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いずれの帝の御世(みよ)にございましたでしょうか。 乾いた乾いた長い夏がございました。 梅雨らしい梅雨もないまま迎えた酷暑の蝉声。 辻雨のひとつも通らないまま、過ぎた盆。 秋風が吹く頃となっても、空気にはおしめりの気配もなく。 収穫の祭どころか、飢饉除けの雨乞いが村々で行われておりましたそうな。 時のころでいいますと。 武士(もののふ)が政事(まつりごと)をおさめるようになりましてから、もう、幾世も過ぎて。 戦の雄叫びが聞かれぬようになってから、ずいぶんと時久しゅうなっておりましたから。 ある意味、『太平の世』と称しましてもあながち誤りではない頃合い、かも知れませぬ。 西の京(みやこ)と東の都。 日の本の国には、ふたつの都がございました。 さて。 京の都の朱雀大路-----又の名を、「千本通」-----を北のどんつきまで進みますと、その一角に、時の関白殿のお館が見えまする。 *どんつき:つきあたり
『朱雀殿』、または『千本の大臣(おとど)』などの通り名で呼ばれていらしった、関白さまの。 趣き深くしつらえられた自慢の庭も、この夏ばかりは手の尽くしようがなく。 庭木は次々と葉を落とし。 清らかなせせらぎを模して造られた遣り水は干上がって、水底(みなそこ)にあるべき玉砂利がみな顔をのぞかせて。 船を浮かべて涼を取るべき池は、立ち枯れた赤い蓮(はす)ばかりが目立ち。 離れの茶室、水琴窟をしこんだ蹲裾(つくばい)もからからに渇ききり。 ちりりとも歌わぬ水琴窟は、ただの土の甕(かめ)でしかございませなんだ。 くすん。くすん。。。。ひっく。 歌を忘れた水琴窟に御耳を寄せて。 ひとり、たちばな色の衵(あこめ:童女の衣装)の袖を濡らしているのは、ようよう十ばかりの姫。 まるい頬を、赤く摺りなして。 つぶらな瞳は、涙に腫れて。 小さくうずくまる、その姫御は、関白さまの孫娘でありました。 姫の母君、つまり関白殿の娘御は、御所に召されて女御となられ、この姫君をお産みになったのでございます。 帝の四番目の姫となられますこの内親王は、『女四の宮さま』、あるいは、御祖父さまの呼び名にちなんで『千の姫宮さま』などと、お呼ばれになっておいででありました。 ・・・・・私の涙で、水の琴が歌ってくれればよいのに・・・・。 普段は宮中で母君と暮らしておいでの、千の姫。 この夏は、母君の実家(さと)下がりに伴われて、この邸へ。 関白家の御法要のため、しばしのご滞在にございました。 実はこの姫君は、宮中の局(つぼね)よりも、御祖父さまのお屋敷のほうがお好みで。 とりわけ、植え込みに隠れるかのようにしつらえられた、小さな茶室。 そこにひとり佇んで、水琴窟の音色に耳澄ますのが、なによりお好きにあらせられました。 ・・・・では、ありましたが。 この夏ばかりは、町々はどこも乾いていて。 ひとも、花も、風も。 みな、水にかつえている有り様でございましたから。 いつもなら、途切れることなく玉のような水のほたたりを落としているはずの手水鉢も、とうに干上がって。 いくら耳をそばだてても、あの心休まる水の琴の歌を聞くことはできませなんだ。 ----------わたしの涙で。水琴窟が歌ってくれればよいのに。 姫は、・・・・・実家(さと)下がりのご挨拶の折り、父帝より言い渡された言葉を、思い出されておいででした。 --------千の姫宮よ。少し早いが、そなたは来年の正月を待って裳着式(もぎのしき:女子の成人式)を執り行うこととなった。 それが何を意味するのかということは。 幼い姫なりに、わかっておりました。 一人前の大人の女性として認められるということは。 嫁ぐことができるようになると、いうこと。 その輿入れ先は、まわりの大人たちがずいぶん前から噂していましたので、自然、姫の耳にも入っておりまして。 東の都をつかさどることになる、次期将軍。 武士(もののふ)たちをたばねる長となる殿方の、御台所(みだいどころ:正室)にと、前々から申し入れがあったとのこと。 しかるべき皇族の姫を将軍家の御台所に、という例はしばしばあったのでございますが、まさか自分に白羽の矢が立つとは、稚(いとけな)い姫は思ってもみなかったものでございましたから。 できることなれば、それが単なる噂話であればよいのに、と思いつめていらしったのでありますが。 帝のお言葉は、その幼い希望を静かに砕くものにて。 京の都から一歩も出たことのない、千の姫君にとって、・・・・・東の都はほんに遠うございます。 