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<<< 胡蝶 (21) >>> 

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「千尋も、・・・・今はあなたのこと、覚えていないのよね」

龍の少年の膝に頭を預け、くうくうと罪のない顔で熟睡している千尋を見やりながら、小袿姿の姫は口惜しげに、視線を落とす。




    ・・・・『あのとき』はまだ。ちゃんと覚えていたのに。








* * * * * * * * * *









『そなたを乗せて、空を飛んであげよう』

『うそついたら、ありせんぼんだよ!』








嘘やその場限りの言い繕いではなかった。

その約束を心待ちにしていたのは。
むしろ、龍神の子のほうだったかもしれない。



水の中、頭上の魚たちの姿を大喜びで眺めた娘の笑い声が耳にこだまする。

そうだ今度は、風と雲を切って飛んで、春の菜の花畑まで遠出しようか。
眼下に広がる一面の花畑に蝶が群れ飛んで、どこまでが黄色い花で、どこまでが金色の胡蝶かわからない世界を、高く低く飛んでやったら、さぞや喜ぼう。

いやそれとも、月が美しい夏の夜の淵へ連れて行ってやろうか。
流れ星を追いかけて夜空を飛ぶのも楽しかろう、などと、心ひそかに考えたりすると、楽しかった。




また小さな目をまんまるにして大はしゃぎするだろうか。

そうそう、なにか、美味しいものでも食べさせてやりたい。
花の蜜を集めて、水飴でも作っておいてやろうか。




よい考えが思い浮かぶと、無意識にふっと頬が緩んだりしていて。

・・・普段から生真面目でけっして愛想のよいほうではない彼の、そんな様子は、仲間からは相当不自然に見えたらしく。




    「・・・最近の琥珀主は、少々『おかしい』」




ひそひそと囁かれたりからかわれたりもしたが、彼は気にしなかった。


さすがに、年かさの龍に、
「なあに。遅ればせながらあいつも色づいたのよ」

などと、目で含み笑いをされたときには、うまくかわせずに焦りもしたが。





それでも白龍は、あの娘にまた会える日を首を長くして待っていた。





けれども。

それ以来、娘は一度も川にやって来なかった。
親が絶対に行かせなかった、というのが正確なところなのだが。
可愛い盛りのいたいけな娘が突然消えた川。しかも、原因はようとして知れず。
そのような場所に幼い娘を近づけさせまいとするのは、親としては当然であろう。



が、龍の子はまだ、人の心というものをそこまでおもんばかれるほどに大人ではなかった。


あの可愛い娘が、はやく来ないものかな、今度はもっと遊んであげるのに、と。
そのくらいの認識しかなく。



待ちつづける間に、いくつも季節はかわって。



しびれを切らした龍神の子は、普段はめったに足を向けようとしない、人間達の世界へ自分から出かけて行った。





月の明るい春の夜半。
咲きむせぶ夜桜の香に誘われる白い胡蝶のように。

琥珀主は、川をこっそり留守にして娘のもとへ忍んで行った。


年上の龍たちがこともなげに、「そんなに欲しいなら待ってばかりでないて、攫ってくればいいじゃないか」などと言うのに気持ちざわめいたとか。
人間の娘と居を構えている仲間を見て羨ましいと思ったとか。
そういうのでは、ないけれど。


あの無垢な魂にふれていた心安らぐひとときが忘れられず。



    ・・・約束を果たすだけだから。



    連れ去ろうとか、そういうのではなくて。
    ちょっとだけ連れ出して空を飛んでやるだけ。


  
    だって、『約束』なのだから。





自分にそう、言い訳をして。
龍は、人間たちが多く住まう、なんとなく空気のぱさぱさしたところへと飛んで行った。

娘の甘い懐かしい香りをたよりに、その住まいをおとなうことは、龍神にとって、さほど難しいことではなかったが。



こういう場所は、得意ではない。

夜だというのに、夜らしい、しんとした静けさがなくて。

闇は、一日の汚れを清めてくれるはずのものなのに。
なぜに、煌々と、目障りな灯かりをそこここに灯したがるのだろう、人間というものは。

ふけゆく静寂に身をひたしているのは、ここちよく疲れいやされるものなのに。
なぜに、騒々しい雑音をよっぴてばら撒かずにはいられないのだろう、人間というものは。

あのような生活をするから、人間は早く年老い、早く命尽きるのではないだろうか。




そういえば、少し前から、自分の川のすぐ近くにまで大きな道路が伸びてきて、人間の出入りがやけに多くなってきた。

車が昼も夜も騒々しい。
ほこりくさい、人間たち独特の臭いが撒き散らされるものだから、魚も蝶も怯えているし。

いつだったか、数人の人間たちが川原近くまでものものしい車で乗り付けてきて、土足で我が川を踏み荒らしたかと思うと、川幅を図ったり水の深さを調べたり、あまりに図々しい行いをするものだから、鉄砲水で脅かして追い払ったことがあった。





