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『さあ、行きな』
--------言葉でしか、抱き締められなかった。 夏草のまにまに見え隠れしながら小さくなってゆく後ろ姿を。 この身は、追うことができなくて。 手を差し伸ばすかわりに、言葉を。 あのとき、風にのせた。 『さあ、生きな。』
薄々気付いていた。 川を取り戻して、元の世界に帰ることなどできないのでは、と。 風鳴りに耳を澄ますと。 遠い世界で笑いあう人間達のさざめきが聞こえるような気がする。 その中に、懐かしいただひとつの声がまぎれてはいまいかと。 越えられぬ草原の向こうに思いを馳せつつ。 ひとりここで、もの想いにふける癖がついてしまったのは。 いったい、いつからだったろう。 銭婆の夕食の誘いを辞退して、沼の底から帰ってきた白い龍。 夜になれば大河に変わる草原。そのふちに積み上げられている石段に腰掛けて、人の子の消えていった彼方を見はるかす。 足元の草を一握りちぎりとって、ふう、と息を吹きかけると。 それらは難なく、自分には越えることのできない一線を渡り越えて。 あおあおと夏草の生い茂る原の上に細い影を落としながら、風の描くかたちのままに舞い上がり、つい、と白い雲間に消える。 その行く手を軽く目で追って、小さく息をついたとき。 すらりとした女影がひとつ、背中越しに近付いてきて、うずくまる自分の影の横に並んだ。 「なんだ。またココに来てたんですかー、ハク様?」 頭の上からぽんと声を掛けられて、振り仰ぐと。 そこには、小ざっぱりした着物に身を包み、風呂敷包みをひとつ手にした娘が一人、片手を腰に立っていた。 「ああ、リン。もう荷支度はできたのか」 「たいして荷物ないし」 「皆との別れは?」 「してきた」 年季をつとめあげた彼女は、取り囲む仲間達を橋の袂(たもと)でなかば強引に振り切るようにして、湯屋をあとにしてきた。 頼むから見送りは勘弁してくれ、と、 「湿っぽいの苦手だしさぁ、オレ」 冷やかされるのは、もっとまっぴらだし。 そう言いながら、狐娘は白い水干の隣に並び、よっこいしょ、と石段に腰を下ろす。 二人の目の前に広がるのは、延々とみどりそよびく草の原。 わたる風が運ぶのは、人間の少女が地平の向こうへ帰ったときと同じ夏の香りだった。 「故郷(くに)に帰るそうだな」 「ああ」 夜の間だけ蜃気楼のように海の向こうに浮かび上がるあでやかな街に、昔は無性に憬れたりもしたものだったが。 一見幻のように美しく見えるあの街も、油屋と------表玄関だけは不必要なまでに華美なくせに、壁いちまい裏側へ回ればしけてることこの上ない魔女の湯屋と------たいして変わり映えしないだろうと、少しずつ思うようになった。 自分には、地に足のついた生活が合っている。 -----------そう気付かせてくれたのは、たぶん、あのやせっぽちの人間の子。 「なんにせよ、めでたいではないか」 「〜〜〜〜〜〜!!! やめてもらえないっすかー?! ハク様までそういう事言うの」 ああもうっっ、と狐娘はくしゃくしゃ額髪をかきあげる。 寿退社だのなんだとのからかわれるのは、もう御免こうむりたい。 さっき湯屋を出るときに、さんざん同僚たちに突っ付きまわされてきたところなのだ。 湯屋遊びの稲荷神のお供としてやって来た、昔馴染みの雄狐に再会したのは一年ほど前。 まあ、それなりにいろいろななりゆきがあって。 リンの年季明けを待って二人は所帯を持つことになった。 「照れずとも。ほら、向こうに見えるのはそうではないのか?」 草原のはるか向こうから、ひとりの狐の若者がこちらへ向かって身軽な動作で近付いてくる。 リンの姿を認めたらしく、大きく手を一振りした。 「げ。ここまで迎えに来なくっていいってあれほど言ったのに」 無骨というか、素朴というか。 気は利かないが、飾り気がない分付き合いやすいのが取り得の男。 