龍神の周りに渦をなして沸き起こる上昇気流。
空へとうねる大きな空気の流れを取り込んで、龍が飛翔の体勢を取ったとき、千尋が唐突に叫んだ。
「あ!待って! ちょっと待って、ハク!」
今にも飛びたたんとする白龍の背で、千尋は懸命に叫ぶ。
「だめ! あのっ、ハク・・・っ!」
聞く耳持たぬと言わんばかりの龍神。
--------今さら里心がついたでもなかろうに。
・・・帰してと言われてももはや応じるつもりもないが。
「違うの!! お母さんが持たせてくれた、七夕飾り・・・っ!!」
龍は、はた、と少女が指し示す方向に視線を移す。
自分が舞い起こした追い風にあおられて、か細い笹飾りはぼろ屑のように吹き飛ばされ、川の中ほどに吸い込まれようとしていた。
「持っていくの! わたしの、大事な嫁入り道具なの!」
白龍はくいと鎌首をもたげると、せせらぎにきりもまれて浮き沈みする、白い胡蝶飾りのついた笹枝目指して方向転換する。
水面すれすれを低空飛行して、下流へと押し流されていく笹飾りを追いかけると。
さりさりさりりり・・・・・・・・・
龍の身体の周辺にこまかな水の粒がさわだって、それがあざやかな直線を川面に描き。
ちりりるりりり。ちん。しゃん。ちりん。
さざなみだつ水のしずくが触れ合って奏でる楽の響きは。
千尋の意識の深いところで、遠い記憶の糸と共鳴した。
--------ああ、この音・・・・・・・
しゃりしゃり。つうん。ちりりる、りぃん。
--------『水琴窟』の音に似てる。
その透明な楽の音に身を浸していると、すぐ前方に、求める笹飾りが見えた。
「あ!ハク、あそこ!」
心得た、とばかりに加速する龍。
千尋は片手でしっかりと白龍の角を握り締め、もう片方の手を精一杯川面に向かって伸ばすと、ぎり、と身を乗り出した。
「だめ、届かないーー!! もうちょっと、低・・・・ああっ!」
差し出しされた細い指のすぐ先で。
笹枝はくぷんと水面下に飲み込まれた。
--------だめーーーーーーーーーっ!!
千尋の右手が大きく伸ばされて、水中にもぐりこんでゆく笹飾りを掴んだと同時に。
その左手は龍の角からずるりと滑り、少女は川に転落した。
---------千尋!
白龍が顔色を変えて水中へ取って返す。
夜明けが近付き、こちら側の世界とあちら側とを分断するための川は、その役割を終えようとしつつあり、水かさも減っていれば勢いもずっとゆるやかなものになってはきているものの、なにせ千尋は人の子、何があるかわからない。
翡翠のまなこをせわしなくしばたたせて、碧い世界の中で白龍が愛しい少女の姿を探すと。
水中で笹枝を手に、ごめんねぇと照れ笑いを浮かべた千尋が、川上からふわふわ押し流されてきた。
なんとのんきな、水を飲んだらどうするのか、息が続かなくなったらどうするのかと龍は気が気ではなく、水流を押しのけて、わしわしと彼女に近付く。
千尋は水の中でにっこり微笑むと、両手を広げた。
そして、真正面から息せききって寄って来た白い龍の顔を腕の中に包み込んで。
・・・・・こっつん。
その額に、自分の丸いおでこを押し当てた。
瞬間、龍の脳裏になんともなつかしい昔の情景が甦ったが。
こんなことをしている場合ではないと、大慌てで水底を蹴り、空気のある世界へと彼は全力で浮上する。
しゃりりぃいいい・・・ん。
ひときわ鮮やかな音が水面を割り。
花嫁を背に乗せた白龍が、空中に姿を現す。
「ありがとねー、ハク」
彼女の無事を苦笑まじりに確認すると、龍神はぐい、と重力を振り切って風を全身にはらんだ。
そしてそのまま、天高く己が身を解放する。
舞い上がる白龍の身体から、さりさりと音を立てて大小の水の滴がほとばしり。
それらは月の光を浴びて、明け前の淡い夜色の空に、白く優美な弧を描いた。
「うわぁ!! ハク、わたしたち、『虹』をつくってるーーー!!」
自分たちの後方にゆったりと尾をひく白い光の帯に、歓声を上げる少女。
その清楚なきらめきは、西の空低く満月をたたえた中空に、はんなりと映えた。
「ウェディングベールみたい・・・・」
月夜の虹をまとった花嫁は、うっとりとつぶやく。
そのまま高く高く、龍はゆるやかな放物線を描いて天空をよぎる。
はるか下方を見下ろすと、もくもくと白煙をあげる湯屋の煙突がちらりと見えた。
それを遠く見送ると、眼下に広がるのは海だけになり。
薄く裳裾引く月の虹の下、一番列車の警笛が波音混じりに響く。
もう、人の世界とつながる扉となるトンネルがどこにあったのかもわからない。
とおりゃんせ とおりゃんせ
ここはどこの細道じゃ?
