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<<< 胡蝶 (22) >>> 

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     -------・・・・っ!?






少女の病室をあとにしたとたん。




全身を切り裂くような激痛が、龍神を襲った。

心の臓を引き毟られるような。
荒縄で首を締め上げられるような。




苦痛のあまり遠のきそうになる意識を必死で奮い起こし、琥珀主は家路を急ぐ。







          何か起こった! 私の、川に!!







龍神は自分の愚かしさを呪った。

こちらにいた時、何度か体や頭に痛みを覚えたのは。
川の悲鳴だったのだ。

何故、気付かなかったのか!






激痛をこらえ、ありったけの力で我が川に急ぎ帰りついた時。







琥珀川は、すっかり変わり果てていた。







ゆったりと川面に枝陰を投げかけていた潅木は根こそぎ切り払われて更地となり。
とうとうと流れていた水は堰き止められて、水底はただの薄汚いぬかるみとなり。
あおあおと水にたなびいていた水草は変色して、すえた臭いを放っていた。

水にはぐくまれていたものたちは・・・もうすでに、そのほとんどが命絶え。




なすすべもなかった。









    私の・・せいだ・・・・!!





守るべき川を留守にして。
本来のつとめを怠って。


浮かれていた、自分の落ち度だ。





がっくりと膝を折る龍神の目の前で。




もとは川であったはずのところに。

乾いた砂がざあざあと容赦なく投げ入れられて。




見る見るうちに薄茶けた地面にならされていく。




埋め立て工事に従事する人間達は、大声を掛け合いながら巨大な化け物のような機械をあやつり、着々と仕事を進めていた。



その男たちの喉もとに食らいついて命奪い、それらを止めるくらいの力は、むろん龍には残されていたが。


今さら彼らに危害を与えてもしかたがないことは、わかりきっていた。
また代わりに別の人間がやってきて、作業を続けるだけだ。


目の前で繰り広げられる悪夢のような光景を呆然と眺めながら。



龍神は、声を殺して。  哭(な)いた。












あれは誰だったか。

龍というのは皆優しいが。
・・・・愚かだと言ったのは。










* * * * *






「おかあさんー。どうしても、行っちゃだめ?」

夏のはじめの昼下がり。
母親のエプロンの裾を引っ張って駄々をこねる、ポニーテールの少女。

「せっかく、理砂ちゃんが誘ってくれたのにー」




「・・・・・あのあたりには、行ってはいけませんって、ずっと言ってるでしょう?」

洗濯物を取り込みながら、母親の返事はつれない。



「どうしてだめなの?」

「・・・・・・・・」






同じクラスの理砂が、誘ってくれた。
近所でお祭りがあるから、今晩一緒に行かない?と。


「理砂ちゃんのおかあさんが、お祭り連れてってくれるって言ってるのに」



理砂は小さいのにしっかりしていて礼儀正しい子だし、その親も好感の持てる人物だ。
こういう誘いは、本来なら喜ばしいのだが。

その、『祭り』が開かれる場所というのが、悠子には引っかかるのだった。
あまり、荻野夫妻にとっては思い出したくない場所であるというか。




「おかあさぁん。。。お願い。。。」



病気のために入学が遅れた千尋。
スタートがずれたぶん、仲のよい友人ができるのにもずいぶん時間がかかった。
1学期も終わり近くなって、ようやく最近、「お友達」として名前を口にするようになったのが、理砂。

せっかくできた友達からの誘いをむげに断らせるのも不憫に思えてきて。

懇願する娘に、とうとう母親は折れた。



「・・・・・ちゃんとおばさんの言うこと聞いて、お行儀よくするのよ?」

「うん!! ねえ、ちょうちょのゆかた、着ていって、いい?」

「いいわよ・・・遅くならないうちに帰ってきなさいね」

「はーい!」





女の子らしい、赤や黄色の蝶々を染めたお気に入りの浴衣。
背に、やわらかな絞りの帯を金魚の尾のようにふんわりと結ぶ。
からころと下駄を鳴らしながら歩くと、その金魚のしっぽとポニーテールが同時にぽよんぽよんと揺れて、後姿がとても愛らしい。


きゃしゃな千尋は、ゴージャスなフリルいっぱいのワンピースなどよりも、こういう装いが似合う子供だった。





* * * * *




夏の陽が、地に長い影を斜めに落としはじめるころ。


ようやっと、一日の建設工事の喧騒がやむ。


地上のものものがひとしく茜色に染まり、それがいつしか藍に包まれてゆく中で。


もとは川であった場所も。
ひとときの静寂を取り戻す。







    --------人間のなすことというのは、なぜこんなにも性急なのか。





長い長い年月をかけてあの姿となっていた豊かな川は。
あれからものの三月とたたぬ間に、あとかたもなく消えてしまった。



あたりはすっかり平坦にならされて。
四角い、人間達が押し合って住むのであろう建物がみるみるうちにいくつもできあがってゆく。
半ば完成しかけているそれには「分譲予約好評受付中!」などと書かれた垂れ幕が下がっていた。

