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-------ごめんね、ハク。こんな目にあわせて、ごめんね。
息のできない激流のさなかでとらえた、いとしくてなつかしい龍(ひと)。 でも、間近で見るその姿はあまりにも凄惨で、千尋は再会の喜びを噛み締めるどころではなかった。 つややかに輝いていた真珠色の体は、いたるところ赤銅色にただれ、うろこのずるむけた傷口は醜く膿んで周囲の水を赤黒く濁している。 ふさふさと碧なして風にたなびいていたたてがみは、野焼きで焼け残った立ち枯れ葦のように、がしがしとすすけ。 その下で、血走る目だけが異様に光っていた。 かつての優美な面影はどこにもなく、それはまるで恐ろしい魔物のような形相で。 それをどうしてやることもできない無力な自分が悔しくて。 人間の娘は、龍の双角を握り締める手に、ぎゅ、と力を込めた。 と・・・・。 そのとき。 千尋は奇妙な既視感にとらわれた。 あれ・・・・?
前にも、なかったかな。こんなこと・・・・ 全身を取り巻く、暗い色の水の中で。 決して放すまいと、固く握り締めた手。 ええと。
幼い頃、琥珀川で溺れかけたときにも。 よく似た体験をしたけれど。 そうじゃなくて。
もっと、昔。 もっと、もっと、前・・・・・・・ 嵐の夜で。 雷と雨が強くて。 水しぶきが光って散って。 千尋は息苦しさも忘れて、懸命に記憶の糸を手繰り寄せる。 たしか。何かに追われていて。
水の中に、逃げた。 髪・・・・そうだ、自分で髪を切って。 ふたりで手を繋いで。 水の中に、逃げた・・・・!! -----ざばぁ・・・・・っ。 脳裏をよぎる記憶の断片の切れ切れが、夏の流星群のようにまたたいた瞬間。 千尋は水中から、空気のある領域へと押し上げられた。 白龍は、生きているのが不思議なほどの無残なさまで、それでも懸命に鎌首を高くもたげ、人間の娘の呼吸を確保してやる。 「ハク!」 千尋が最初の酸素を肺に送り込むのと。 「わたしたち、『生まれる前』にも----------」 突如甦った記憶を伝えようと必死でことばを舌にのせたのは。 「----------こんなふうなこと、あったよね?」 どちらが先だったか。 「そうだよね? ね?!」 が。 ---------思い出さなくて、いい!! 天を裂くような龍の咆哮が、千尋の言葉を遮った。 「ハク・・?!」 ・・・思い出さなくていい。生まれる前の約束など。
荒々しい川面にこだまする、断末魔のようなその叫び。 千尋は瞬間、声を失った。 そのとき。 ずがぁあああ・・・・ん!! 川上から轟音を立てて流れ落ちてきた巨大な倒木が、傷だらけの龍の背に激突した。 「きゃあああああーーーーーーーーーっ!!」 身の軽い人の娘は、はずみでぽーんと空中に投げ出され、見る見る月夜に吸い込まれてゆく。 龍の身体をうちのめした倒木も同時に粉々に砕け、娘と一緒に空に舞い散る。 ---------千尋!! 龍は一気に水底から天へと駆け上がった。 月の光を弾いた金色の水飛沫が。 水面を蹴散らした。 ばらばらに裂け、鋭利な刃物のようになった倒木の破片群は、いったん夜空の高みにのぼりつめ。 そして今度は、恐ろしい勢いで空からざあと降ってきた。 愛しい娘を追って全速力で空を切る龍神にも、それらは容赦なく襲い掛かかる。 ばりばりばりばりばりっ。 既にかなりもろくなっていた体表の鱗はぼろぼろと引き裂かれ、血糊を引いてその身体から剥がれてゆく。 思わず身をよじった龍の首元を、ひときわ大きな、黒くささけ立った破片が直撃した。 げしぃ・・・・っ! 耳障りな音を立てて。 喉の下の。 龍の身体の中で一枚だけさかさまに生えている鱗(うろこ)が。 そげ落ちた。 瞬間、まっくらになりかけた意識を手放すまいと食いしばった奥歯が。 砕けた。 「ハクーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」 上下左右の方向感覚さえ失ってしまいそうになるのを懸命にこらえ、なかば動物的な勘だけを頼りにその叫び声へ向かって身を差し伸べる龍。 -------届け・・・・・!! しゃらりと頬を掠めた、笹枝かざりの揺れる感触。 牙の先に。 胡蝶柄の浴衣の端をがし、と捉え。 白龍は、自分がどんどん落下していくのを感じた。 落ちゆくさきに、白い砂地が見える。 ----------ありがたい。中州だ。 無事着地できる自信はない。 が、水没するよりましだ。 少なくとも、千尋が溺れてしまう危険は避けられる。 龍は覚悟を決める。 地に衝突した時の衝撃から少しでも千尋を庇うため、空中でぐい、と体勢を整えた。 ずん・・・・。 背に固い衝撃と、土の手応え。 勢い舞い上がった砂煙と、じゃらじゃら飛び散った自分の鱗。 その中をごろごろと横倒しに転がって、砂と水のきわぎりぎりまで弾かれ。 少女を抱き締めた龍神はやっと止まった。 もう龍の姿をとっていられなくなっていた。 「千尋、・・・無事か?」 肩で荒く息をしながら呼びかけると。 腕の中の千尋が、砂煙にけほけほとむせながら、だいじょうぶ、と返事をした。 少年の全身から力と緊張感が、どっと抜けた。 急に身体が重くなるのを感じながら、彼はとつとつと言葉を続ける。 「夜が明ければ水は引く。それまで、ここで頑張るんだよ」 「・・・・ハク・・・?」 千尋はごそごそと少年の腕の中から這い出して起き上がり、その顔を覗き込む。 言われていることがよく理解できない。 「『川』を渡ってしまったわけではないから、朝になれば帰れる。安心おし」 「え・・・っ・・」 少女の顔色がさっと変わった。 血の気を失ったくちびるが、わなわなと震え出す。 「・・・・送ってあげられなくて、ごめんね」 「なに・・・言ってるのよっ?! わたしはねぇ・・・っ・・・!」 ああ。 『前』にも。 『前』にも、あった。 こんなこと。 水に逃げて。 逃げて。 逃げ切れなくなって、こんなふうに砂の上で。 こんなふうに、大怪我をしていて。 あのあと確か、・・・・わたしたち・・・・・・! その結末を思い出して、千尋は身震いした。 少年は少し目を細めて、もう焦点のよく合わない瞳に少女の姿を映す。 そして、静かに目を閉じて。 動かなくなった。 「ハクーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!」 嫌!!
ハクが死んじゃうのは、嫌! ひとりで帰るなんて、嫌! でも。 また、『あんなふうに』なるのも、ぜったい嫌!! 『あの』記憶が。 甦った。 水の一族の少年が最後の力で作ってくれた水の蝶のきらめきが。 目の前をよぎった。 炎の矢の色をうつしてひらひら光る胡蝶を眺めながら。 手を取り合って眠るように水の底に沈んでいった、『あの』記憶が。 千尋の眼前を、走馬灯のように駆け抜けた。 耳の奥に。 透き通る水琴窟の調べが、こだました。 |