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<<< 胡蝶 (20) >>> 

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いまひとたびの

いまひとたびの 会うこともがな




もしもこの身が滅びても。

必ず、会いにゆくから。


魔物のように恐ろしい異形(いぎょう)の姿となり果てていても。

駆け寄ってきてくれるだろうか。


会えて嬉しいと、微笑んでくれるだろうか。





いまひとたびの。







* * * * * * * *









さりさり。しゃりん。
ちん。とん。さん。




膝に、まとめ髪の少女の頭をのせたまま。

萩襲ね姿の姫と向かい合い、言葉を失っていたハクの耳に、どこからともなく水琴窟の音が響いてきた。



「今・・・・、今、そなたは何と言った?」

「え?」

「その・・・大井川の若い支流の、名だ。」

「ああ。その川の名はね。こは・・・」


くすくすと小さく笑いながら、問われるがままに答えようとした娘の肩を。
ぽん、とたたいて止めた者がいた。





「おやめ。それは、『姫が』教えるべきことではないよ」





その涼しげな声音に、・・・・顔を上げて愕然とする、ハク。




みやびな小袿姿の少女の肩に手を置いて微笑んでいるのは。


碧のかった、澄んだ瞳の白面の少年。

竜胆(りんどう)の紋様を銀の糸で縫い取った青い下襲(したがさね)の上に。
唐草模様の透かし織りをほどこした、白い生絹(すずし)の狩衣。


萩襲ねの少女の装いと、いかにも似つかわしげな、清涼感ただよう衣裳に身を包んだ若公達であった。



その少年は困ったような微笑を浮かべつつ、龍神に語りかける。

「鏡を見ているようで、気分が悪いかな?」





気を取り直して、ハクは再び目の前の二人に問いかける。

「そなたたちは・・・・いったい、何がしたいのだ?」


    ------自分自身に話し掛けるようで・・・なんとも、居心地が悪いのだが。






「だって。あなたときたら、また今度も千尋の手を放そうとしているのですもの。見ていられなかったのよ」

「・・また、・・・とは?」

「自分で千尋を呼んでおきながら。また、還そうとしているでしょう」

「?」






ハクに瓜二つの少年が、笑いながら、二人の間に割って入る。

「やめなさい、と言っているではないか」

「でも」

「今は、魔女に記憶を奪われているのだから。仕方がないだろう?」

「それが、もどかしいの!」

「わかるけれど。私達が教えてよいのは、『魔女が奪ったものよりも前の記憶』だけだ。そこから先は、・・・・本人たちの問題だと思う。」




龍神とよく似た顔立ちの少年は、ハクに向き直って、言った。

「混乱させてしまって、すまないね。この姫はただ、・・・・『生まれる前からの縁(えにし)』を話して聞かせたかっただけなんだ」



「生まれる前からの?」

「そう。この世には偶然、というものはないから」

「・・・・・千尋とめぐり合ったのは、偶然ではなかったと?」



「もちろん、巡り会うべき定めの下に。巡り会った・・・いえ、呼び寄せたというべきかしら」

「呼び寄せた・・・私が千尋を?」

「そう」

「そんな覚えは・・」

「ないとは、言わせないわ?」

少女がまたいたずらっぽい笑みを浮かべる。






困惑を隠し切れない龍神を前に、狩衣姿の少年は、ふっと遠い目をした。



・・・龍神の少年が・・・・今は魔女に奪われてしまっているのであろう記憶に思いを馳せて。








たぶんあれが。

一度目の、『神隠し』。








* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *












川で生まれた白い龍は。ずぅっと待っていた。

生まれたときから、何かをずっと。

誰かをずっと。




この心満たされない想いはなんだろう。

自分はいったい何に飢(かつ)えているのだろうと自問しながら。




待って、待って。


100年が過ぎ。200年が過ぎ・・・・・













夏のはじめの昼下がり。
あおあおと葉を茂らせた潅木が岸辺からたわわにせり出して、川面にやわらかな影を落とし。
川の中ほど、お気に入りの深みに横たわる年若い水の神。

