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「あ。狐の嫁入り」 駅前の停留所でバスを降りた浴衣姿の千尋が、頬に落ちてきた冷たいものに気付く。 雨を避けようとなかば無意識に額にかざした白い手には、一枝の笹飾り。 綺麗に色紙細工で飾り付けられたそれが、しゃらん、と音をたてて揺れた。 たいして濡れるわけではないのだが、一応手近な軒下に雨宿りしながら、いまだ明るい夏の空を見上げると。 夕暮れるにはひと呼吸はやく。 まだ充分に光をたたえた夏の横日が差す中に、さらさらと霧のような雨が降りそそいでいた。 晴れているのに、天からこぼれる雨。 傾きかける陽(ひ)の光を受け止めてやわらかに光る細かな水の粒が、向こうの山の端(は)にレースのカーテンのような薄い虹を投げていた。 わあ、綺麗。 ああいうオーロラみたいな虹のことを、天女の羽衣にたとえた小説があったっけ。 目指す駅は、目の前の信号を渡れば、すぐそこに。 交差点には盲導用のメロディーが流れ、駅へ通じる横断歩道が赤信号表示であることを告げている。 せっかくおかあさんに着せてもらった浴衣、濡らしたくはないけど。 次の電車に乗らなければ、理砂との七夕祭りの約束の時間に間に合わない。 千尋は、信号が青になったら小走りで駅に向かおうと決め、往来の人と車のせわしない流れを見るともなしに眺めた。 『琥珀川の七夕祭り、今年限りで打ちやめになるんだって』
電話口での理砂の言葉が耳の中にこだまする。 もう、あきらめろっていうことなのかな。 ・・・・もう、待つな、・・・・って。 琥珀川跡地での、夏の祭り。 千尋はそれを、待ちつづけているひとと繋がるたった一本の糸のように感じていたところがあって。 一年、また一年と、会えない年月を重ねながらも、いとしい少年が主をつとめていた川の跡地へ毎年足を運ぶのは、彼女にとって大切な意味があった。 ・・・・・が、それすらも、今日限りできなくなるという。 ため息混じりに少し背伸びをして、もう一度、お天気雨のしぐれる街を見はるかしたとき。 信号と、車の流れが変わった。 盲導用のメロディーも「ロンドン橋」から「とおりゃんせ」に変わり、横断できるようになったことを歩行者に伝えている。 「とおりゃんせ」の出だしをワンフレーズだけ聞き流し。 千尋は、おもむろに下駄を鳴らして駆け出した。 いきはよいよい かえりはこわい
こわいながらも とおりゃんせ とおりゃんせ こまかな雨の湿りを、かざした袖に受けとめて。 浴衣の裾が乱れないよう気をつけて、急ぎ足で雨と「とおりゃんせ」の降る往来を走り抜けながら。 なんとなく。 千尋は、さきほど浴衣を着せてもらいながら、母悠子と交わした会話を思い出した。 『あのねぇ。近くでふさぎこまれてるより・・・・・・』
* * * * * * * * * * * * 「そろそろ自分で着れるようになりなさいよ、浴衣くらい」 「うん・・・・」 胡蝶柄の浴衣で娘の祭支度を整えてやりながら。 悠子は姿見を覗き込んだ。 「・・・・タオル巻いた方がいいわね」 悠子は娘の細すぎる胴にタオルを巻いて補正してやる。 ・・・・やっぱり痩せたわ、この子。 「あんたもっと食べなさい。好き嫌い言ってないで、豚肉なんかもちゃんと食べなきゃだめよ」 「・・・・・・豚肉は・・・嫌なの」 「変な子ねぇ。小さい頃は喜んで食べてたのに。・・・こんなに細っこいんじゃ、まるで私が食べさせてないみたいに思われるじゃないのよ」 それにしても、と悠子は思う。 最近のこの子の塞ぎこみようは、ちょっと普通ではない。 学校も休みがちで、外出もしないし。 珍しく、今日の七夕祭りの約束には出かけていくと言っていたので、少しほっとしていたのだが。 やはり、あまり元気がない。 「ほら。できたわよ」 表情の冴えない娘の背中をぽんと叩いて、姿見に正面から全身を映してやると。 顔色が良くないながらも、やはり若い娘らしい華やかさがそこはかとなく漂う。 「あんた昔から、こういう格好似合うのよね」 母親に誉められて、千尋はほんの少し頬を染めた。 「・・・・ありがと。おかあさん」 鏡に映るのは、蝶々が袖に裾に舞い踊る、お気に入りの柄。 「変じゃない?」 「んーー。そうねぇ」 「何?」 「・・・・・変ってほどじゃないけど。もうその柄はちょっとねぇ」 子供の頃からずっと、千尋は浴衣というとこの柄を選ぶ。 どちらかというと幼い顔立ちの彼女に、ポニーテールと蝶々の浴衣という取り合わせがとてつもなく似合わない、というわけではないが。 いやむしろ、よく似合うのだが。 年々少しずつ娘らしく、匂いやかに成長してゆく姿を見るにつれて、もう少し大人っぽい色柄を選んでもよさそうなものなのに、と思うのは母親の欲目だろうか。 「理砂ちゃんに笑われない? 小学生のときから同じ柄ばっかり着て」 「そんなこと、・・ないもん」 「蝶々や金魚、っていったら『お子様向け』の定番じゃない」 「いいの。これが好きなの」 「お母さんがあんたくらいの年の頃にはもっと色っぽい柄のを着て、お父さんとデートしてたわよ」 「・・・・・・ふうん」 「ん?? 