もののふの長、というだけでも何やら荒々しく恐ろしいものに聞こえます上に、 口さがない女房たちの噂によりますれば、夫(つま)となる御方は自分より十ほどもお年上で、そのお側には、すでに何人もの美しい側室方が寵を競い、着飾ってお仕えしておられるとか。 自分のような世間知らずの幼い娘が、そのような女性たちを取り仕切る正夫人としてやっていけるものやらと、ただただ心細く。 そして。 --------わたし。恋というものを、してみたかった。 心ばえのやさしい殿方とめぐりあって。 美しい花の枝などに結ばれたお文に、胸ときめかせたり。 雨上がりの風情のよい宵に、御簾越しに静かな物語りなどしたり。 月を眺めながら音曲のあそびに興じたり。 そのような、娘らしいささやかな憧れを捨てねばならないことに。 千の姫宮は、もういちど、ほろと涙をお流しになるのでありました。 「姫宮さま? いずこにおいでにございますか? 千の宮さま?」 母屋から、女房たちの呼ぶ声が。 「はい。いま、行きます」 姫があきらめて立ち上がろうとされましたとき。 「水が、要るの?」 聞き覚えのない・・・・でもしかし、とても懐かしげなお声に、千の姫宮が振り向きなさいますと。 そこに、童姿の美しい若君がひとり。 碧のかった、澄んだお目をされていまして。 身だしなみ、立ち居ふるまい好ましく。 青い下襲(したがさね)には、竜胆(りんどう)の花をかたちどった紋様が銀の糸で縫い取られ。 白い生絹(すずし)の童狩衣は、まるくからみ合う唐草模様の透かし織り。 その襟元に、藍がかった紫紺色の房飾りが揺れて。 この乾いた都の中。 少年の周りにだけ、森林を抜けたしめやかな風でも吹いているのでは、と錯覚させるような、涼を呼ぶ装いの。 気負わぬ程度に背筋すっきりと伸ばした立ち姿。 品のよい、まっすぐな視線。 年の頃は・・・・姫より1つ2つ上でありましょうか。 汗一つかく様子なく、さらさらと肩口で揺れる、細い髪。 形のよいくちびるがやわらかに動いて、もう一度、姫に問いかけを。 「水があれば、良いの?」 帝の姫ともあろうお方が、見知らぬ者に軽々しくお姿を見せてはなりませぬ、声をかけるなどもっての外にござります、と普段から口うるさく回りの女房たちに言われていることなどすっかり姫は忘れておしまいで。 「あなた、・・・誰?」 その問いには答えず、微笑む美童。 「あまり沢山は無理だけど・・・・水琴窟を鳴らすくらいなら、なんとかなるよ」 「え?」 「水の琴が歌ったら、泣くのを止めてくれる?」 言葉の意味がよくわからずに、小首をかしげる姫の前で。 その若君は、聞こえるか聞こえないかというごく小さな声で、祝詞(のりと)を唱えはじめたのでございます。 それは。 韻を踏んで、まるで歌のように耳に心地よく。 千の姫は、思わずうっとりと聞き惚れておいでになりました。 と。 ほとほとほとほとほと。。。。。。。。 しばらく聞くことのございませなんだ、涼やかな音が、竹で作られた掛井(かけい)を伝ってきたのでございます。 そして。 手水鉢に渡された竹筒から、光る水のしずくが、ぽつぽつとしたたりはじめまして。 「少しだけだよ。今、水はとても大切なんだ」 若君は、つぶらな目を驚きに見開く姫の手を引いて、水琴窟の傍らへ。 ちりちり、りるるる。 しゃん、つん、しゃりり。 「!!!」 地の底から奏でられる、水の楽。 聞きたかった、心慰められる歌声。 姫君は夢中になって。 その音の世界に。耳を澄ませ。 深く眼をとじて。心を澄ませ。 ふたりの子供は肩寄せ合って、しばし、水の奏でる楽に身を浸し。 さりりん。りりり。 かん。こん。とぉん。 ちるちるちるちる。しゃん。とん。しゃん。 りらりらりりん。つううん。・・・・・・・ぽつ・・・・っ。 「さ、今日はこれでお終い」 我に返って姫が目を開けますると。 ほんのすぐ近くに、美しい白面の若君の顔がありました。 「あなた・・・・水を出せるの?」 「呼べるだけだよ」 「すごい・・・。あの、、、もしかして、水の神様の子?」 真剣な眼差しで問う、姫宮に。 碧の瞳の若君は、ゆるやかな微笑みだけをお返しになり。 「千の宮さまーー? お庭にあらしゃいますかーー? 母君さまがお呼びです、姫さまー?」 「あ、はい! 今、戻ります」 女房の声にあわててお返事なさった姫が。 礼を言わねばと、もう一度若君の方に向き直りますと。 ・・・・・・・・・そこには、もう、誰もおりませなんだ・・・・・・。
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