川の主がかつて気に入っていた水の深みのあったあたりは、小さな児童公園に変わりつつあり。
設営されかけのジャングルジムやブランコが、その日最後の細い影を夏の地面に投げていた。




その児童公園からつづきに、ちょっとした広場がある。
・・・もとは、白砂の美しい川原であったところなのだが。


そこには、普段は材木だの築材だのが雑多に積み上げられているのであるが、今日はそれらが隅に一応片付けられ、中央にまるく確保された空間に、人間達が何やらわやわやと集まっていた。


紅白の布で飾られた角材で祭櫓(やぐら)をしつらえる者。
そこから放射状にロープを張り巡らせて、とりどりの提灯をぶら下げてゆく者。
可愛らしい色紙細工や短冊でいろどられた笹飾りを運びこんでくる者。

にわかづくりの屋台なども順々と出揃って、今にも祭歌の音頭でも聞こえてきそうな、なんともにぎにぎしやかな風情が漂い出す。










そのはなやいだ広場の片隅に目をうつすと。
ほこりにまみれたささやかなお堂のようなものが。


それは、その昔・・・・・そう、琥珀川が生まれたばかりのころ、漁師が川から引き上げた琥珀の琵琶の撥を祀った、あの祠であった。

さすがに取り壊されてはいないものの、その周りには材木だの砂利だのが無造作に積み上げられていて。
すっかり薄汚れた小さな祠は、打ち捨てられた子供の玩具のようだった。




祠のかたわらに、背筋のばして正座したまま、微動だにしない龍の少年がひとり。


死んでしまった川の傍らで土ぼこりにうずもれて。
つややかだった白い肌も朽ち葉色にくすみ、痩せ衰えた姿で。

瞳を閉じて、静かに、座っていた。







    --------弔わねば。わたしの、最後の仕事だ。







少年は、このまま自分の体と命が消えてしまうまで、ここで川に寄り添い、哀悼の祈りを奉げるつもりでいた。



・・・もうどれくらいの間、こうしているのだろう。


龍神の体は流す涙の一滴も残っていないほどに、乾ききっていて。
体が枯れてゆくにともなって、感情も感覚もどんどん風化していくように感じられ。

喜びも悲しみも、快楽も苦痛も、時間も季節も、自分とは関係のないもののように思えてきて。
そして、自分が今生きているのかいないのかすら、次第にわからなくなってくる。




森の倒木が次第に土に帰ってゆくように。
よりしろを失った自分の命も、このままかさかさと尽きてゆくのだろうと、少しずつ巡りの悪くなってくる意識の底で、彼は思った。






もしも今、誰かが彼の肩にでも触れたなら。
少年の骨ばった体は、そこからざらざらと砂が崩れるように朽ち落ちて、端から風に散ってしまうのではないかと思えるほどに。

その肉体からも精神からも、生気が失われていた。


生きる意欲を失った龍神の。その後ろ影はとても薄かった。








日が西の山の端(は)に傾いて。
入り日の色を残した光がしだいに淡くなる中で。

提灯に灯が入り、祭音頭があたりに響き始める。
わいわいがやがやと人が集う声々も満ちてきて。





そのころになって、やっと、あたりの様子に気付く龍神の少年。
細く瞼を開けてまわりを一瞥し、また、静かに目を閉じる。






    ------ああ。今年もするのか。







この場所では、毎年7月7日に地元の七夕祭りが行われていた。

川原に仕立てられた祭櫓(やぐら)の周りで人々が歌い踊ったり、婦人会主催のささやかな模擬店などが出たりして、規模は小さいながらそれなりに賑やかな雰囲気になるのだ。

そして、祭の最後には、子供たちが作った笹飾りを琥珀川に流して。

普段、自分の川に余計なものを投げ捨てられたりするのは嫌いな琥珀主も、毎年これだけは目を細めて眺めていたものだった。



川が埋め立てられてしまったし、今年はしないのだろうと思っていたが、そうでもないらしい。



賑わいだ気配を感じながら、衰弱しきった少年神は小さく息を吐く。






    -------わたしが消えたあとも。こうして祭は続けられるのだろうか。






そうすれば、少なくともここに川があった、という記憶だけは人間達に受け継がれていくのだろうか。






    --------忘れ去られてゆくよりは・・・・いいかもしれない。






こうして目を閉じて賑やかな祭り歌に包まれていると。
ありし日の川のせせらぎの音も聞こえてくるような錯覚を覚える。

こうしてこのまま、最期を迎えるのも悪くないかと思えたとき。




「ちひろちゃん、こっちこっち! 金魚すくいしよう!」


無邪気な人間の子供の声が聞こえた。



「うーん。わたし、金魚すくい、あまり好きじゃないの・・・・なんだかお魚いじめてるみたいで・・・」






思わず目を開けた少年の眼前に。




暮れなずむ夏の夕に溶け込むような。
紅、黄、橙の胡蝶が飛び込んできた。




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♪この壁紙は薫風館さまよりいただきました。♪



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