**********************
「タクシー!!」 往来で呼び止めたイエローグリーンの車に飛び乗った、胡蝶柄の浴衣の少女。 手に笹飾りを握り締め、髪をふりみだしたその少女が告げた行き先に、・・・ドライバーは首をかしげた。 ・・・・若い娘が、もう日も暮れようって時に、あんな所へ? 「急ぐんです。お願いします」 後部座席から身を乗り出さんばかりにして訴える娘。 その切羽詰った声に押し出され、ほどなく車は発進した。 日の光の色が徐々に薄くなり、入れ替わるように闇色がゆるやかに街を包み始める。 たっぷりと水気をふくませた絵筆で、ほんの少しずつ藍の色を足してゆくような空気の彩りの変化を車窓から眺めながら。 千尋は、もう待たない、と心に決めた。 会いたいなら、会いに行く。 そんな簡単なことを、どうして今の今まで迷っていたのだろう。 ぽつ、ぽつと灯りはじめる街灯が、歌うように夜の色をたぐりよせる。 細い雨はその名残だけをそこかしこに散らして、うすくうすく夜気の中に霞んでいった。 「お客さん。ここで勘弁してもらえますか。・・・そのう、・・・」 こんもり生い茂った小山のような森。 その入り口一歩手前で、ドライバーは言いにくそうに告げた。 何年か前にここで車が1台『神隠し』にあったって噂は知ってなさるでしょう、と。 彼にどう返事をしたのか、覚えていない。 料金を支払うのももどかしく、千尋は森の小道へ向かって駆け出していた。 その背中ごしに、ドライバーが何か叫んだように思えたが。 何も、耳には入らなかった。 会いに行く。一晩かかったって、二晩かかったっていい。トンネルを探す。 一度だけ、高台にある青い家を、ちら、と仰ぐと。 カーテン越しに、黄味のかかったやわらかな色調の照明------悠子は白々とした蛍光灯の光が嫌いで、リビングや寝室には白熱灯の間接照明を趣味よく使っていた--------がともされているのが、見えた。 それが、最後。 もう、振り向かなかった。 いきはよいよい かえりはこわい
こわいながらも とおりゃんせ とおりゃんせ 小さな石の祠が大樹の陰に肩を寄せるようにひとかたまりになっている場所。 浴衣が着崩れるのも構わずに、その脇を走り抜ける。 ここまでは、いつだって、来れた。 そう。『こちらの世界』へ戻ってきて以来、この森に分け入ったのはこれが初めてではない。 静かに微笑んで見送ってくれたひとの面影を探して、何度も。 何度も、来たのだ。 あの十の夏の、鮮やか過ぎるほどにくっきりと記憶された風景。 まっさおな空と、まっ赤な塗り壁と、むせ返るような緑の森と、闇色のトンネル。 子供のクレヨン箱の中から真っ先になくなっていくような、強い色ばかりが不思議に調和して並んでいた場所。 一本道だったはず。 車が通れる道だったはず。 なのに、あれから一度もたどりつけなかった場所。 息を切らして走り詰めて、走り詰めて。 いつしか、道らしい道はなくなってしまっても。 雨露に湿った背の高い夏草を掻き分けるようにして、千尋は走った。 どこ? どこにある?? ほぅ、ほぅぅ・・・・と、梟(ふくろう)の声がどこからともなく、聞こえてくる。 夜目のきかない人間の娘は。 ふと、同じ場所ばかりをぐるぐる回っているような不安を覚えて。 つい、と空を見上げると、もうまばらに星がまたたいていた。 思わず気弱になりかけた自分を叱咤したとき、・・・・足元がもつれた。 「・・・・痛・・・っ・・・!!」 前のめりに転んで、派手に顔を地面に打ち付けてしまった。 すぐには起き上がることができず、うつぶせに地に伏せたまま、呼吸を整える。 額がひりひりするので袖口で抑えてみると、砂と血が、胡蝶柄の浴衣にこびりついた。 ふう、と小さく息を吐いて視線を前方に移すと、転んだ拍子に取り落としてしまったらしい笹飾りが転がっているのが見えたので。 横たわったまま、手だけのばしてそれを掴もうとして。 ・・・・・・あっ!?!? 千尋は、もうかすかな星明りしかない暗い森に目を凝らした。 『けものみち』・・・? 人の目の高さでは気付かなかった、小さな通り道のような、もの。 ぼうぼうと生い茂った夏草の間に、わずかに踏み分けられた跡が残っていて。 雨上がりの柔らかい土の上には、まだ新しい動物の足跡が見てとれた。 千尋は動物にあまり詳しくはないが、見たところ一組のつがいで、大きさからして犬か狐といったもののようだった。 ・・・・行ってみようか。 本能なのか、勘なのか。 引き寄せられるように、そう思った。 砂の味のする口元をこぶしでぐい、とぬぐい。 