その満面笑顔が、少しずつはっきり見えるようになってくる。 リンはがーっと赤くなりながら、さらに髪をくしゃくしゃにしつつも・・・・、相手が嬉しそうにぶんぶんと手を振っているのがわかるので知らん顔する訳にもいかず、仕方なしに、というふりで手を振りかえした。 そして隣に座っている、いつの間にか背と髪が伸びた元上役の顔を、ちらり、と盗み見る。 ----------相変わらず、男にしては線の細いヤツだけど。 年を重ねるにしたがって、気品というか落ち着きというか、そんなものを自然と身にまとうようになっているのは、やはり自分らとは生まれが違うからか。 ぺらぺらの安水干に束ね髪、素足に粗末な草履といったなりをしているが、もともと顔立ちが綺麗だし、それなりの装束をととのえれば立派に貴公子で通るのだろうと思う。 そして、その『生まれ』がこの男にとって今一番邪魔になっているものかもしれない。 ・・・・自分は、もといた場所に帰れる。ただの狐だから。 だが。 「なあ・・・・オレに何かできること、あるかい?」 思いもかけないことを、思いもかけなかった相手から言われて。 龍神の碧色の瞳が、一瞬かすかにさざなみ立ったが。 それはすぐに、いつもの透明度を取り戻す。 「いや」 軽く首を振ってから、彼はゆっくり微笑して相手の心遣いに応える。 「へぇ。初めてだな」 「何が?」 「ハク様がさ、オレに笑いかけるなんて」 「そうだったろうか」 「そうさ」 センにも。『最後』そういう顔見せたんだろうか。 ・・・・待ってるだろうな、アイツ。 それを口にしてしまうのはあまりに残酷なので。 リンはわざと大きな伸びをした。 日差しをはらんだ明るい風が、彼女のつややかな髪を大きくそよがせる。 新しい場所へ一歩進みだそうとする者の背を、しなやかに押す。 と、こちらへ近付いてくる狐の若者が走り出そうとしたのに気がついて、リンはあわてて立ち上がり、そっちで待っているようにと、大げさな身振り手振りで示した。 冗談じゃない。 二人並んで四角張った別れの挨拶、だなんて柄でもない。 「じゃっ、ハク様。オレもう行くわ。元気でな」 リンはせわしない手つきで、着物をぱんぱんと手で払い、風呂敷包みを抱えなおす。 「ああ・・・・そなたも達者で」 ハクも立ち上がる。 が、自分はそこから一歩先に踏み出すことはできない。 立ち尽くす龍の少年の目の前でその境界を越え、伴侶のもとへと駆け出してゆく狐娘。 その後姿を見送りながら。 ハクは、ふとあることを思いつき。 口の中で小さく呪文を唱えると、印を結んだ指先を口元に当て、そこにふうっと息を吹きかけた。 「・・・・・えっ? あ!? ハク様っ???」 驚いて振り返ったリンの身体が細かな霧雨のようなもので覆われて。 それが夏の日差しを七色の光に分け、嫁ぎゆく娘をふんわりと包み込む。 「え? 何だこれ、虹??」 目を丸くするリンに、ハクは微笑する。 「たいしたことはできないが。はなむけだ」 「ええと・・・ハク様?」 「水神の娘たちが嫁ぐ時、よくそうやって虹をまとってゆくのを思い出したから。冷たくはなかろう?」 「・・・・綺麗だな。嬉しいよ」 ・・・・・虹の花嫁衣裳を着せたいのは。ホントはオレじゃないよなぁ・・・。 リンは、迎えに来た若者とともに丁寧に頭を下げ。 草海原の向こうへと去って行った。 その後姿が一瞬、いとしい人間の少女に重なって見えて。 思わず一歩前かがみになった龍神の肩を。 夏風が遠慮がちに抱きとめて。 -------思いとどまらせた。 見送ってくれる上役の姿が見えなくなる前に、もう一度だけリンが振り向くと。 やはり、ハクは静かに微笑んでいた。 が。 自分をやわらかに包んだ霞のように細かな雨粒。 彼女には、それが水の神の落とす涙の雫のように思えて。 リンは自分の手を引く雄狐に、こう尋ねた。 「なあ。ちょっと回り道してっても、いいかな」 * * * * * * * * * |