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<<< 胡蝶 (38) >>> 

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互いに全身傷だらけの恋人たちの間の。

その、ためいきのような沈黙を、先に破ったのは若い龍神の方。
いまだ目も開けられずにいる少女の耳元に顔を寄せ。


「あれは・・・そなたの母御から教わった子守唄?」


熱の余韻の残る吐息。

華奢な肩口に顔をうずめるようにしてささやかれたその声は低く、まだかすかな乱れを含んで揺れる彼の呼吸が、少女の細い首筋にまとわりつく後れ毛をぞわりと震わせる。

瞬間、甘美というにはあまりに不慣れな、眩暈に近い感覚に絡め取られ、千尋は返事ができなかった。

返事どころか、全身の力が背骨から抜け落ちて、声にならない小さな悲鳴とともに崩れ落ちそうになったところを、・・・・ハクの左腕がすとんと受け止めた。

軽い微笑をたたえた白皙の美貌が、少女のひとみを覗きこむ。


「大丈夫?」





    --------や、やだ・・、笑われた・・・・!





むろん彼には悪意もからかいの気持ちもないのだが、千尋には自分の幼さを指摘されたように感じられて、猛烈に恥ずかしくなった。

上半身の体重全部を彼の腕一本に預けている状態のまま、気持ちのやりどころはないし、身体にはうまく力が入らないしで、ただただ真っ赤になってうつむく。



「もたれて、いいよ」



いいよ、と言われなくてもそうしているしかない少女の腰を引き寄せ、空いているほうの手で彼女の髪の乱れを整えてやりながら。


龍の青年は、舌の上でやわらかくころがすように、小さな旋律を口ずさんだ。
鄙(ひな)めいた、まろいぬくもりをたたえた懐かしい歌。







とおりゃんせ とおりゃんせ

ぼうや ほらほら 手のなるほうへ
こちらのほそみち とおりゃんせ

ここはどこの細道じゃ?







それは先ほど千尋が口ずさんでいた、子守唄。
母悠子の里に伝わる古い歌だった。



「・・・・き、聞こえてたの?」


ハクが意識を失っている間、闇と静寂が恐ろしくて。
歌うともなく唇にのせていたのは、幼いころに母の膝で聞いた歌。



「私はあの歌に助けられた」

「え?」



母から娘へ。またその娘へと大切に歌い継がれてきた子守唄。
それは、嫁ぎゆく娘に幸多かれと手渡される、ささやかなはなむけの歌。



「よいものを、持たせてもらったね」



あの歌が、仮死状態であったのだろう自分を死の淵から引き上げたのだった。
もしあの暗く冷たい世界の中で彼女の歌声が聞こえなかったら、もしあの歌が自分を呼び寄せてくれなかったら、自分は今ここにこうしてはいなかっただろう。






そして、母が子を思う歌が・・・『千尋自身』をも、守った。






龍神は、沼の底の魔女の予言をもう一度思い出した。
自分が自ら命を投げ捨てるようなことがあれば、自分は千尋の子として-------それも、とても悲しい生まれの子として-----転生するだろうという、あの言葉を。

さらに、千尋が子授けの願掛けをしようとしていた事実。


恐ろしいほどに的を得た魔女の占い。
それをすんでのところで止めたのは・・・もしかすると、手塩にかけて育てた娘を想う母親の愛情だったのかもしれないと思い、彼は胸の中で彼女に深く頭を下げた。






「千尋。私は」





龍神は、腕の中の娘に向かってというよりは、むしろ自分に言い聞かせるかのように、ゆっくりと話し始める。




「私は、もう一度、そなたを隠したい」




千尋がはっと顔を上げた。




「返事はいらない。・・・・・・・もう、決めた」




自分たちをとりまく川瀬の音が。
なぜだか急に、少女の耳から遠のいて感じられ。




「そなたには辛い選択をさせてしまうが」




視界がうるんで。
星と空と月のさかいめが、わからなくなった。




「私は、生まれる前からそなたが好きだった」








・・・・・・・・・・あ。


やっと、言ってくれた。







水の音も空にまたたく光の数も意識の範疇からはるか彼方に消え失せて。
千尋はふるりと全身をそばだてた。







ハクが、初めて、言ってくれた。






『ぷろぽーず』と『キス』と『好きだ』と。それらがどう考えても自分の夢見ていた順番の逆でも。

ひとの一生を左右することがらを、強引すぎるくらいの言葉でさらりと言ってのけてしまわれても。


千尋は、嬉しかった。






返事はしなくていいと、彼が言うから。

千尋は何も言わずに、ハクの背にそっと両手を回して指先に力をこめた。





とおりゃんせ とおりゃんせ

ぼうや ほらほら 手のなるほうへ
こちらのほそみち とおりゃんせ

ここはどこの細道じゃ?

・・・・・龍神さまの、細道じゃ?









龍の若者が口ずさむ歌は、彼女の行くみちをやんわりと示す。
少女の全身にほろほろと沁み込んで、そのこころを幸福感で満たしてゆく。

しかしその懐かしい旋律は、惜愁の思いをも呼び起こすもの。

置いてきてしまったひとたちの面影が、歌の波間に浮かんでは消え、また浮かぶのを、千尋は身を切る思いで振り切らなければならない。






鳥居のむこうの 石段ぬけて
花嫁御寮が ゆきまする

ちいと通して くだしゃんせ
おふだをおさめに まいります






熾火(おきび)にくゆられて身体の芯から少しずつあたたまっていくような心地よさと。
すくいとるはしから、指の外にこぼれてゆく水の音を惜しむようなやるせなさと。


その両方を抱きしめて千尋が固く目を閉じると。


それと察した龍神に、もう一度懐深く包み込まれ。
少女は息をつめて、その抱擁に身を沈めた。






ぼうやの ねえやは 数えで十五
金襴緞子(きんらんどんす)の 帯しめて


往きは美(よ)い美い 帰りは難(こわ)い
こわいながらも とおりゃんせ とおりゃんせ







「ハク」

「うん」

「わたしは、大丈夫」

「・・・・・」

「覚悟は、できてる」

「千尋」

「かみさまを好きになったときから、覚悟は、できてるもん」


少女は龍神の背に回した両腕に、しっかりと力を込めなおす。



「だから、大丈夫」





次の瞬間、いきなり目の前が白一色になった。





「え? あっ、ハクっ!?」



青年がその身を本来の姿に変えたのだ。
真珠色の身体をしなやかに空へと伸ばす巨大な龍の背に、人間の少女は軽々とその身を捉えられた。









♪この壁紙は薫風館さまよりいただきました。♪



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