水底に苔むす青藻は、上等のびろうどの敷物のように肌触りよく、川の主を包む。
水面の向こうからぽろぽろと落とされる木漏れ日と小鳥の歌声がなんとも心地よくて。
うとうとと、なかばまどろんでいたところ。

ふと視線を感じ、光さす水面を見上げると。



こちらをじぃっとみつめるつぶらな瞳が、水ごしにたゆたゆと揺れていて。







    ・・・・・なんだ。人間の仔か。




人間は喧(やかま)しいから嫌いだ。

汚いものをどんどん勝手にこちらに押し付けてくるし。
川の生き物を虐めるし。

私たちは静かに流れていたいだけなのに。





    どうせ、こちらの姿は見えてはいまい。





龍神が無視を決め込み、午睡の続きを貪ろうと、
鬱陶しげに目を閉じかけたとき。





「おにー」


水の向こうの人間の子が、嬉しそうに呼びかけた。




  
    鬼?!





かちんときた龍神は、がっと目を開けて。


「鬼ではない!龍神だ!」




向こうへ行けとばかりに、きつく言い放ったなら。
なにが面白いのか、その人間の娘はきゃっきゃと笑った。




「わぁいーー。おにー・・おにー・・・」

「だから!鬼ではなくて!」

「おにーーたん!」



「・・・え・・・」



舌足らずながら、やっと。
言いたかった単語が最後まで言えて得意げな子供と。


ここまできて初めて、自分の姿がその人間に見えていることに、はたと気付く、龍神の少年。

最近にしては珍しいこと、とは思いつつ。




    ・・・ああ、もう、煩わしい。






一気に追い払おうと、その姿を巨大な龍のかたちに変え。
澄んだ蒼い水の中から真っ赤な口を開いてがあっと威嚇してやろうとすると。





「しゅごーい!!もっかい、やってぇ」





    ・・・・・も、もっかい・・・・?





出鼻をくじかれた龍神はあやうく水底で足を滑らせそうになった。

子供は小さな手をぱちぱちと叩きながら、人の形から龍の姿へと早変わりした自分を、大喜びして眺めているのだ。




「おじょーじゅ。おにーたん、おじょーじゅ。」







    じょ、『上手』だと、誉められ・・ても・・・・・・。






水面近くまで浮かび上がったものの、調子を狂わされて、あんぐりと口を半開きにしたままの、龍。



に。





ぽしゃっ。







    ・・・・・・・・・。




    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。







龍は、一瞬何が起こったのかわからなかった。










娘は、にっこにっこと笑いながら。
白い獣の、その耳まで裂けた口に向かって、自分の履いていた靴を投げ込んだのだった。



「ぶ、無礼なっ!!」



怒り心頭の龍神。
飲み込んだ靴を瀬に向かってべっと吐き出し、水中からその体を現さんとしたとき。



幼い娘は、相変わらず嬉しそうに、
小さな口から、まだ言葉になりきらない言葉を発した。





「ごほうび、あげりゅーー。ちーたんのくっく、おにーたんにあげりゅー。」





    ・・・・・ご、ご褒美・・・・・・・。




水族館で芸をするアシカやイルカじゃあるまいし。





「はい。あーん。」



子供は龍の思惑などまるでに気にかける様子もなく、もう一方の靴も脱いで、ぽーんと龍神の口元に投げてよこしたので。
彼は慌てて、半開きのままになっていた口を閉じ、鼻先でそれをぺし、と弾き返した。



