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片足にだけ残っている、鼻緒の切れかけた下駄。 乱れた裾合わせからあらわになっている、血の滲んだ膝頭。 浴衣の片袖は何かに引っかけでもしたのか、肩口からばらりと裂けたまま、剥き出しになった白い腕にかろうじてぶら下がっており。 きゅっと詰めて着付けていたのがうかがわれる襟元はみっともなく緩み、肌蹴(はだけ)た細い鎖骨にまとわりつく汗に、ほつれ髪が幾筋も張り付いていた。 頬とこめかみには擦り傷が。 額にこさえた小さなこぶは赤く腫れて。 夜目の利かないかよわい人の身でたどった、けものみち。 血と泥と汗で薄汚れた身なりは、お世辞にも美しいとは言えず。 幾年かぶりに想い人に逢う装いとして、普通若い娘が思い描くであろうものとは、おおよそかけ離れた姿のまま。 それでも千尋は、澄んだ瞳でしなやかに岸辺に立っていた。 ああ。やっぱり。 ハク、泣いてたんだ。 大河をはさむ少女の遠目にも見てとれた。 岸向こうに呆然と立ちすくむ若い龍神。 記憶の中の姿より少し大人びたその頬に。 ぬぐうことすら忘れられていた、銀色に濡れるひとすじのあとが残っていて。 やわい月の光にしっとりと包まれた夜闇の中、それがほろりと光ったのが。 川を渡る風が、少女の髪と、帯背にはさまれた笹枝をしゃらりと揺らす。 にぎやかに笹葉を飾っていた手作りの紙細工は、そのほとんどが、破れや汚れで元のかたちが判別できないほどに傷んでしまっていたり、あるいはすでになくなってしまっていたりしたのだが。 中にひとつだけ綺麗なままのものが・・・・・半透明の透かし模様を品よく梳(す)き込んだ、小さな和紙でこしらえられた蝶々の形のものがあって。 川風は、それをひらりと光らせてから、月の虹の向こうに抜けた。
千尋は少し微笑んで。 片方にだけ残っていた履き物を脱ぐ。 からん---------。
決別(わかれ)の音を立てて少女の足から抜け落ちた、柾目(まさめ)の桐下駄。 朱の地に小葵(こあおい)を染め抜いた絞りちりめんの鼻緒が切れて。 花が散り降るように。 ふさり、と、それはくずおれて地に重なった。 ちゃぷん---------。
ふたりを隔てる川の流れの中に、千尋の素足が踏み入ると、思いのほか澄んだ音がして。 ハクは、びくん、と身を震わせた。 「・・・・ハク」 呼びかけともつぶやきともつかない、かすかな声が少女のくちびるからこぼれた時。 粗末な白水干をまとった龍の若者からは、理性も理屈も思考も分別も--------おおよそ、自分の行動を制御すべきすべてのものは、瞬時に消え失せ。 彼は弾かれたように、禁域たる水の流れの中へ足を踏み入れていた。 「ちひ・・・・!」 ----じゅぅぅううう・・っ!! とたん龍神の足元には、煮え湯の中にいきなり焼いた鉄棒を投げ込んだかのような激しい水煙が立った。 禁を冒す者を許すまいと、河が怒りをあらわにしたのだ。 「千尋!どうして・・・・!」 大河を満たしていた清浄な水たちは、そこを渡る資格のない者に触れたと同時に、はしからどうと煮えたぎり、一斉に警告した。 己が分を弁(わきま)えよと。あるべき場所へ戻れと。 熱に浮かされたように歩みを進める男の皮膚はたちまちに焼け爛れ、肉が酸に焦がされるのに似たいやな匂いがあたりに充満する。 「きゃああああーーーーーーーーーっっ!!!!」 惨状を目の当たりにした千尋の悲鳴が空を切る。 少女の絶叫と、我が身を取り巻く熱や悪臭を、ハクは他人事(ひとごと)のように意識の向こうに感じながら、なお、ざぶざぶと河中へと入ってゆく。 「ハク!!来ないで!!」 人間の娘の必死の叫びが川面を走ったが、灼熱の水の中を進む龍神は止まらなかった。 「来ないで!! わたしが、行くから!!」 じゅうじゅうと水面を煙立てる音と、鼻を刺す異臭は一層強くなる。 「来ない、でーーーーーーーーーーっっ!!」 千尋は泣きながら流れのさなかに飛び込んだ。 冷たい水が傷だらけの身体に沁みたが、そんなことにかまってはいられなかった。 わたし、ハクをこんな目に会わせるために、来たんじゃない!!
逢いたかったひとが、目の前で制裁を受けている。 いくら龍の体が丈夫だと聞いてはいても、この状況を見れば、どれほど酷い状態に彼がいるのかくらい、わかる。 足元を何度も掬われそうになりながら、千尋は水流を掻き分けた。 たちまち膝に、腰に、胸に、迫る水。 それらは、ひたひたと重く浴衣にまとわりつき、邪魔になって仕方がない。 気ばかり焦って、なかなか距離が縮まらない。 「ハクはこっちに来ちゃいけないんでしょう!? お願いだから、そっちで待ってて!!」 「そなたこそ。こちらへ来てはいけない。すぐに帰れ」 もう、白い水干は、焼け焦げだらけの襤褸(ぼろ)布のようになって、龍神の肩からだらりと垂れ下がっており。 その破れからのぞく赤黒い火傷は、もとの肌が白いだけにひときわ酷(むご)く際立つ。 「戻りなさい。今度こちらへ来たら、そなたは二度と帰れなくなる」 いや。・・・帰せなく、なる。
地獄で苛まれた亡者のように悲惨な姿になって、それでも一直線にこちらへ近付いてくる碧の瞳の若者に向かって。 首まで水に浸かった千尋は、懸命に細い両の手を伸ばす。 「もう、------------待つのは、嫌!!」 叫んだと同時に。 どぷん、と水の重さが増して。 足がつかなくなった。 ねっとりした水に、全身が捕らわれて。 息ができなくなった。 苦しいと思うより先に、気が遠くなる。 きいん、とこめかみのあたりが痛くなって。 頭の中にすりガラス色のもやが広がった。 ------今気絶したら、駄目!
きっとハクは、自分の命に代えてでもわたしを人間の世界に逃がそうとする。 このまま意識を失ったら。 気がついたときには、ひとり森の中で。 夢でも見ていたような気分でぽつねんと座り込んでいるにちがいない。 そんなのは、絶対に、嫌!
どんなに偉い神さまのいいつけでも、 これだけは聞かないから! 遠のきかける意識を強引に掴み寄せて。 流れにもぎとられそうな手足をばたばたさせながら、必死にまぶたを開けると。 目の前に。
大きくて真っ白で傷だらけの龍が、見えた。 手を伸ばした。 せいいっぱい広げられた少女のてのひらに。 水流を切って突き進んでくる白龍の双角が、すっぽりと収まった。 ぎゅう、と握り締めるその小さな手に。 龍の心臓も。 鷲掴みにされた。 背帯の笹飾りは、川の流れに押されて千々(ちぢ)に乱れ。 和紙細工の胡蝶が、水にもまれてきりきりと舞った。 とおりゃんせの童歌が。 どこかで聞こえたような、気がした。 |