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<<< 胡蝶 (26) >>> 

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背に負っていた重みがふわりと軽くなったのに驚いて、ハクが肩越しに振り返ると、そこには。



「・・・えっ・・・」


ハクはその目を見開く。






光る胡蝶の群れがほんわりと人間の少女を取り囲み。
彼女を重力のしがらみから解き放って宙に浮かべていた。




   ・・・・・・・幻か? あやかしか?!




蝶たちは、おのおのの身体からしゅるしゅると白銀色の絹糸のようなものを無数に吐き出して。
そのまま蚕の繭のように千尋を包み込む。

半透明の月の光を吸って、それは一瞬ぽぅっと光ったあと、霧のように空中に離散して。
再度、千尋の肩あたりに集結すると、ひとつのかたちになった。


・・・蒼い薄闇に透けるうすものの絹のような・・・胡蝶の羽。
濡れて小さく折り畳まれていたそれは、次第にのびやかな曲線を描きながら広がって。

固いさなぎから羽化したばかりの若蝶のような初々しい薄羽根が、優美な虹色の光の粒を放ちながらゆったりと膨らんで、いまだ瞼を閉じたままの少女をうすべに色に包み込む。


そして、驚きに声も出せずにいる龍の少年にむかって、少女のすんなりとした腕が差し伸べられた。





    天女だ。・・・・羽衣をまとった、天女のようだ・・・・。





その様子は、いまだ固かったつぼみが露を含んで初めて花開かんとする様子にも似て。


そのばら色の頬が。
うっすらと笑みを含むつややかなくちびるが。

とても、美しくて。


誘い寄せられるように、すい、とハクも中空に浮かぶ。



龍の少年は、目の前でやわらかに髪をたなびかせている少女の姿に心奪われるままに・・・ごく自然な仕草でそのしなやかな身体を抱きとめて目を閉じる。



つうん。つうううん。
しゃらしゃらしゃらしゃらしゃりりりりり。
ちん。とん。しゃあん。
ちん。とん。しゃあん。




あふれる金の蝶の群れと、いつしか高まる水琴窟の音の渦に身を任せ。
いとしい娘を腕の中に抱いたまま空気の中に漂っていると。


優しい水たちの歌声に包まれて、清浄な川の流れの中に浮かんだまま、ふたりっきりでいだき合っているかのような・・・・
自分が一番そうありたいと願っている、幸せな幻に包まれているような感覚に全身がじわじわと浸されてきて。



願わくば、この人の娘も、同じような思いを持っていてくれればよいものを・・・と思いながら、夢ともうつつともつかない、甘美な感覚の中に身も心もとろけるように満たされていた龍神が。


ふと、水琴窟の音が聞こえなくなったことに気がついて。

静かに瞼を開けると、・・・・・そこは、夜更けの湯屋の自室だった。




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「・・・・んーーー・・・・」




   まぶしいよう。
   朝日って、こんなにこんなに金色だったっけ。


   もうちょっと寝ていたいなぁ。。。。






瞼がとろとろとひっついたまま軽い伸びをして、その勢いでころん、と寝返りを打とうとすると。


   こつん。



何か少し固いものに当たった。




   壁・・・かな。わたしゆうべ一番隅っこで寝たんだっけ・・?



寝返り半回転状態のまま、よく動かない頭でなんとなく考えていると。
その『壁』がもそりと動いた。



   ああ、いけない。壁じゃなくて、隣に寝てるリンさんにぶつかっちゃったかな。



まだ起床時刻ではないようだし、起こさないよう気をつけて身体を離さないと、などと思いながら薄目を開けると。



「お早う」




   ・・・・・・。



   ・・・・・・・・・・・・・・・。



涼しげな碧色の瞳に、寝起きのほけほけの顔を覗き込まれた。



「あれ・・・んーと・・?・・・・ハク・・?」

頭がまだよく回らない。

「そうだよ?」



「ええとー。ハクって女の子だったっけ?」

「え?」

「なんで女部屋で寝てるのー?」

「・・・・・・ここは女部屋じゃないんだけど」

「へ?」


寝癖でもつれた糸くずのようになっている、くしゃくしゃの頭を持ち上げて、ねぼけまなこの千尋がまわりを見渡すと。


海を渡って部屋に差し込む朝日はいつもとあまり変わりないようだけど。


そこは、洗った下着や仕事着が雑多に吊り下げられた大部屋ではなく。
飾り気はないけれど、小奇麗に整頓された部屋。

くるまっているのは、つぎのあたった薄い敷布と、寝返りを打ったら身体がはみ出てしまうくたびれた掛布団ではなく。
きちんと洗濯、糊付けした白布をかけられた、寝心地のよい綿布団。

