあわてて覆われました。 ごほっ。ごほごほ、ごぶっ・・・・・ 突っ伏した口元を押さえた袖をどっぷりと染める、赤いもの。 あわてて、袖口でお顔を拭われるものの、それはべっとりと顔になすりつけられるだけで、ちゃんとは落ちませぬ。 ------姫?! 若君が力を振り絞って身をよじられたのを。 「見ないで!」 姫は、懸命に止められました。 顔を隠したまま、、、、涙声で。 「見ないで・・・・血で醜く・・・きっと、人を喰らった鬼のような顔になっているから・・・お願いだから、見ないで」 今にも千切れそうなその呼吸。ぜいぜいと喉を震わせて。 雨あられと降り注ぐ、炎の矢の下で。 若君は、顔を覆う姫の袖をお引きになり。 ------隠さないで。 そう言われても。このように汚く、おそろしげになっている顔を、誰よりもお慕い申し上げているお方に見せられるものではございません。 まだ、顔を見せようとしない姫の袖を、若君はもう一度かすかな力で引かれまして。 ------目がかすんできた。最後に見るのは。姫の顔がいい。 『最後』のお言葉に、びくっと身を震わせた千の姫は。 おそるおそる、袖をおはずしになり。 「こんな、醜い顔でも、よいの?」 ------・・・・よく、見えない・・・もう少し、近付いてくれないか。 姫は、泣くのをやめて、若君に近づかれました。 ------もう少し。 おふたりのかたわらに、また、ひゅんと、火矢が。 「見える?」 ------・・・・見えない・・・もう、少し、そばへ。 小刻みに震える若君の左手が伸ばされて、たしかめるように姫宮の頬に触れたとき。 姫は自分から顔を近づけて。 ・・・・わかる? わたしは、ここに・・・・ 血と涙の味が、若君の唇に。
哀惜と葛藤の想いが、姫の唇に。 かすかに痙攣の始まった若君のお手。 唇を通してその命の残り火のはかなさを感じ。 姫は、一緒に行きましょう、という言葉を口にするのをおやめになりました。 「わかりました。・・・わたし、行きます。」 ------それがいい。 「でもね。」 ------うん? 「雨が、やんでからにする」 ------え? 「水がどんどん増えているのだもの。足をとられてしまいそうで怖い」 ------でも、、 「体が冷えて、疲れたの。水に入ったりしたら、その場で死んでしまうわ。それでも今行けと言う?」 ------・・・・・。 「ね。雨が止んだら行くから。少しだけ休ませて?」 精一杯考えた、言い訳。 残り少ない時間を、行く、行かないの押し問答で終わらせたくはないと。 一生懸命考えられた、言い訳。 言葉に詰まってしまわれた若君のお側に、姫はぴったりと寄り添って横たわられます。 拒まれなくてほっとしたと同時に、どっと疲れも押し寄せてまいりまして。 姫は、ふうっと大きな息を吐かれました。 静かに降り続く雨は、吸い取るようにおふたりのからだから体温を奪ってまいります。 からだが冷たくなってきますとともに、だんだん頭もぼうっとしてくるようで、わあわあと喚いているもののふたちの声も、どこか遠くの違う世界のものおとのように思えてきて。 睡魔に似た感覚がしのびよってくるのを感じながら、おふたりはぽつりぽつりとお話を。 ------約束を守れなくて、ごめん。 「約束?」 ------七夕までは、もたないから。 ふわあっ。 ふわふわ、ふわぁ・・・・・。 二人のまわりに、いくつかの、水の胡蝶が。 ------このくらいは。龍神さまも、見逃してくださるだろう。 ひゅんひゅんひゅん・・・・・・ 火矢は、つぎつぎと放たれてまいります。 追っ手は、なんとか川を渡ろうとしているもようでありますが。 流れの激しさに阻まれて思うにまかせず、川岸に立ち往生している様子にございます。 ![]() Kenさま:画(もとのサイズはこちら♪)
頭上に飛び交う火矢は流れ星のようで。 火矢の朱色に映えて、水の蝶は金色に。 おふたりのまわりには。 愛らしい水の蝶が、ひらひらひらひらと漂い。 ------姫。 ------はい。 ------私は、今度生まれてくる時には、必ず本物の龍神に生まれてくるから。 ------龍神さまに? ------そうして、本当にそなたを攫う。誰にも文句は言わせない。 千の姫宮はうっとりと微笑まれて。 ------わたしは・・・名もない、在方の娘に生まれてくる。 ------うん。 ------だから、必ず、わたしを妻にしてね? ------約束するよ。 ------きっとよ? ------うん。きっと。 雪や水の中で、すこうしずつ、すこうしずつ、体が凍えてゆくというのは。 ここちよい夢の中にいざなわれるのに似て、痛みや苦しみをほとんど感じぬそうにございます。 疲れ切って、、、でも、頬にはやわらかな微笑を浮かべて寄り添われるお二人の意識が、眠るように薄らいで行くのには、さほど時間はかかりませんでした。 舞い踊る水の蝶が、ひとつ、ふたつと姿を消し。 最後のひとつが見えなくなりましたとき。 川の水の勢いが、ざぁとひときわ高くなり。 ![]() Kenさま:画(もとのサイズはこちら♪)
* * * * * * * * * * 大井川は、三日と三晩、荒れまして。 やっと、嵐が去りました時。 大井川には、新しい側流や支流がいくつもできていたそうにございます。 その、新しくできた若い川のひとつに船を浮かべ。 朝日にきらきらと光る水面に、漁師が網を投げておりました。 「ん??」 「どした?なんぞ変なもんでも、かかったか?」 投げた網を引き上げた漁師が、けげんな声を上げましたので。 相方がその手元を覗き込みますと。 「ひやあっ。なんか、とんでもないもん、釣ってしもたんでないか?」 網にかかっておりましたものは。 水の神を表す龍の細工がほどこされた、それはそれは見事な琵琶の撥。 「おいおいおい、どうすべえ??もしかして、川の神様の持ちもんかもしんねえぞ??」 「た、たたりでもあったらえらいことじゃ。ほっておくわけにゃいかんが」 漁師は、すぐさまそれを村へ持ち帰りまして。 村一番のじさまに相談しましたところ、やっぱり手厚くお祀りするのがなによりよかろうということになりまして。 その川のほとりに社を建て、そこに祀って、村人みなで大切に崇め奉りましたそうにございます。 そして。 その美しい琵琶の撥が、琥珀でできておりましたので。 以来だれからともなく、その川は「こはく川」と呼ばれるようになったということでございます。 * * * * *
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