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「お祖父さま、お祖父さまー、起きてくださいませ、お祖父さまー!」 まだ、ほんに早朝(つとめて)の。 ようようしらじらと御簾越しに朝のお天道様の光が差し始めたかというところ。 もちろん、関白さまはまだまだお起きになられるような刻限ではございませぬ。 このような無礼、他の者でありましたら、とうの昔に切って捨てられようというものでありますが。 女房方がはらはらと見守る中、 御寝所にすたすたと上がりこみ、ゆさゆさお起こし申し上げておられるのは、かの千の姫宮にございます。 千の大臣(おとど)が目に入れても痛くないほどにかしづいておられる、 かわゆいかわゆい御孫娘さま。 「おお? どうしたのじゃ、姫。今朝はいやに早起きではないか」 白髪混じりの眉尻を下げて、ゆったりとお起きになられる関白殿。 「あのね、あのね、この前姫に琵琶を少しお教えくださりましたでしょう? あの曲を、最後まで弾きたいの。ねえ、教えてくださいませ、お祖父さま」 愛らしくおねだりなさる姫のちいさな御手の中には。 美しい撥(ばち)が握り締められておりました。 琥珀で作られた、小ぶりな琵琶の撥。 握り手のところに、真珠色の螺鈿細工で龍の形がほどこされ。 龍の目の部分には彩り鮮やかな翡翠が象嵌されておりました。 「ほぉ・・。姫よ、良い品であられるな。父帝からの賜り物かな」 「あ・・、その、、、は、はい、、、、、、」 「どれ、じいにも見せてくだされ」 手の小さなお方が握られても弾きにくくないよう、全体に華奢で薄作りの、品のよい仕上がりで。 いかにも女性向きの、心配りこまやかな贈物。 関白さまが手にお取りになりまして、 御簾越しに差し入る朝の日にそれを透かしますと。 飴色の琥珀に包まれた白い龍はきらきらと輝き。 貝細工で丁寧に重ね上げられた鱗いちまいちまいが虹色に光をはなち。 それが壁に几帳(きちょう)に天井に、あやなる光の万華鏡をなすのでございました。 「よい品を頂いたので、俄然、お稽古をする気になられたというわけじゃな。よしよし、では、朝餉のあとにでも教えて差し上げようほどに、な」 「はい! では、すぐにでも朝餉にいたしましょう? ね?」 姫はごつごつと皺ぶいた関白さまのお手をうんうん引っ張って、そのまま御寝所から連れ出してしまいそうな勢いにて。 大臣はやれやれとお笑いになりながら、お寝みどころから出ておいでになりました。 関白さまは琵琶の名手であられます。 時折、姫宮にも手ほどきなどされていらしったのですが。 こんなにも熱心に教えを乞う姫の姿は初めてにございます。 音曲に長けるのはよきこと、と、目を細めて孫娘を見やるのでありました。 * * * * * 実は。 その美しき琵琶の撥は。 父帝さまからの贈物ではございませなんだ。 目元涼しげな、不思議な若君にお会いになったその夜、千の姫宮さまは寝所に入られても、なかなかお寝みになれませず。 誰なのだろう、あのお方は、いったい、、、とあれこれ思い巡らせつつ、ほんのひとときうとうととなさったのでありますが。 翌朝、いつもよりずっと早くに目が覚めておしまいになられまして。 冴えた頭で横になっているのはかえって辛いものにございます。 姫宮はそっとお部屋を抜け出されて、まだあけそめぬ庭へ降り、なんとはなしに離れの茶室へと足をおすすめに。 と。 「あら・・・」 茶室の蹲裾(つくばい)のかたわらに。 青と白の竜胆(りんどう)の花を一輪ずつ、細い唐草で束ねたものが、たちばな色の絹袋に添えられて、そっと置かれてございました。 赤茶けた庭の中、そこだけ生き生きと、彩りみずみずしく。 姫は駆け寄ってそれを拾い上げますと、ちらとあたりを伺うようにして、、、それから、こけつまろびつ小走りでお部屋に戻られました。 ・・・・・あのお方からのもの! 間違いない! 添えられた竜胆(りんどう)の、深い青と涼しげな白。 それはまさしく、夕べの若君の御装束の色合わせそのものでございましたし。 たしか、青い下襲ねには竜胆の縫い取りが、そして、白い童狩衣は唐草模様の透かし模様が織り込まれてありました。 そして、姫が身につけていましたのは、たちばな色の袙(あこめ)。 この絹袋とよく似た色のものでございました。 竜胆には小さなお文も結ばれてありまして。 それをいそいそと開こうとなされた姫宮の。 瞳に、ふと、かすかな翳りが。 わたし。昨日は、ひどい格好をしていた・・・・ 夕べの袙(あこめ)はほんとうに普段着で。 代々関白家に伝わる、よく言えば由緒ある・・・悪く言えばさんざに着古したものにございました。 ときは武士(もののふ)の世、関白家といえども、そうは贅沢の許されぬご時世でありましたから。 多少年季の入ったものでも、みな、大切にお召しになっていたものでございます。 また、宮中でもないという気安さから、衣に香を焚きしめるということもしてはおられませなんだ。 