「・・・・わ、私が、恐ろしくはないのか?」



気を取り直して、龍は水中から幼な子に語りかけた。



が。

娘は一向に堪える様子もない。




人型の姿を取っているときならいざ知らず。
この、龍の姿を見て怖がらない人間がいるとは。
若い水神にとっては、少なからず驚きだった。




「せっかく、くっくあげたのにー。おとしちゃ、めんめでしょー」


幼女は、龍神が弾き返した靴を拾おうと、短い手を瀬に伸ばす。



   ぱちゃぱちゃぱちゃ。
   ぱっちゃん。ぱちゃぱちゃ。




     水の中に。龍神の領域に。
     小さな手が、無防備に入って来た。







幼い娘は、水際にかがみこんで、水中の子供靴のあるあたりをまさぐるのだが。

いかんせん、届かない。




   ぱちゃぱちゃ。ぺしゃぱしゃ。
   ぺちゃぱしゃぱしゃ。





・・・・不思議だった。

普段だったら。
自分の領域に人間が踏み込むのは基本的に嫌なのだ。
我が川に何をされるかと身構えて、ぎり、と睨みつけているか。

目に余る時には、強引に追い払うか。


そういう行動に出るのが、普通なのに。



その、ほってりとまるい子供の手が、
水神の領域と、空気のある世界を行ったり来たりするのを水中から眺めているのは。




こそばゆいような心持ちこそすれ。
少しも嫌だとは感じなくて。


まるで、たてがみを優しくくしけずられているような。
耳の下の、喉の付け根のところを撫でられているような。

そんな感じがして。


とにかく、・・・・うっとりと心地よかったのだ。





   ぱちゃんぱちゃん。
   ばしゃばしゃばしゃ。




幼児特有の、ぽっちゃりとした手の甲の。
短い指の付け根にはそれぞれひとつずつ、えくぼのような小さなへこみがちょんちょんちょんちょんと並んでいて。

まるまるとした手首には、輪ゴムを巻いた跡のような、ぷるんとしたくびれがあって。

不器用にひらいたり閉じたりする、5本の小さな指は、いかにも、ものを掴むのが下手そうな。





龍は、子供を脅して追い払うという考えを止めて。
つい、と、少年の姿に戻ると。




靴を掴もうと水の中を右往左往する、その小さな指の中に。

つん、と、自分の人差し指を伸ばしてみた。





   ・・・・むきゅっ・・・。





思いがけず、吸い付くような強い力で、龍神の指は握り返された。





こういう場合、握り返すという行動は、幼児にとって条件反射のようなものなのであるが。
彼は、なんとなく、その感触が面白かったので。

わざと、指を抜き取ってみると。

その小さな手は、おろおろと龍神の指を水中に探す。
ひらひらと泳ぐくらげのように、ひらいたり閉じたりしながら。



その水蜜桃のような手のひらに、また、つん、と人差し指の先を当ててやると。


「ちゅっかまっえたーー」


また嬉しげに、5本の丸い指がそれをぎゅうと捕まえる。




少女の求めるものは、靴から少年の指へと、
いつの間にかすりかわっていて。





地上に人間はあまたいるが。
龍神を捕まえて遊ぶ子供とは。またなんと。






自分の口元に、ほのかな笑みが浮かんでいることに。
少年自身は気が付いていなかったが。



龍神は、指を抜き取ったり、また握らせたりして、
しばらく遊んでいた。






が。







「千尋ーー。帰るわよぉーー。もどっておいでーー」



「はあーーーい」








突如、中断された、遊び。


「おにーたん、またねぇ」








・・・・・・・。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

















・・・・・行くな・・・・!























初めて。『欲しい』と思った。

無欲な、龍の少年が。

初めて。

自分から何かを欲しいと、思った。







そのとき。






どぷぅ・・ん、と、鈍い水の音がした。





頭の大きな人間の子供が、体の重心を取り損なったのか。

それとも、龍神が幼な子に握らせていた指を急に引いたためか。







立ち上がろうとした小さな娘は、水の懐深く落ちて。
ごぶごぶごぶと口から丸い空気の玉を吐き出しながら、いったん深みにのみこまれ、そしてあれよあれよと言う間に下流へと押し流されてゆく。








・・・しまった!!!!