「ハク、あのね・・・・・『約束』、覚えてる?」
風切る龍は軽く自分の背を振り返る。
「ずっとずっと昔の。生まれる前の、『約束』」
白龍は目を細める。
「お庭には池を作ってくれるのよね?」
彼はかすかに肯いた。
ぼうや ほらほら 手のなるほうへ
こちらのほそみち とおりゃんせ
「この笹を池のほとりに植えたいんだけど・・・根付くかなぁ」
-----------だいじょうぶ。
「いっぱい飾りを作るから・・・・きれいな水の蝶々を、飛ばしてね?」
-----------いいよ。
鳥居のむこうの 石段ぬけて
花嫁御寮が ゆきまする
「わたし、ハクに似たこどもをたくさん産んで、」
-----------うん?
ちいと通して くだしゃんせ
おふだをおさめに まいります
「笹のたもとで、子守唄を歌うの」
-----------うん。
水平線の向こうから順に、少しずつ海が朝の色を帯びててゆく。
花嫁を飾るしろがね色の月の虹も、あかねの空に淡く溶けはじめ。
そして、空と海との境界線が太陽に押し開かれ、朝一番のまばゆい光がさっと世界に差した時。
白無垢の花嫁衣裳は、海の上で鮮やかなばら色に染まった。
「わあ! 見て見て!『お色直し』ーー!」
夜の虹が消えるほんの一呼吸前、それが一番の美しさを放つ瞬間。
明るさを取り戻した海は、ふたりの姿をくまなく鏡うつしにする。
朝焼けの色をうつした晴れ着を空のまにまにたなびかせ、龍神に嫁入りしてゆく人間の娘の姿は、一幅の錦絵のようだった。
ぼうやの ねえやは 数えで十五
金襴緞子(きんらんどんす)の 帯しめて
錦の手綱(たづな)の お馬に揺られ
轡(くつわ)にちゃぐちゃぐ鈴かざり
----------残念だ。
ぽつりとつぶやかれた龍の言葉に、少女は驚く。
もしかして、こんな美しいものは自分などには似合わないという意味だろうかと、千尋は、ぼろ布同然の浴衣の胸元をぎゅっと握り締めた。
が、続く彼の言葉は少々意外なもので。
----------すまない。
「え?・・えっ?何が?」
似合う似合わないという話ではなかったらしいが、この唐突な謝罪の意味がわからない。
千尋が身を乗り出して彼の表情を伺うと、龍は長い睫毛を口惜しげに伏せていた。
----------ご両親にそなたの花嫁姿をひと目見せて差し上げたいけれど。
「・・・!!・・・」
----------今の私には無理かもしれない。
「ハク・・」
----------すまない。
ぼうやの ねえやは 数えで十五
金襴緞子(きんらんどんす)の 帯しめて
「もう。ハクってば」
千尋は龍のみどりなすたてがみにすっぽり顔を埋めた。
「ハクってば、かみさまのくせに、やさしすぎ」
-----------・・・? そうだろうか?
花嫁御寮は
「そうよ」
千尋は龍の背に顔を埋めたまま、くつくつと肩を震わせて笑う。
なぜ
「・・・やだぁ。嬉しくって、笑い止まらな・・・」
泣くのだろ・・・・・
* * * * * * * * * *
「この小袋と下駄に見覚えは?」
差し出された巾着袋と、鼻緒の切れた片方だけの下駄を前に。
荻野夫妻は言葉を失った。
「袋の中身は財布と携帯電話、ハンカチに・・・」
白手袋の警察官がテーブルの上に並べたものものは、手に取って確認するまでもなく、彼らの娘のものだった。
「最後の目撃者は個人タクシーの運転手です。彼の証言によりますと、千尋さんらしき女性が通称『神隠しの森』の入り口付近で降車したのが昨夜午後七時十五分、その後の足取りは未確認で・・・」
どこか遠い国の言葉の歌のように聞こえる彼らの言葉を、悠子が遮った。
「あの。笹飾りはありませんでしたか」
「は?」
「持たせたんです。このくらいの笹に、蝶や短冊の紙飾りをつけたのを」
「・・・・・笹飾り、ですか」
遺留物が発見された近辺にそれらしきものはなかったという説明を聞いて。
悠子は小さく頷いた。
「・・・・持っていったのね・・・」
「は?」
「いえ、なんでもありません」
未明、人少なな警察署を夫妻が後にすると。
通り雨でも降ったのか、駐車場への砂利道は埃を綺麗に洗い落とされてほどよく湿っていた。
ようよう昇り出した太陽の光はまだ色薄く、目覚めはじめたばかりの地上はしんと静まりかえり。
無言で歩みを進める二人の足音だけが、じゃり、じゃり、と地に沁み込んでゆく。
その清潔感のある音が、一睡もしていない身体には優しく。
夫婦は噛み締めるように、ゆっくりと歩みを進めた。
「ねえ、あなた?」
「どうした」
「私たちの結婚式の日の朝も、こんな夏の雨上がりだったわね」
