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思わず見開いた龍神の目に。 飛び込んできた、色とりどりの胡蝶。 それは、人間の少女の浴衣に染め抜かれたものだった。 浴衣の地染めは、赤みの強くかかった明るい紫。 古い言葉では蘇芳(すおう)と呼ばれる、露をふくんで満開にしだれる萩の花の色。 その襟元に袖口に裾まわりに。 くっきりとした白い輪郭線をひかれた胡蝶たちが浮かび上がり、あざやかに舞い遊ぶ。 黄色。薄紅。山吹。橙(だいだい)。 羽をかさねるその可憐な色あいが、少女のばら色の頬に映えて。 龍神には眩しかった。 胡蝶を身にまとった人の子は。 祠の前にしゃがみこんで、ふしぎそうにそれを覗き込む。 「千尋ちゃん。そっちは材木とかたくさん積んであって危ないわよ」 引率者とおぼしき大人が声をかける。 「おばさん。これ、なあに?」 「ああ・・・・川の神様の祠よ」 「川?」 「ここは、もともと川だったのよ。つい最近埋め立てられてね」 「うめられて・・・それじゃあ、そのかみさまはもうどっかいっちゃったのかな」 「さあねぇ。意外とまだこの近くにいらっしゃるのかもね」 人間達の会話に複雑な思いで耳を傾ける、龍の少年。 ・・・・は、次の瞬間、真っ赤になった。 「ち、千尋ちゃんっっ! 何やってるのー!!!!」 「え? だって、かみさまのおうちなのに、ほこりだらけだから・・・・」 千尋は、浴衣の胸元に挟んであったハンカチを取り出して。 あきれかえる連れたちの前で、小さな祠の汚れをていねいにぬぐってやっていた。 そのしぐさは、病の子供の体を清拭してやる母親にも似て。 それは、龍神にとって・・・まるで、埃垢にまみれた自分の体を清められているかのような錯覚を誘い。 たもとを片手で軽く押さえ、龍神の目の前へのばされる細い腕の白さは。 蘇芳の浴衣の染めに映え、咲き初(そ)めた野の花のようにみずみずしく清潔で。 無垢な乙女に汚れを払ってもらうというのは、どんな神にとっても、たいそう心地よいもの。 でも。 その甘い感触は、少年神を切なく酔わせると同時に。 今まで気にとめることすら忘れていた、自分の薄汚れたなりを思い知らされるようで。 若いこの神は・・・・ぐっと恥じ入った。 汚れほうけていた神のやしろ。 少女の小ぶりなハンカチはすぐに真っ黒になり、役に立たなくなってしまう。 すると、千尋は。 「きゃあーーっ!! 千尋ちゃんっ、駄目よっ! そんなことまでしなくっていいのっっ!!」 「え・・?」 ごく自然な仕草で、自分の浴衣の袖をハンカチのかわりに使った千尋。 何の迷いもないその行動に。 龍の少年は、身の置き所のなさを感じて、さらに困惑してしまう。 「せっかくお母さまが着せてくださった綺麗な浴衣が、、ああ、ああ、こんなに汚れて、、、、、」 おろおろとたしなめる大人の言葉を気にするふうもなく、少女は祠の埃払いを終えると、今度は、手に下げていた巾着袋から何やら取り出す。 「あれ、ちひろちゃん、それさっき婦人会のおばちゃんたちがくれたおにぎりだよね?」 一緒にいた、千尋と同年輩の少女が尋ねる。 「うん。このかみさま、だれにもおまいりしてもらってないみたいだし・・・おそなえものも、ないから」 ポリエチレンラップに包まれた小ぶりな握り飯は、会場の入り口で子供たちに配られていたものだった。 千尋はラップを剥がすと、白い握り飯を両手の中に奉げ持つようにして、差し出す。 -------え・・・? 「ちひろちゃん・・・・なにしてんの。」 「ん?」 「そっちじゃないでしょ」 「・・・あ。やだ、ほんと」 千尋は・・・・祠に握り飯を供えるのではなく、・・・・その傍らに座っていた龍神の痩せそげた顔の前に、まっすぐそれを差し出していたのだった。 --------見えているのか?! 握り飯を前に、一瞬、龍神はかなり動揺した。 この、みすぼらしい姿が少女に見られているのかと。 だが、それは彼の思い過ごしだったらしく。 少女はおかしいなぁ、などと照れ笑いまじりにつぶやきながら。 ひょいと向きを変え、握り飯を祠に供えて、手を合わせた。 少なからずほっとする、少年。 昔は・・・・大抵の人間の子供は、難なく自分の姿を見ることができたものだった。 中には大人になっても見える者も、割に数多くいた。 だが、そういう人間は年々少なくなっていき。 千尋にしても。 初めて出会った、ごく幼いころはともかく。 風邪をこじらせていたあのとき、ずっと自分は傍についていたが、気付いている様子はなかった。 最近では、龍神みずから姿を相手に見せようと強く念じない限り、人間に姿を見られることは、まずないはず。 今の自分に、そのような力が残っているとは思えない。 さきほどの千尋の行動は・・・・自分の思慕に、人間の子が無意識に引き寄せられてのこと、と考えるのが、妥当であろう。 夕闇は。 いったん色濃くなりはじめると、一気に加速して紫紺の夜へと向かう。 祭りやぐらにわたされた提灯の灯は、ぬばたまのとばりの中ではなやぎを増し。 祭り太鼓の撥音と、音頭取りの張りのある歌声が、人々をそぞろ呼ぶ。 「ちひろちゃん。おどりにいこうか?!」 「うん!」 理砂に手を取られ、くるりと背を向けて駆け出す千尋。 馬のしっぽのようなかたちのまとめ髪と。 赤い絞りの帯をゆわゆわと揺らして。 胡蝶を連れた少女が踊りの輪に吸い込まれてゆく。 その後姿を眺めながら。 龍神は、握り飯をひとくち口にした。 簡単に塩だけで握った、それの。 ほどよいしょっぱさが、目にしみた。 きゃらきゃらと笑いながら、友人と一緒に踊りに興じる千尋。 踊りの振りはよく知らないらしいが、みようみまねで小さな手足をひらひらと動かすそのさまは、とても愛らしい。 少女がひとさし舞うたびに、浴衣の胡蝶もふわふわと音頭に乗る。 握り飯を噛みしめると。 白い飯から沁みだすじわじわとした甘味が体を包んだ。 久々に思い出す、ものを食すという感覚。 ・・・・自分が飢えていたことすら、忘れていた。 音頭に合わせて、踊りの輪が揃って前に進み。 今度は、さきほどまで自分に背を向けていた少女の、横顔が見えた。 ひらひら舞う胡蝶をともなって。 紙提灯からこぼれる淡い光の中で笑う少女は、宵の水辺にひらく白い花のようだった。 ぽとり。
もう体には一滴の水分も残っていないと思われていた龍神の碧の瞳から。 ひとすじ・・ふたすじ。みすじ。 握り飯をかみしめるほどに、熱いものが、したたり落ちた。 祭りの音頭がひとふし巡る。 それにともなって、踊りの輪がまたぐるりと廻って。 少女と胡蝶は櫓(やぐら)のむこうへまわる。 死角に入って見えなくなったその姿を追うように。 龍神は、立ち上がった。 ゆっくりと、踊りの輪に近寄って。 きゃっきゃとはしゃぐ少女の、となりに並んだ。 少女が一歩前に出れば。 一緒に歩みを進め。 半歩下がって袖を振れば。 立ち止まってその可憐な指先に見惚れ。 どぉん、と威勢よく太鼓が鳴って。 少年の顔先で、少女はくるりと回り、手を打ち鳴らす。 自分のすぐ間近から注がれる視線に、かけらほども気づくことなく。 自分のまとめ髪のすそが、ふわりと弧を描いて。 龍神の頬をかすめたことなど、知りもせず。 鈴なりに釣られた提灯の明るみの中で笑う。 その後ろ影をたどりつつ。 琥珀主は、ただ、黙って。 踊り疲れた千尋が輪を離れるまで、祭り歌の後を追っていた。 * * * * *
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