あの若君と寄り添って水琴窟の音を愛でていたとき・・・小汚い汗臭い娘だなどと思われていたらどうしようと、今さらながら消え入るように心恥ずかしく。 あの方は、あんなにお美しくされていらしったのに・・・・。 千の姫宮はかたわらの鏡筥(かがみばこ)から鏡を取り出され、漆塗りの鏡台に載せられました。 息をかけて、袖で鏡をすこうし磨かれますと、そこに映るのは、まるい御顔につぶらな瞳。 小さな御鼻、赤みのかかったお髪(ぐし)。 可愛い、愛嬌がある、とはよく言われるのでございますが、宮廷一の美姫との誉れ高き母御さまとはあまり・・・似てはいないと思われ。 さらにそのうえ、ゆうべはぐしぐしと泣きはらして、鼻など醜く真っ赤になっていたのではと思いますと、姫はまた、胸つぶるる思いで。 ためいきを落としつつ、鏡を筥におしまいになり。 気を取り直して、そのたちばな色の絹袋を開けますと、中からぽとりと・・・・ちょうど姫の掌(てのひら)ほどの大きさの、飴色のものが、畳の上に。 「まあ・・・・わたしへの、贈り物?」 それが・・・・ あの、琥珀の琵琶の撥でございました。 竜胆の花に小さく結ばれたお文を開きますと。 松葉を梳(す)き込んだ薄様の紙に、流れるような御手で、 『ねの望月(もちづき)』 とだけ、したためられてございました。 ええと。紙に松葉が梳きこんであるから、 これは、『今宵、待つ』という意味よね? 「ねのもちづき」・・・だから、 子(ね)の刻(=午前0時ごろ)、満月が見える頃に会おう、ということなのだわ。 千の姫ははたと立ち上がられますと、お部屋の隅の衣装箱の中を覗き込まれ。 あれでもない、これでもない、とご衣装を-----明るい月の光の下で映えそうな色目のものがないものかと------お探しに。 こちらはもう襟元の色が悪くなっているし。 これは新しいものだけど、夏の色だし。 この紋様は好きだけど、もう、着丈が少しきつい。 ・・・袖口から手首など見えては恥ずかしい。 楓(かえで)に紅葉に銀杏に櫟(くぬぎ)。 千々に迷う心は、秋の海辺に降り散る木の葉。 衣の数だけつのる思い。 絹の色だけ乱れる想い。 どうしようどうしようと、着物の山の中に埋もれていらっしゃいますと。 「姫さま? もうお目覚めにございますか?」 次の間から、乳母(めのと)の声が。 「あ、、、、ええと、はい、、暑かったので目がさめてしまって、、、」 姫がおろおろとお返事なさいますと、乳母は若い女房に指示して洗面道具の準備などととのえさせる気配。 そのまま、姫のお部屋の中を覗かれて、目をまんまるに。 「まあ。いったいどうなされました?」 紫苑に山吹、萌黄にくちなし。 朽葉に紅梅、縹(はなだ)に鬱金(うこん)。 *縹(はなだ):藍に近い明るい青 *鬱金(うこん):鮮やかな黄色 部屋の中はとりどりの衣の海になっておりまして。 その波間に隠れるように、小さな姫がきまり悪げに座ってらっしゃいました。 「お召し物のおしたくなど、わたしどもがいたしましょうものを・・・いったい何をお探しにございます?」 「あの、今日はご法要があるから、お客さまが大勢見えるでしょう? だから、その、、、そう、お父帝さまからいただいた新しい小袿(こうちき)を着たいと思って、探しているの」 若君からのお文と贈物をお袖に隠しながら、しどろもどろお答えになる、千の姫。 「ああ、あのご衣裳でしたら、こちらに。」 さすがに、姫の身の回りのことならばすべて心得ている、乳母。 手際よく散らかった着物をまとめ、姫の言う小袿を差し出して。 「こちらでございましょう?」 萩重ねの小袿。 今の季節にちょうどよい、秋の色。 満月の夜に似つかわしげな、蘇芳に青。 かなり赤に近い、明るい蘇芳は若い姫宮によく映えると女房たちも言っておりましたし。 裏重ねの青は、濃い緑がかっていて、菱の縫い取りも今様の流行りのもので。 ああよかった。これで良いわ・・・・。 ちょうどよい衣装が見つかって、ほっとする千の姫宮。 「あの。香を。よく、焚きしめておいて。」 「はい? ええ、もちろんですとも。日が落ちるころにでも、いたしましょうね。」 「だめ。今からでないと。」 「は?」 「ええと、、、新しい衣なのだもの。糊の匂いが抜けないでしょう?」 「はあ・・・・さようでございますね・・・・??・・・」 衣装が決まってほっとしたのも束の間。 『ねのもちづき』・・・・・ はたと姫は、お文のことばの、もうひとつの意味にお気づきになり、またもや、わたわたと大慌てに・・・・。 『ね』は、『音』のことでもあるんだわ! 『音の望月』、しかも琵琶の撥の贈り物、ときますれば。 今宵は満月の下、音曲を楽しもうというお誘いに他なりませぬ。 どうしよう!? わたし、ちゃんと弾けるもの、まだひとつもないというのに!! ・・・・ということで。 朝の早くから、お祖父さまのもとに、琵琶をおしえてくださいませ、とのおねだりに走ることになったのでございました。 * * * * * |