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しのしのしの。 しのしのしのしの・・・・・・・。 都に打ち続きました雷まじりの雨は。 今朝方、ようやっと、降りが細うなってまいりました。 木々のこずえをあおめつつ。 やわらかに町々をうるおして。 花の色も。 軒端のふちも。 人も。けものも。 吐息さえも。 やっと、ひと心地ついたといいましょうか。 なにやらしっとりと、落ち着いたたたずまいを取り戻しつつありました。 やはり、この国は、水の国にございます。 からりと乾いたなりでいますよりも。 ほんのり、湿り気をふくんでいるくらいのほうが、 人も、花木も、美しゅうございます。 しなやかな雨に霞む庭をぼんやりながめながら。 千の姫宮は、あの、夢のようなひとときを思い出しておられました。 「千の姫がわたしの北の方になってくれるというなら。
三日三晩、雨を降らせてあげる」 姫が声もなく小さく肯きなさいますと。 「約束だよ」 見目うるわしい若君はひざまづき、琵琶の撥を握ったままの姫の御手を取られて、そう、おっしゃられたのでございました。 水神さまの北の方になるということは。 人柱として、この身を奉げよ、ということかしら。 雨の中にほのかに浮かぶまぼろし。 どこかの・・・池か、川か、湖かの水際に立ち、そこに入水する我が身。 でも、それはちっとも恐ろしくなどないように思えるのが不思議にございます。 あたかも、水底(みなそこ)には、美しい御殿があり、 そこで、あの若君が微笑んで自分を待ってくださっているように思えて。 むしろ進んで、青く深い世界に沈んでゆきたいと思ってしまう小さな姫宮でありました。 琥珀の撥を手に、濡れた庭をうっとりと眺めておいでのまに。 ・・・・・いつしか雨は霧のように薄くなり。 やがて雲間から、透明な秋の陽がしらしらと差しはじめてまいりました。 * * * * * さて。 京の都、大内裏の南側に。 『神泉苑』というところがございます。 京の都の水を司り、数あまたある水の神事を執り行う神聖なる水の要所。 これは、桓武の帝が京に都をお遷(うつ)しになられたとき、造営されましたもので。 美しい庭園をゆったりと抱えた、心安らぐ水苑の館。 手付かずの森かと見まごう、緑豊かな御庭の中ほどに。 清らかな水がこんこんと湧き出る泉と、その水をたわわにたたえる碧い池が横たわり。 絶えることなく耳に沁みいる水音が、なんとも心地よく。 なんでも、ものの言われによりますと、この清泉は、雨をあやつる龍神さまが水を飲むために天から降りて来られる龍口水なのだそうにございます。 それゆえにここだけは、どんなに干枯れた日が続きましても、決して涸れることはないのだとか。 この苑をお守りされているのは、鴨(かも)氏の一族の方々にて。 水にまつわる祭事などは、この方々が取り仕切っておられます。 水にゆかり深き、この苑の館にゆるゆると向かう、女車が。 降り続いた雨があがり。 秋の日も、静かに傾きかけたころあいに。 ほどよくおしめりを残した雨上がりの道は、無粋な埃を巻き上げることもなく。 牛は時折、もおお、と、のどかな声などあげつつ、しずしずと高貴な女人がたを引いてゆきまする。 お乗りになっていらっしゃいますのは。 千の姫宮はじめ、お母君さまやその女房がた。 雨でのびのびになっておりました、御所へのお戻りの道中なのでありますが。 あいにく、関白さまのお屋敷から御所へは、方角が悪うございますので、直接そちらへ向かうことができませぬ。 それゆえ、今宵は神泉苑に、方違え(かたたがえ)にゆかれるのでございます。 ※方違え(かたたがえ):目的地が陰陽道でいうところの、「凶方角」に あるとき、直接そちらに向かうのを避けるため、前日に別の 場所に一泊し、そこから方角を変えて目的地へ行くこと。 これは・・・・水神さまの、おみちびき・・・? 千の姫は、あの想夫恋の夜以来、若君のお姿を見ることはなかったのでありますが。 方違えに向かう先が、龍神さまに縁(えにし)の深い、『神泉苑』であることに。 何かしら、ひそかに胸ときめくような思いを抱いていらしったのでございます。 もしかして、神泉苑の水の庭に。 あの美しい龍神さまが、わたしを召しに降りてこられるのかしら・・・。 などと、つらつら考えるうち、牛車はほどなく神泉苑に到着いたします。 「もうし。御息所(みやすんどころ)さま、姫宮さまのお着きにございます」 *御息所:帝の妃やそのお子を産んだ女性のこと