自分を包み込んでいるのは、お白粉やびんつけ油の強い香りではなく。
なんだか懐かしい、・・・・森の香りのような、山の朝霧のようなにおい。




「よく眠れた?」

そう言って隣の少年が身体を起こす。
肩の上で揃えられたまっすぐの髪が、まるでたった今くしけずられたばかりのようにさらさらと揺れる。


「・・・わたし、泊めてもらっちゃったの?」


まだ頬に枕の布目模様の跡が赤くついたままの、腫れぼったい顔ながら。
千尋は少しずつ思考を取り戻し、前夜自分で彼の部屋を訪れたことをようやく思い出す。




「あ。。ハク、ごめんねえ。お布団せまかったでしょ」

「いいよ。気にしないで」


そう言いながらも、・・・・・少し困ったようにハクが笑うので。


「あのぅ。ハクはあまり・・・・眠れなかったの?」

「そうだね」


かなり『寝不足』かもしれない、と、くすくす笑われて。
千尋ははっとする。




「・・・あっ! ごめんなさいっ!! わたしの寝相すごく悪かったとかっ!? 寝言言ってうるさかったとかっ?!?!」

「そうじゃないよ」





くすくす笑いが大きくなって、朝日といっしょに小さな部屋に広がる。





「さあ。部屋にお戻り。たぶん、まだ皆眠っているだろうから」

「う、うん」


布団から先に出て、壁にきちんと吊るしてある白い水干を羽織るハクを横目に見ながら。

千尋も起き上がってざっと身支度を整える。
水干を着たまま眠ってしまったため、桃色の衣はくたくたのしわしわになっていた。
叩いても、のしても、その皺はきちんとは取れない。


「やだあ。服、酷いことになっちゃった。これじゃあお客様の前に出れないなぁ」

「部屋に戻れば、着物の替えはあるよね?」

「あるけど・・・・ちゃんと脱いで寝ればよかった」

「私が脱がせるわけにもいかなかったし」

「えー。なんで」
自分の服だけきちんと掛けといて。



くちびるを尖らせて、はすかいに見上げたなら。



普段あまり声を上げて笑わないハクが。
口元を押さえ、涙目になって、くっくっと笑っていた。


何を笑われているのかわからないまま髪を結いなおし、少年に手を引かれて部屋を出て。



ほこほことふたりで廊下を歩きながら。

まだ深い眠りに落ちている従業員達を起こさないよう、小声で話を。




「あのねぇ。ハク」

「何?」

「わたしね。夢を見ていたみたい」

「そう。どんな?」

「んーーー。よく覚えてないんだけどね。綺麗な着物を着たお姫様がでてきてね」

「ふうん?」

「あれ・・・なんだったっけ。なにかハクに聞いてもらいたいことがあったような気がするんだけど・・・・」

「無理に思い出さなくていいよ。夢なんだから」

「・・・・そう?」

「うん。夢だから」




そう言って。

龍の少年は朝日に白く光る水平線を、窓越しに遠く見やった。



2日ほど続いた雨が止んで。
海に変わった草原のおもてを風が渡る。

風が泡立てた水面にななめに差し込む陽光は、海原にさあっともぐりこむものと、海面に弾かれてきらきらと空に帰るものとにわかれて。
海の碧さと空の青さのいろどりを、くっきりと分けていた。









夢だと思っていたほうが、いい。

「生まれる前の約束」などで。
千尋を縛ってはいけないから。










龍の少年は、自分を、そう戒めた。







そして。
眼下に広がる青い海の底よりも遠い世界へ少女がやがて還ってゆくのを。
じっと見守るのが自分のつとめだと。
そう、おのれに言い聞かせて。



たわいもないことを、次から次へとさも嬉しそうに話して聞かせる人間の少女にうんうんと肯きながら。

そのよく動くまるいくちびると桃色の頬を、飽きることなく、眺めていた。
















その誠実な思いは嘘でも偽りでもなかったけれども。






龍神のまとう縁(えにし)というものは。

本人が思っているよりも、・・・・ずっと深く。








断とうと思って断てるものではないことに、龍の少年が気付くのは。


もう少し、後のこと。












約束のことばは、淡く空に溶けるけれど。
消えることは決してなく。

いつか時が満ちたなら。
若草芽吹く大地に降る。

そのとき、
ことだまを託されるのは。


金の蝶か。
あやなる五色の短冊か。




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♪この壁紙は薫風館さまよりいただきました。♪



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