この道を這って行こうと決めた。 どうせ、もう道にはとうの昔に迷ってしまっている。 この二匹の動物の足跡に『賭けて』みようと。 立ち上がってしまったら、草中の小さな道と足跡を判別することはできない。 四つんばいで進むのに、荷物は邪魔だ。 現金や、こまごまとした身の回りのものを入れた巾着袋はその場で捨てた。 笹飾りをどうしようかと、一瞬迷ったが。 出際にそれを持たせてくれた母の顔が浮かび。 少し考えて・・・・結局それを、帯の背中にしっかりと差し込んでから。 少女は、獣の道を一歩ずつ進み始めた。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * ああ。いつの間にか・・・・夜になっていたのか。
足元にひたひたと寄せてくる水の音に気付いて、ハクは、ようやく時間の経過というものを思い出した。 水際で膝を抱えたまま、視線を上げると。 目の前にできた川を横切って、さんさんと照明を灯したフェリーが湯屋への客を満載して近付いてくるのが、見えた。 神々のさんざめく声から顔を背け、自分のなりを見て。 白い水干が、しっとり濡れて身体にまといついているのに気付く。 ・・・・・・時雨でも降ったか。
水や雨に関しては人一倍敏感な神であるはずの自分が、今の今までそれに気がつかなかったことを自嘲しつつ、雨上がりの空を振り仰ぐ。 ・・・・・おや。珍しい。
眼前にたおたおと横たわる川に、覆い被さるようにたれこめる、雨を吸った夜。 紫紺色に墨流しした、星も少なに澄んだ夜空。 そこにほっそりと浮かぶ、優雅なひとすじの銀の糸。 久しぶりに見た。『月夜の虹』だ。
人よりはるかに長い生を歩んできた龍神にしても、今までに数えるほどしか見たことはないが、月夜にもごくまれに虹が生まれる。 太陽の豪奢な光でできる七色のそれとは比べものにならないほどに、かすかで弱々しく、彩りも目立たないが・・・・それでいて清楚な美しさをたたえる、夜半の虹。 色濃い闇色の中空に。 娘化粧に使う細身の刷毛(はけ)で、さっと薄紅を刷(は)いたような、はかない光の細帯。 自分は、昔からそれが好きだった。 あの薄銀の羽衣を着せたなら。
さぞや、美しかろう。 とりとめもない考えだとは分かっていても。 想うだけならかまうまいと。 閉じた瞼の中に、愛しい娘の晴れ姿を思い浮かべて。 龍神は、少しだけ微笑む。 うん。きっと。
薄化粧した千尋に、あの虹はよく似合う。 結い上げ髪に、ほんのり刷(は)いた紅白粉(べにおしろい)。 月の光をうつした花嫁衣裳。 控えめに微笑した、その愛らしさはいかほどだろうかと思いつつ。 頬にひとすじあついものが伝ったのを感じて、静かにその目を開けたとき。 川向こうに。
全身泥だらけの千尋が、いた。 * * * * * * * * * <追記> ※「月夜の虹」情報につきましては、教えてくださったひさかたさまに感謝!です。 (逆立ちしたって、管理人にそんな知識ありません^^;) 教えていただきましたところによりますと、「月夜の虹」というのは、月の夜、時雨が降った後に、広い河の上などにかかる銀ともピンクともいえる淡い虹のことをいうそうで、非常に珍しい現象なのだそうです。 「JUSTIN's HP」さまに写真が掲載されていました。 (http://member.nifty.ne.jp/justin/diary/img_htm/moonbow.html) 「空のKiroku」さまにも写真が掲載されています。 (http://www.bekkoame.ne.jp/i/lummox/Moonbow/Moonbow-Index.htm) 「ハワイ島へ行こう!」さまでは写真を撮影されたいきさつなども掲載されています。 (http://www.hawaii.ne.jp/bigisland/moonbow/moonbow.htm) ※写真情報につきましてはあやめさまに感謝!ですv
また、「天空博物館」さま(http://www.asahi-net.or.jp/~CG1Y-AYTK/ao/rainbow.html) 富士ゼロックスさまのHP内の「色の博物館」コーナー(http://www.fujixerox.co.jp/tcolor/irohaku/ba05/ba_05.html) に関連記事がございます。 興味のある方は、どうぞ♪ なお、文中の「月夜の虹」の描写は、完全に管理人の想像によるでっちあげ(^^;)ですので、科学的な根拠など一切ございません!!! 絶対に信じないでくださいませ〜〜〜〜(大汗) |