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ちんとん。しゃりりん。 さりりり。とぉん。 秋の荒れ野の館には。 あいかわらず、水琴窟の歌が響いていた。 萩襲ねの姫は。 目の前の龍の少年の白くととのった顔を見やりながら。考えた。 今、この少年は。 どこまで、覚えているのだろうかと。 なぜ、湯屋の魔女の元へ身を寄せることになったのか。 どんな思いで、血を吐くような辛い仕事をこなしてきたのか。 わかっているのだろうかと。 「話は、終わったのだろう。私たちを、帰らせて欲しい」 もの言う少年の膝に頭を預けて。 千尋は、すやすやと眠っている。 この少女とふたたび逢い見るためだけに。 和速水琥珀主は生きる力を奮い起こしたのに。 その思いは、少し違ったかたちで現実になってしまったようだ。 川を取り戻して、少女のもとに帰るべく働いていたはずの少年の。 その思いが強すぎたのか。 『呼び寄せ』て、しまった・・・ 彼女を、自分が生き長らえている、不思議の世界に。 どうやら、この龍神自身にその自覚はないようだけれども。 まあ、それだけならまだ良かったのかも知れないが。 彼女の両親が、巻き添えを食って豚になってしまった。 両親を人間にもどしたい。 娘がそう思うのは、当然のこと。 見も知らぬ世界は怖い。もとの生活に戻りたい。 人間の子がそう思うのは、当然のこと。 ・・・・この龍神の子は、少女のそんな気持ちをかなえてやろうと奔走するのだろう。 姫と、その隣に寄り添う若公達は顔を見合わせた。 せっかく再会できたのに。
たぶん。なんとしてでも帰すつもりなのだ。 「・・・・あなたと同じで。やさしいのよね」 姫は、隣の若者にためいきまじりに、こぼす。 「わたしと同じで。愚かなのだよ」 龍の少年とよく似た面差しの若者は、瞳に涼しげな笑みを浮かべながら、続ける。 「大丈夫だよ。きっと、また会える」 そして、目の前の龍のの少年に向かって、爽やかに言い放った。 「約束は、必ず果たせるよ」 「・・・・?」 相手が何を言いたいのかよくわからなくて、ハクは少し首を傾げたが。 話がこれ以上長引くのも困るので、黙っていた。 狩衣姿の若者は、そんな龍神を目を細めて眺める。 大丈夫。きっとかなう。 一緒に大空を飛ぶという約束も。 そして。 生まれる前に交わした約束も。
つうん。つうううん。 ちりんちりんちりんちりん。ちりりりん。 しゃらしゃらしゃらしゃらしゃりりりりり。 かんかん。とんかんとんかんとおおん。とん。 水の琴の音色が変わった。 「さあ。戻るといい」 白い狩衣の若者がそう言ったかと思うと。 水琴窟の歌声はひときわ高く鳴り響き。 「・・・あっ?!」 その澄んだ音色の高まりの中でどこからともなく、無数の金色の胡蝶が現れて、茶室の中を舞い踊り始めた。 その数、幾千とも。幾万とも。 上へ。下へ。手前に。奥に。 向かい合う4人を取り巻いて、数え切れぬほどの胡蝶の群舞が嵐のようにきらきらと対流する。 むせ返るような、光る蝶の乱舞。 ふり散らされる、まばゆい燐粉。 雅びな装いの男女は、その胡蝶の群れに包まれて。 ゆったりとした微笑を残し、静かに姿を消した。 自分たちが招かれていた茶室も・・・・掻き消すように虚空に溶け。 そして。 取り残されたふたりを包んでいるのは。 薄曇った朧月夜。 野菊、藤袴、あざみ、げんのしょうこ、八重葎(やえむぐら)・・・・秋の野草にいろどられた青い夜。 --------帰り道は・・・・・? 眠ったままの千尋を背負って、ハクは露を含む秋野を歩き始める。 足下の草むぐらの中から、ゆく秋を惜しむ虫の声が、るりりりり、と呼び合うのが聞こえてくる。 ほどよく冷たい、すず風がかすかに頬を撫でるのも心地よく。 --------よい月夜だ。 ハクはふんわり綿衣をまとったような、おぼろな月を見上げる。 煌々と照らす満月の明るさとはまた違った、はかなげな光が地上をやわらかく満たす中、秋草を踏みしめながら静かに歩んでいると。 日常の雑事にささくれていたり、煩悩に悩まされて重くよどんでいたりする胸の中が、しっとりと青められていくような心持ちになる。 最初にここへ足を踏み入れたときには、なんと薄気味の悪い場所かと思ったが。 こうしていると、人少なに枯れた風情も悪くない。 --------いつか、千尋とともに暮らせる日が来たならば。 こういうところが良いかもしれない。 ふっと光を感じて目線を上げると。 その視線の先に、水音も清げな小さなせせらぎが、月の光と戯れてさらさらときらめいているのだった。 --------あのような流れを、庭に引いて。池など作ると良いだろう。 池のほとりには、春の花かぐわしい木々を植えて。 夏の夕べは、水音に耳を澄ませながらの夕涼み。 水面に影を映す秋の月を愛でながら、寄り添って物語などし。 冬は、薄氷に弾かれて雪見窓越しに白く差し込む朝日にふたりで目覚め。 いっそこのまま、ここに留まってしまえば・・・・・・などという考えが、ちらと彼のまなかいを掠め、あわててそれを打ち消そうとしたとき。 背中の少女の重みが、ふわりと軽くなった。 * * * * *
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