前払いの者のよく通る言上に、白木の門がきいいと開きまして。 身なり清げに整えた若者が出迎えて、丁寧にご挨拶を。 「お立ち寄り、光栄に存じます。まずは、ごゆるりとおくつろぎのほどを」 その、ことのほか涼しげなお声に。 千の姫宮は、はっとして、顔を上げられました。 * * * 雨上がりの月夜はおもむき深く。 またたく星影も静かに。 清泉のほとりで吹き澄まされる、想夫恋。 高く、低く。 せつせつと水の館に沁みわたる、ひと想う心。 その笛の音に引き寄せられるかのように。 宵にまぎれて、寝殿から忍んでくる小さな人影。 背中から近付く、その遠慮がちな足音に気づいて止まる笛のおと。 「嘘をつくつもりはなかったんだよ。姫がわたしのことを頭から水の神だと思い込んでいるようだったから」 笛をくちびるから放して、振り向く若君の微笑。 に、ことばもなく、・・・・・蒼い水のほとりで目を伏せる、千の姫。 こころなしか顔色を失った頬に。 水面をすべった月の光が、青く白く、綺麗な水模様を映し出し。 水のおもてがゆらゆらとその形を変えるたび、白い顔にほのめく水模様も、揺れて。 青い水の光に照らし出された千の姫は、いくぶん大人びて見えました。 「悪かったよ。子供だと思ってからかったとか、そういうのでは、ないんだ」 「・・・・・」 「わたしが、ただの人だったら、嫌?」 「・・・・・・・」 宵闇の水辺にともされた松明(たいまつ)に吸い寄せられて、集まり寄る夜の蝶。 そのうすい羽からこぼれる燐粉は、炎のいろをうつして金色に染まり。 金の粉々はちりちりと光りつつ、あとからあとから、涙のように散り落ちて。 それを受け止める、やわらかな水面に。 音もなく、のみこまれてゆくのでありました。 「姫は、ただ人(びと)の北の方には、なってはくれないの?」 心ひそかにお慕いしておりました『水神さま』を。 夕刻、方違えのために立ち寄った神泉苑のお館にて、本当に『お見かけ』した時の。 姫の驚きはいかばかりでありましたでしょう。 ・・・・どうして、ここにあの方が?! 御簾内の上座に通されて、館のあるじの挨拶を受けているあいだじゅう。 そのあるじどののかたわらに、悪戯っぽい微笑を浮かべて控えていらっしゃる若君に、姫の目は釘付けになってらっしゃいまして。 「あの。あるじさまの左に控えておいでの若いお方は、どなた?」 とうとう姫は、小声で隣の乳母(めのと)にお尋ねに。 「まあ、姫さま、ご存知なかったのでございますか? この鴨のお館の、末の若君にあられますよ」 「鴨のご一族の・・・・末の、若君?」 「ええ、ついこの間から、童殿上(わらわてんじょう)もされておいでですし、お母君さまのお局にも、何度かお顔を出されてますのに」 *童殿上:貴族の子弟が宮中の作法見習のために昇殿をゆるされ、殿上に奉仕すること。
「・・・・人間、なの?」 「は?」 「あ、いえ、、その、、、、あまりにお綺麗なかただから、ひとじゃないみたいで」 乳母は、ほほ、と微笑みながら。 「帝の血をお引きになるお方ですから。・・・姫さまのお従兄君に当たられるのですよ」 「い、いとこ・・・?」 千の姫宮の父帝さまには、若くして亡くなられた同腹の弟君がいらっしゃりました。 姫の叔父君に当たられるそのお方が、生前、鴨氏の娘御のもとにお通いになられてお生まれになったのが、---------かの若君だと、めのとは申します。 「まあ・・・・」 「姫さまが関白さまのお屋敷にお実家(さと)下がりなされている間など、毎日のように、父帝さまから母君さまへのお文使いに来られてましたのに。一度もお見かけになりませんでしたか」 「お母さまへの、お文を届けに・・・来られていたの・・・」 「ええ。お美しい上に、なかなかに心栄えよき若君でいらっしゃいますよ」 「・・・・・そう・・・・・」 ぽちゃん。 池の魚が跳ねて。 そこから、まるい水紋が広がって。 水面(みなも)に影を落とす月の姿が、さわさわと波立って。 「どうやって、水琴窟を鳴らせてくれたの?」 青い水辺。 やっと姫が口を開いてくれたのにほっとしながら。 若君はお答えになります。 「鴨は水の一族だから。ときどき、わたしのように、水の扱いに長けた者が生まれるんだ」 「雨を降らせたのも、それと同じように?」 「まさか。わたしは神ではないのだから。・・・・雨が近いのが、わかっただけだよ」 「・・・・わたしは、本気だったのに」 * * * * * ※管理人おことわり(言い訳^^;): 京都の神泉苑を守ってらっしゃるのは、現在も鴨氏の一族の方々です。ここにお名前をお借りしてしまいましたが、あくまでもこれはフィクションですので、 実在の鴨家の方々とは何の関係もございません。 もちろん、鴨家に水にまつわる特殊能力を持つ人間が生まれるなど、管理人の勝手な創作によるものですので、ご了承くださいませ。。。 |