聞こえるはずのない、水の琴の音が。
天井から、二人に降り注ぎ。
背後から、二人を絡め取り。
部屋中にみち満ちる、しめやかな音の洪水。
その水の楽に導かれるように。
絵巻物の中の少女が。
ゆっくりと、振り返った。
「きゃああああーーーーーー!」
湯屋での生活の中で、人間世界で言うところの『不思議なもの』『不自然なもの』には、それなりの免疫がついてきていたはずの、千尋だったが。
これにはかなり面食らった。
ハクは、腕の中に千尋を庇いつつ。
その絵姿の正体をつかみかねていた。
・・・・邪悪な念は感じない。だが、何者だ。
Kenさま:画
と。
絵の中の少女が。口を開いた。
「『神隠し』だなんて。ずいぶん、強引な手に出たものね」
一瞬。
背に冷水を浴びせられたかのような気分になる、龍神の少年。
「わたしの、声!」
千尋が、我を忘れて叫ぶ。
そう。絵姿の少女の声は。
・・・・・千尋のそれと、同じ響きだった。
二人を取り巻く水の琴の音がひときわ高くなり。
「なにを・・・言う・・・?」
震える声を振り絞る少年の目の前で。
「これで、二回目でしょう。龍神さま?」
絵姿の少女は、きゃらきゃらと、笑う。
「何の・・・ことだ?」
高まる水の琴の音。
音が音を呼び、歌を誘う。
ちりちりと皮膚を刺すように折り重なる残響。
「自分じゃわからない? じゃあ、教えてあげる」
いったい何が言いたいのだ、とハクが詰問しようとしたとき。
音のうねりが突然、重い渦潮となって、高波のように二人を飲み込んだ。
・・・・・・・・引き込まれる!!
「ハクーーーー!」
よじれた空間に身体ごと引きずられそうになった千尋が、必死で手をのばす。
「千尋!」
我を忘れてその手を掴んだとき。
そのまま、得体の知れない音の潮流が渦巻く空間に、龍神は少女もろとも飲み込まれた。
轟音とも濁流ともつかない、強引な流れに取り囲まれ。巻き込まれ。
まるで、荒波の中に投げ込まれたようで。
竜巻に切り揉まれているようで。
引き離されまいと固く抱き合うのが精一杯で、呼吸はおろか、目を開けることさえままならない。
我が身よりも大切な、腕の中の少女を奪われてなるものかと、ハクが歯を食いしばり、龍身となろうとした時。
ぎり、と片目だけ開けた少年の目の前を、
優雅な残像を残して、ひらひらと薄い生き物が通り過ぎた。
・・・・・蝶?
まるで、そこだけ、時の流れが止まったかのように。
この暴風とも豪流ともつかぬ激しい渦流など、せんから無いかのように。
何か、目に見えないやわらかな力に引き寄せられるかのように。
ハクが半ば無意識に、その蝶に手を伸ばしたとき。
す・・・っ、と轟音が止み。
気が付くと。
薄曇った朧月夜。
二人は見たこともない枯野のただ中に立ちすくんでいたのだった。
* * *
「ハク・・・・・ここ、どこ?」
袖にしがみつく少女を宥めつつ、あたりの気配を読む龍神。
淡い闇に目を凝らすと。
枯れ果てた平原のかなたに、ひとむらの、草高い茂みが見えた。
ごくかすかだが・・・・そちらの方向から、水のにおいがする。
水のあるところには、いのちの営みがあるはず。
本能的に、そこへ向かうべきだと感じた水神は、少女を促して歩き出した。
用心深くその茂みに近付くと。
葦。すすき。
背の高い草々にひっそりと覆い隠されるかのように、荒れた館が。
Kenさま:画
塀は半ば崩壊し、伸び放題に伸びたつる草に好き勝手に絡め取られ、締め上げられていて。
塗り壁が落ちたはざまから、月が見える。
かろうじて、ここが門か、と思われるところから、ふたりがそっと中へ入ると。
もとは情緒豊かにしつらえられていたであろう庭園が、手入れもされず、秋の野草に覆い尽くされていた。
野菊、藤袴、あざみ、げんのしょうこ、八重葎(やえむぐら)・・・・
青い光の中で小ぶりに咲く、秋の花々を踏みしめて、二人は庭を抜ける。
Kenさま:画
もとはそれなりの邸宅がそこにあっただろうことがうかがわれるが、・・・・・建物の大半は崩れ落ちていて、剥き出しになった土台や傾いた柱、ぶよぶよと腐りかけた畳や、壊れた調度品などがそこここに散らばり、それらは、生温かく澱んだ空気の中で、まもなく土に帰ろうかという風情であった。
庭の片隅に、かろうじて、壁と屋根が落ちずに残り、雨露をしのげるかという小さな部屋------というよりは、部屋の残骸と言った方が適切かもしれない-------がひとつ残っている。
「茶室のようだね」
「お茶室?」
「行ってみよう」
歩きかけて・・・・ふと、二人は足を止めた。
「ハク・・・・この音・・・」
ふたりの耳に・・・・さきほどの水琴窟の、音が。
そして。
「いらっしゃい。さあどうぞ、おあがりなさいな」
聞き覚えのある声が、今にも崩れてしまいそうな茶室から聞こえてきて。
龍の少年は、袖の中にさっと人間の娘を隠す。
「とって喰おうというわけでは・・・・話を聞いてほしいだけ。」
くすくすと、忍び笑う声とともに。
茶室の引き戸が開き。
そこから、華奢な白い手が、手招きをした。
「千尋。『神隠し』の訳を、知りたいでしょう?」
* * * * *