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さりさりさりさり。 しゃりりりり。 ちゃりりん。とぷん。 たぷたぷたぷ・・・・ こころなしか、川音が凪(な)ぎはじめた。 川の中ほどの白砂の上に取り残された少女と傷付いた龍神。 ふたりを取り巻く水の流れがおりなすものは。 耳を裂く轟音から、・・・水琴窟の歌にも似た、透明なものに少しずつその響きを変え。 しかし、奇妙に静かなものとなってゆくそれは、千尋にとって、かえって不気味に感じられた。 ・・・・まるで自分たちの出方をうかがっているかのようで。 万一掟を破る行為が続けられれば、いつでも牙を剥けるよう身を潜めているかのようで。 ちゃりちゃり とぷん。 ほとほとほと・・・。 しゃらしゃら さるるん ちりちりちりちり。 何か思い出したくないことをも、思い出させるような。 その異様に澄んだ水音を、無理やり意識の外に追いやって。 千尋は目の前の現実にぎっと目を向ける。 力なく横たわる、変わり果てた姿のたいせつなひと。 全身の裂傷と火傷。 もとの形も分からないほどにぼろぼろに裂けた衣服。 薄くひらいたくちびるは、・・・・おそらく自分の名を呼ぼうとしたのだろう、「ちひろ」の「ち」のかたちのまま、声にならずに止まっている。 血の気の引いた頬と、ぴくりとも動かないまぶた。 泣きくずれるより先に、しなければならないことがある。 千尋はこぶしでぐいぐいと目元をぬぐい、ほとんど半裸の少年の、その傷だらけの胸に耳をおし当て。 そうして、懸命に耳を澄ます。 どくんどくん。どくんどくんどくん! 自身の胸の心音がやけに大きく頭の中に反響して。 それが、行為の邪魔となる。うっとうしい。うるさい。たまらない。 いっそ、自分の心臓の鼓動など止まってしまえと思いつつ、動かないひとのいのちの音をさがして、全神経を聴覚に集中させる。 ・・・・・とくん。 とくとく・・・とくん・・・。 --------わたしの心臓の音・・・・じゃない。 ごくごく、かすかな鼓動だが。 間違いなく、龍の少年の心の音。 それを確認して、千尋はくっと口元を引き締める。 そして、帯を解いて浴衣の胸元に手を入れた。 --------こんなことに使うなんて思わなかったけど・・・。 胴が細すぎて浴衣が馴染まないからと、母が補正のために身体に巻いてくれたタオル。 それを素肌から引き抜くと、糸切り歯にかけて、ぴーーっと裂く。 --------包帯もガーゼもないから、これで我慢してね。 目の前に仰向けに倒れている少年の胸元。 そこにざっくりと口を開けた深い傷。 --------たぶん、「逆鱗(げきりん)」っていう大事なうろこだったんだ・・・・ 空中に放り出された自分の目の前で、それが剥がれ落ちた瞬間の。 あの、苦痛で色をなくした白龍の瞳が、まぶたから消えない。 その鱗が龍にとってどんなに重大な意味を持つものか、むろん、千尋はものの話などでしか聞いたことがない。 が、そこを傷めることがどれほどの痛手となるかくらいは、彼女にも解る。 とにかく、傷が少しでもはやくふさがるよう、少しでも出血が止まるよう、しっかり縛っておかなくてはならない。 傷口は見るからに汚れていたが、消毒薬もなにもない。 せめて清潔な水で洗い清めたいと思うが、川の水は・・・まだ彼にとっては猛毒かもしれないと思うと、それもできなかった。 千尋は迷わず、自分のくちびるを傷口にあてがった。 けものの母親が、傷ついた我が仔にそうするように。 傷の汚れを丁寧になめとって、清めてやった。 それがきちんと済んでから。 タオルを裂いてつくった即席の包帯で、少年の身体をきりきりと締める。 傷口が化膿しているところからは、膿(うみ)を吸い出し。 関節をいためているらしい足首には、帯をギプス代わりに巻いて固定した。 火傷で爛(ただ)れた皮膚は、・・・饐(す)えた鉄錆(てつさび)の味がした。 --------ぜったいに。わたしが助けてあげる! それでも、龍の少年の心音がどんどん弱まってゆくのがたまらなくて。 少女は何度も何度も、その胸に耳を押し当てる。 その体温が少しずつ下がってゆくのが恐ろしくて。 千尋は、がちがちと震えながら彼を抱きしめた。 --------せっかく会えたのに。・・・ひとりで遠くに行かないで・・・ その呼吸がだんだん薄くなるのを認めたくなくて、ぐっとまぶたに力を入れたら。 涙がこぼれた。 --------お願い・・・・・・・・・。
* * * * * * * * * * * * * * * * とおりゃんせ とおりゃんせ
ぼうや ほらほら 手のなるほうへ こちらのほそみち とおりゃんせ ここはどこの細道じゃ? 龍神さまの、細道じゃ? ささやきかけるような、かすかな歌声。 取り留めのないうわごとのようにたよりなげで。 それでいて、せつせつと語りかけるような潤みをおびて。 ・・・・・・・子守唄・・か・・・?
たたみかける細い旋律はほろほろと甘く。 混濁する龍神の意識の奥底を優しくすくい上げて、そっとゆする。 ・・・・・・・ここはどこだろう?
母親の胎内にたゆたうのに似たここちよさに、彼はうとうとと酔う。 鳥居のむこうの 石段ぬけて
花嫁御寮が ゆきまする ちいと通して くだしゃんせ おふだをおさめに まいります ぼうやの ねえやは 数えで十五 金襴緞子(きんらんどんす)の 帯しめて 歌声はとても心なつかしく。 霧霞のようにしっとりと自分をつつみこむ。 ・・・・・私は・・・死んだのだろうか・・・・
おそらくそうなのだろうと思う。 それでもよいと思いながら。 ふたたび、いまだ夢うつつともつかない淡い感触の中に、ぼんやりと意識を沈めようとして。 彼は、愕然とした。 この声は・・・・・・・・・!
錦の手綱(たづな)の お馬に揺られ
轡(くつわ)にちゃぐちゃぐ鈴かざり 往きは美(よ)い美い 帰りは難(こわ)い こわいながらも とおりゃんせ? ・・・・とおりゃんせ? ※ 参考までに・・・「ちゃぐちゃぐ馬コ」は
嫁入りとは特に関係ないんですけどね(^^;) きれいに飾ってもらった馬さんです。 こちらのサイトさまに写真が。 東北地方の郷土玩具にもなっていまして、 こちらのサイトさまにその写真が。 ふわふわとまとまりなく浮遊していた意識が。 しん、と冷え固まるような気がした。 間違いない。
これは千尋の声だ。 この身を包んでいるのは。 千尋のにおいだ。 なぜ千尋が。 なぜ、自分に『子守唄』を歌って聞かせている? 沼の底の魔女の予言が、ちりちりと痛みをともなって頭の中をかすめた。 あんたはね
千尋ちゃんの『子』として生まれるだろうよ たぶん、辛い身篭り方をしてね やめておきな、といっただろう・・・と。 |