千尋?」 軽口を叩くつもりで言った言葉に、千尋が急にうつむいてしまったので、悠子はあわてて娘の顔を覗き込む。 「おかあさん」 「何よ」 「おかあさんとおとうさんって、『遠距離恋愛』だったんだって?」 「そうよ。それがどうかした?」 「・・・・・・どうもしない」 母親の・・・いや、女の勘、とでもいうか。 ああ、そういうこと、と悠子はなんとなく納得した気分になった。 千尋が沈みがちなのは、好きな男の子が遠方に住んでいるとか、そういうたぐいのことなのではないかと。 ただ、この様子から察するに、もう少し事情は複雑なのかもしれないと感じて。 ・・・彼女は、それ以上根掘り葉掘り問いただすようなことはやめる。 「千尋、・・・帯の結び方変えようか」 「え? なんで」 「なんか、いまひとつだもの」 悠子の好みで、千尋の浴衣姿は、きりりとした一文字結びの帯にすることが多い。 シンプルで清潔感のあるかたちなのだが、どうも・・・今夜の娘にはいただけないように思えた。 肉のそげた、そこはかとなく淋しげな背姿をいっそう際立たせてしまいそうで。 悠子は少し考えてから、それをふんわり羽をたたみこんだ八重文庫に結び直してやった。 きゅっと締めた帯の背に、蝶が羽根を広げてちょこんと休んでいるかのような形だ。 少々子供っぽい印象になるのだが、一文字に結ぶよりも、後姿がほのかに華やぐ。 「さあ。せっかく綺麗にしたんだから、しゃんとして行ってらっしゃい。・・・あ、これ持って行くんでしょう?」 悠子は玄関口で、一枝の笹飾りを手渡した。 みずみずしい笹葉の間に、丁寧にこしらえられた紙細工の飾りが揺れる。 千尋が夕べ、自分で準備していたものだ。 「・・・さみしくなかったの?」 「え?」 「何年も、遠くに離れてたんでしょ」 下駄に素足を通しながら伏し目がちに問う娘。 母親は一瞬、返答の言葉に詰まった。が。 「・・・・・ああ。どってことないわよ。電話だって手紙だってあったんだし。今の子たちだったら、メールとかもできるんでしょ」 悠子はわざと、けろりと言い放つ。 「そうねぇ。私はともかく、おとうさんは淋しかったみたいね。最後は、結婚してくれって電話口で泣いて頼まれたわ」 「・・・えっ」 思わず顔を上げて、まじまじと母親と目を合わせる娘。 悠子はからから笑った。 「男泣きに泣かれちゃあ、ほっとけないじゃない。結婚してあげたわよ」 くすりと千尋が笑った。 たぶん、この日はじめて。千尋が笑った。 「はじめて聞いた。そうだったんだ」 「そ。おじいちゃんやおばあちゃん説得するの、大変だったんだから」 「おかあさん、一人娘だもんね」 そして。 ここで言うべきかどうか、悠子は一瞬迷ったのだが。 翳りの抜けきらない千尋の薄い肩が、自分の娘時代と重なって。 やはり、言葉にしてやるべきだと、・・・・思った。 「おばあちゃんがね。味方してくれたのよ」 「?」 「あのねぇ。・・・『近くでふさぎこまれてるよりも、遠くで笑ってくれてるほうがいい』ってね」 「・・・・・」 「親って、そんなもんよ」 * * * * * * * * * * 信号がまた替わった。 交差点に流れるメロディーも、「とおりゃんせ」から、また「ロンドン橋」に戻る。 千尋は切符売り場の列に並びながら、もういちど、お天気雨のしぐれる空を振り仰いだ。 『琥珀川の七夕祭り、今年限りで打ちやめになるんだって』
振り払っても振り払ってもリフレインする言葉。 祭りがなくなって。 そして、人々の記憶の中からも、琥珀川の存在は消えてゆくのだろう。 わたしも寂しいけれど。 ・・・これって、ハクにとっても、辛いことなんじゃないかな。 ほんの数分で止むだろうと思っていた細い雨が。 アスファルトで舗装された道路に、ほろほろと沁みこんでゆく。 本降りになる様子は全くないのに、・・・・それは、白い薄日の差す町をしくしく湿らせながら、一向にやむ気配を見せない。 空が、泣いているみたい。 声を殺した忍び泣きのような雨模様に。 千尋はなぜか、急に胸を締め付けられた。 ハクの泣き顔って、見たことないけど。 こんな感じなのかもしれないな・・・・ 電車の切符を買うために並んだ人の列が、だんだん短くなる。 後ろの人に促され、初めてそれに気付いた千尋は、すみません、と謝って前へ列を詰めた。 あ・・・・。もしかして・・・・?
前に並ぶ人の数が、一人、また一人と減る。 もしかして・・・・・泣いてるの?
列が機械的に一歩前へ進み、千尋が切符を買う番となり。 用意しておいた硬貨を機械の中に落とすと。 ちりりぃぃん・・・・と、意外なほどに澄んだ音がした。 もしかして。
ハク、・・・泣いてるの? 「ちょっと。早くしてよ。電車来ちゃうじゃない」 券売機に金を入れたなり、いっこうにボタンを押そうとしない様子にしびれを切らしたらしい声が背中からかかり、千尋ははっと我に帰った。 「すみません----------」 --------言うなり、そのまま取り消しボタンを押して。
胡蝶の浴衣姿の少女はくるりと踵を返し 「とおりゃんせ」を繰り返す泣き空の下へ飛び出して行った。 * * * * * * * * * |