「そうだったかな」
「そうよ」
一人娘が行方不明という状況の中での会話としては、おおよそふさわしくない話題ではあったのだが。
なぜか明夫は妻を責める気分にはならなかった。
妻の言葉にごく自然に相槌を打ちながら、彼は、意外なほどに落ち着いている自分が不思議だった。
雨上がりの夏の早朝独特の、ひと心地よい気候のためか、あるいは、疲労でものを考える力や感覚が麻痺しているのだろうかとも思ったのだが、なんとなく、しっくりしない。
無論疲れているのは事実なのだが、その感じは、心労憔悴というよりは、何か大きな仕事をやりとげた後の充実感に似ていて。
この奇妙にさっぱりした気分はなんだろう、娘がいなくなったというのに不謹慎な、と思いながら砂利道を踏みしめていると、ふいに隣の悠子が言った。
「私たちの役目は、もう終わったのね」
そう言う妻の横顔は、やつれてはいてもどこかすっきりとしていて美しく。
ああ、そうか、と明夫は納得した。
自分ではどう言葉にすればいいのかわからなかった複雑な感情を、彼女はいとも簡単に口にした。
役目をなしとげた、という感覚に今の気分はなぜかとても近い。
不思議なことだが、妻も同時に同じことを考えていたのか思い、明夫は少し安心した。
足元でじゃり、と濡れた小石が鳴る。
「帰ろうか」
「・・・ええ」
夫妻が車に乗り込もうとしたとき、フェンダーミラーにきらりとひとすじの光が走った。
「え?」
二人が同時に声を上げ、背後を振り返ると。
明け染めの空なかほどに、淡く消え残る白い光の帯がほっそりとかかっていた。
なんだろうと目をこらす彼らの視界の中で、それは少女がほんのり頬を染めるように、やわらかな桃色に色づいていったかと思うと。
そのしなやかな残像だけを残し、またたく間に朝の日差しの中に溶けて見えなくなった。
「・・・・・飛行機雲か?」
「こんなとこ、航路じゃないはずだし・・・虹だったんじゃない?」
「こんな時間に珍しいな」
「綺麗だったわね」
「ああ」
エンジンをスタートさせながら。
明夫は助手席の妻に声をかけた。
「あのなぁ、悠子」
「なに?」
「千尋は、もう帰ってこないんじゃないかな」
「・・・・・」
「あ!いや、もちろん、無事でいてくれてると信じてるんだが」
悠子はいったん睫毛を伏せてから、そっとさきほどの虹の方角に目をやった。
「そうね。私も、帰ってこないと思う」
「・・・・そうか」
その割にはずいぶん落ち着いて会話をしているものだと、彼らは共に思った。
「娘ってね。そんなものかもしれない」
「・・・なんだ? おまえ、千尋の行く先知ってるみたいな口ぶりじゃないか」
悠子は少し声を上げてふふふと笑った。
「知らないわよ。でも」
「でも?」
「なんとなく、あの子は幸せでいるような気がする」
「そうか」
走り始めた車の前方に、夏色に明ける空が広がる。
車の加速に寄り添うように、その色合いはどんどんと明るさを増し。
ギアがトップに入ったと同時に、フロントガラスに差し込む陽射しは、一気に真夏の直線的な力を帯びたものになった。
雨上がりの路面が光ってまぶしいので、明夫はハンドルを握りながらポケットをごそごそさせて、サングラスを探す。
「ここよ」
夫の行動を察した悠子が、笑いながらサンシェードにはさみっぱなしになっているそれを取って夫に手渡すと、彼はその絶妙なタイミングに苦笑いした。
「実は俺も、・・・千尋は幸せなんじゃないかって気がする」
「気が合うわね」
「当然だろう。夫婦なんだから」
「夫婦、・・・・ね」
彼らが走り去った道の小脇には濃い夏草が生い茂っていた。
次第に気温が高まりつつあるそこでは、むせるような草いきれの中、羽化したばかりの白い胡蝶が一羽、羽根を広げようとしていた。
夏の陽射しをその両の翼いっぱいに受け止め、蝶はゆっくり二、三度羽ばたいて。
そして、何度かの試行錯誤ののち、ふわりと空に舞い上がる。
生まれて初めて、自力で空中に歩みを進めた若い胡蝶は、ひらひらとまだいくぶん頼りなげな羽つきで生まれ育った野の上を数回旋回したあと。
あざやかな白金の燐粉をさりさりと散り撒きながら、それはひときわ高く夏空の青みに駆け上がり、新しい世界へと飛び立って行った。
とおりゃんせ とおりゃんせ
ここはどこの細道じゃ
龍神さまの、細道じゃ
ちいと通して くだしゃんせ
花嫁御寮が ゆきまする
錦の手綱(たづな)の お馬に揺られ
轡(くつわ)にちゃぐちゃぐ鈴かざり
金襴緞子(きんらんどんす)の 帯しめて
<<< 「胡蝶」 終わり >>>