龍身となった少年は夢中でその娘を追いかけた。


二本の角の間にそのやわらかいものを掬い取り。
全速力で浅瀬へと運んだ。








子供が。死んでしまう!









息を切らせて娘を岸辺に引き上げると。


さぞかしぐったりとしているであろうと思った子供は。
------きょとんとしていた。




そのとき、、、、、龍は、、、、自分が『水神』であったことを、、、、
思い出して、吹き出した。




    何を慌てていたのだ。
    『自分』がこの人間を抱え守っていたのだから。
    溺れ死ぬわけがないではないか。




あはは、と声を上げて笑う龍の少年につられて、娘も、にぱぁ、と笑った。


歯の生え揃わない口をいっぱいに開けて笑うその顔を。
可愛い、と龍神は思った。



「おにーたん。もっかい。もっかいするーー」

龍の背に乗って、水を切って泳いだのが気にいったらしい。


せがまれて、頬を緩めた少年。

遠くに、少女を呼ぶ母親らしき声が聞こえたような気がしたが。



「少しだけだよ?」

「ん!」




ちら、と罪の意識が頭を掠めたけれど。
少しだけ、少しだけだから、と自分に言い聞かせ。



少年は再び龍の姿となって。
少女を背に乗せると、美しい水の世界にいざなった。



藻をまとった小岩の影からちらちらと姿を見せる小さな蟹。

深緑色の水草が水に揺られておいでおいでをする。
その、みどり豊かな水底の草原に身を潜らせると、柔らかな葉先が体を包みこむのがくすぐったいのか、子供はきゃはは、とはしゃいだ。


「うわぁ。おさかないっぱい、おそらに、およいでりゅー!」

「え?」



子供が高々と指差すほうを見上げると。

水上の太陽を背に、くるくると群れ泳ぐ魚のひとむらがいた。
頭上いっぱいに泳ぐ魚の群れ、というのをはじめて見たのであろう。

魚群の上には、透明な水面を透かしてそのまま青い空が広がっている。
白い雲が風に追われる様子も鮮やかに映えて。


「おにーたんちのおさかなは、とべるんだねぇ」


龍神にとっては当り前すぎる光景で、気にもとめていなかったが、そういわれてみれば、確かにこの様子は、魚たちが空を飛んでいるようにも見える。



龍は、ふふ、と笑って。


「私も空を飛べるよ」

「ええーー!? ほんとー?」

「むろん」

「ちーたんもおそらとびたいー。つれてってぇ」

「そうだね・・・・いつか、ね」

「おやくそくだよ!うそついたらありせんぼんだよ!」

「うん」


・・・『ありせんぼん』ではなくて『針千本』ではなかったかな、などと思いながら少女と指切りをする龍の子。





水の下からふり仰ぐ太陽の光は、やわらかい。
とどまることのない水の流れにあおられながら、七色の細い糸の束となって水間を照らす。

龍は、地上で見る太陽よりも、水中から眺めるそれの方が好きだった。



「そなたの世界の太陽と、こちらの太陽と、どちらが好き?」


子供を浅瀬へと送りながら、なんとなく、龍は尋ねてみる。

が、質問が難しかったらしく、子供は目をぱちくりさせているので。


彼は笑いながら質問を替えた。


「そなたは、ここが好き?」

「うん!!とっても、きれー」






光と水の間を縫って泳ぐ虹色の魚たち。

川面にせり出した木々の枝影も、鮮やかに。






もっとー、もっとあしょぶのぉーー、と駄々をこねる子をなだめ、陸へと還した時。










そこでは三日が過ぎていて。









犯罪だ、いや神隠しだと、人間達は大騒ぎをしていたのだった。




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♪この壁紙は薫風館さまよりいただきました。♪



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