やはり、基本的に人間というものは理解できない。
ただ・・・あの千尋という娘を除いて。










そこまでつらつらと考えて・・・・ふと、龍は思った。










あの娘には、人間の世界は似つかわしくないのではないか。
あの清らかな魂が、埃垢にまみれていくのは、考えて見ればなんとせんないこと。

がさがさと薄汚れた人間社会の中で生きるよりも、自分たちの住まう清浄で穏やかな場所のほうが、きっと、幸せに暮らせるに違いない。



あの娘が自分の背に跨ったなら・・・うん、やっぱり話してみよう。







・・・・・私のところへ来る気はないかと。











ひとり、とりとめもなく・・・でも、なんとなく幸せな想像に思いをめぐらせながら、やがて求める少女の住むところへとたどり着き。

窓辺からそっと中をうかがうと。






若草色と白のギンガムチェックのカーテンの向こう。
子供向けの可愛らしい柄の壁紙を綺麗に張りわたしてある部屋。

壁のフックには、真新しい赤いランドセルと通学帽。
きちんとアイロンをかけて畳まれた白いブラウスとグレンチェックのジャンバースカート、よそいきのソックスや髪飾り、万一肌寒かったときのための、薄手のカーディガンなどがきちんと揃えられてあって。

新品の学習机の上には、母親の手作りなのであろう、ウサギのアップリケが縫い付けられた上靴袋。
アップリケの下には『おぎの ちひろ』と平仮名で、丁寧に刺繍糸で縫い取りがされてあった。


ひとり娘のための心遣いが、そこここからにじみ出ていて。



琥珀主は何故か、ちくり、と、胸に釘を刺されるような思いがした。



学習机の横に、小ぶりなジュニアベッドが据えられてあって。
その枕元に、母親が心配そうに付き添っていた。



「熱が下がらないわね・・・」



母親は、ちら、と壁にかけてある時計に目をやる。
時計の短針は11に近かった。



「明日の入学式は、無理かしら・・・」



医者は、緊張からくるストレスと風邪だろうと言っていた。

熱さましのための頓服を服用させて、安静にしているのだけれど。
どうも、いつもの風邪とは様子が違うような。



娘の額に張ってある熱さまし用のシートを取り替えようと、母親は階下へ降りて行った。



入れ違いに琥珀主は部屋の中にすうっと入って行って。
熱にうなされる、少女の額に手をあてた。





    ・・・・大きくなった。





水神の少年は、てのひらから少女の熱を少しずつ吸い取ってやりながら、人間の世界の時間というものは、本当にあっという間に過ぎるものなのだな、とあらためて思った。


額にひんやりと添えられたものが心地よかったのか。
少女は一瞬、うつろにまぶたを開けたものの。

すぐにまた、その目を閉じて荒い呼吸を繰り返した。

くちびるが熱で水分を失って、かさかさになっている。




    可哀想に。喉が渇いているのだろう。




水神の少年はその指先で、そっと娘のくちびるを撫でて。
そのかたちのよい爪の先から、冷たい清水をほとほとと滴らせてやった。

喉をうるおされて、少し呼吸が楽になったのか、娘の吐息はこころもち穏やかになり。
やがてそれは、安らかな寝息となった。




ぱたん。

ドアが開いて、体温計と新しい熱さまし用シートや氷枕を持った母親が再び部屋に入って来た。
帰宅したばかりらしい父親も一緒だ。
スーツにビジネスバッグを抱えたままの姿で愛娘の顔を覗き込む。

彼らには、龍の少年の姿は見えてはいない。



「どうなんだ?千尋の様子は」

「頓服が効いてきたのかしら。ちょっと楽になったみたいね。」

「明日は駄目だろうな」

「そうね。無理させられないし・・・・。あなた、有給とってくれてたのよね」

「まあ、仕方がないさ」



階下のリビングルームにはこの日のために新調されたデジタルビデオがしっかりと充電されていたが。
おそらくその出番は、延期ということになるだろう。





大事なひとり娘を囲む夫婦の様子を。
龍の少年は、部屋の隅でじっと見つめていた。




* * *



翌日、千尋は入院した。
肺炎を起こしていたのだ。



空っぽにしてきた川のことが気になりつつも、龍神は少女の側を離れることができず。
人間達に気付かれないよう気をつけながら、白い大きな薬臭い建物の中の一室に、一緒に付いて行った。


何日も高熱にうなされる娘の姿は。
見ていて辛く。





    こんな不浄な場所にいるから、病気になどなるのだ。






清潔な空気と水のある場所へ連れてゆけば、すぐにでもよくなるに違いないのに、と歯がみする思いでいながらも。



交代で病室に詰めて献身的に看病につとめる父親母親の姿を見ていると。
ひょいと連れ帰ってしまうこともできずに。



一進一退を繰り返す千尋の側に、そっとついていてやりながら。
体がほてれば冷ましてやり。吐息が乾けば潤してやり。

隙あらば娘に取り憑かんと舌なめずりする死神たちを、力づくで追い払い。




やっと、その容態が峠を越した時。
もう、かれこれ一週間が過ぎていて。

その間、何度か龍神は頭痛や関節の痛みなどに襲われた。
現に今も、頭の芯がずきずきと痛む。
体に合わない世界に長くいすぎたためだろう、そろそろ帰らなければ、と思った。




    第一、いくらなんでも、長く川を留守にしすぎてしまった。
    何事も起こっていなければよいが。





やっと固形食を食べられるようになった少女は、今日は気分がよいらしく、病室の陽だまりの中で、一人なにやらお絵かきをしていた。


何気なくその絵をのぞきこんで・・・・琥珀主は、はっとした。




青いクレヨンで塗りつぶされた画用紙。
その画用紙の上半分いっぱいに、鮮やかな黄色や朱色の魚の群れが遊び。

下半分には、それを見ている二人の子供が描かれていた。



思わず、姿を現して声を掛けようかと思ったとき。





「千尋。明日退院できるって。よかったわね」

母親が、病室に入って来たので、琥珀主はあわてて姿を隠した。


「じゃあ、あしたはがっこういける?」

「うーん。2、3日はおうちにいないといけないけど」

「なぁんだ・・・」

「もうちょっとの我慢だからね? ああ、千尋は1組だって。綺麗な女の先生が担任してくださるわよ」


話しながら母親は娘の描いていたものに気がついて。



「あら。きれいな蝶々。上手に描けたわね」






   蝶ではない。魚だ。





龍神の子は、心の中で小さくつぶやいたが。
確かに、そう言われて見れば、魚というよりは・・・それらのかたちは蝶に近いかもしれない。
水辺に舞い踊る無数の金色の蝶の群れにも、見ようによっては見える。




娘は、母親の言葉を肯定も否定もせずにこにことしている。


「こっちは千尋ね? この男の子は誰? 幼稚園で仲のよかったけんちゃん?」

「ううんー。ちがうの」

「何て子?」

「えーとねぇ。とりさんみたいなおなまえだったかなぁ」

「鳥さん? おもしろいわねぇ。あひるくんかな、かもくんかな。」


たわいない、親子の会話。






    鳥?
    私の体が白かったから、鶴や鷺(さぎ)の姿と誤って刷り込まれたのだろうか。





名乗った覚えもないし、なぜ、鳥なのだろうと、琥珀主は少し首を傾げたが。
少女の次の言葉で、彼はなんとなく納得した。


「あのねぇ、ちーちゃんねぇ、この子のせなかにのせてもらって、おそらをとぶやくそくしたんだよ」

「ふうん、そうなの。楽しみね」




    ああそうか。空を飛ぶといったから。そんなふうに記憶されたのだろう。






単純に、そう、思った。





・・・・・人間の子供の記憶というものは、時折、思いもかけない繋がり方をする。
が、むろん、この時の龍神にそのようなことがわかるはずもなく。



ただ、小さな人間の娘が自分との約束を大事に覚えていてくれたことだけで満足して。






    もう、体は心配なさそうだし。今回は、これで帰ろう。






空を飛ぶのも。それから、、、『あの話』を切り出してみるのも。
また今度でよい、と、龍神は頑固な頭痛をこらえつつ、人間の街をあとにした。




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♪この壁紙は薫風館さまよりいただきました。♪



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