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<<< 胡蝶 (9) >>> 

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・・・・・わたしは、本気だったのに。





  わが身と引き換えに、町に雨を降らせてもらえるのだと。

  自分のような、何の取り柄もない娘でも。
  ひとの役に立てるのだと思うと。

  嬉しかった。







  ・・・・・ううん、違う・・・・・






  わたしは、諸手をあげて、喜んだのだ。


  若くてお美しい水神さまに見初められたと思って、有頂天になって。



  そして。



  町を日照りから救うために、龍神さまの生贄になるというのなら。
  これ以上の大義名分はないと。

  東国に嫁がなくとも、・・・・どこにも波風は立たないだろうと。




  そんなふうに、都合よく考えたから。
  ばちがあたった。






姫がすっかり萎れておしまいになったので。
若君はあわてて、姫の真正面に向き直って、真剣におっしゃいました。



「姫は年が明けたら、裳着(もぎ)の式をするのだよね」

「・・・・」

「わたしも、たぶん同じ頃に元服する。そうしたら、ほんとうに姫に北の方となって欲しい」




  ああ。この方はご存知ないのだ・・・・。
  なぜ、わたしが人より年若く裳を着けることになったのかを。




姫が力なくおくびを横に振りなさいますと。



「わかっているよ。鴨の家と、関白さまのところとでは、家筋が違う。でも、わたしは姫が欲しい」

「・・・・・」

「他所に通いどころなど、決してつくらない。」

「・・・・」

「姫は・・わたしのことが、嫌い?」

千の姫は、もういちど、おくびを横に。



「若いから、まだそういうことが考えられない、ということなら待つけれど。もたもたしている間に、誰かに・・・・もっと、大人の男に攫われそうで、怖い」


若君がまごころを込めてこんこんと語られるのが、姫宮にはかえって辛く。



「あなたは・・・・わたしのことを、なにもご存知ないのに」

「そんなことは、ないよ」



月明かりと水明かりに照らされながら。
若君は、ゆっくりとお話を始められました。



* * * * *



「おや。今宵の歌合せに使う紙の用意は、たったのこれだけなのか?」
帝のお側に仕える若い公達(きんだち)のお一人が、鴨の若君に、これ見よがしにおっしゃいました。

「あ。もっといるのでしょうか。」
紙のご用意をおおせつかった鴨の若君はあわててお尋ねに。

「当り前だ。それに、なんだ? どれも同じような白い紙ばかりではないか。興ざめな」

「はあ・・・」

「もういちど、文の司へ行って参れ。」

「あの。どのような紙を調達してくればよろしいのでしょう」

「そのようなこと、自分で考えよ。気の利かぬ童だ」

「・・・・申し訳ございません・・・」



まだ、若君が童殿上(わらわてんじょう)のおつとめを、始められましたばかりのころ。
どうしても、不慣れな事、不案内な事は多うございます。

しっかりとした後ろ盾をお持ちのお方でしたら、このような意地悪を受けることもないのでございましょうが。


お父君は帝の弟君であらせられるとはいえ、もうお亡くなりでございますし、母君のご実家も宮廷で幅を利かせているようなお家筋ではありませぬ。


なまじっか、御顔など美しくいらっしゃるため、女房がたにはなにかと可愛がられていることも、どうやら先達の童殿上人や若い公達方には面白くないようにございまして。



もともと、気詰まりなきまりごとに囲まれているよりも、緑美しい水の館で、木々や水を愛でていることがお好きでいらしった鴨の若君にとって、このような中でのおつとめは、なかなか馴染まないものでありました。




下唇を噛みながらかしこまる若君の前を、若い公達方は楽しげに噂話などしながら通りすぎてゆかれます。


「そうそう、帝の四の姫宮の話を聞かれたか?」

「四の・・・ああ、千の姫宮と呼ばれておいでの姫君のことだな」

「来年にも、裳着をされるそうだ」

「ほお・・・・確か、まだ十ほどではなかったかな」

「うむ、だがな、宮廷一の美姫とされる女御さまの御腹の姫宮だ。直接お見かけしたことはないが、さぞお美しいのではあるまいか」

「ふうむ。では、早めに文や歌など贈って様子伺いなどしておくほうがよいかな。うまくゆけば、帝とも関白さまとも渡りをつけられる」

「おいおい。それなら、私が先だ」



ほっほと笑い声を立てながら遠ざかる公達の会話に。
若君ははらわたの煮えくりかえるような思いにございました。



   千の姫は。わたしが、見初めた・・・!



若君にとって、かの姫が下卑た噂話の的になるなど、我慢ならぬことにございました。



* * *


「え? あなたは、わたしのことを、知っていたの?」



赤くなったり青くなったりされながら、ご自分の話を聞かれていました千の姫は。
ここで、思わず聞き返されました。



「ずっと昔から・・・というわけではないけれど。姫がわたしのことを知るよりも前から、わたしは姫のことを知っていたよ」





宮中奥深くにいるときには。
高貴な女人は、めったなことでは、身内以外の殿方の目に触れることなどないはずにございます。

御簾内で、大切にかしずかれて、・・・・うかつに人に姿を見られるなど、とんでもないこと、とされておりますのに。




   ええと。ときどきこっそりお庭に降りたりしていたからかしら・・・




姫はどちらかというと、おっとりと御簾の内にお隠れになっているのは、お好きではありませんでしたから。

時折、自分で庭の花を摘みに出たり、猫をおいかけて縁側に出たりして、乳母にお小言などいただくのでありました。




若君は、ふふ、と笑って。


「わたしは、まだ元服前だから。女房たちが、わりに気安く中庭や御簾近くまで入らせてくれたりしてね」




   やだ。どんなはしたないところを見られたのかしら・・・。



頬を赤らめてちぢこまる姫に。
若君はお話を続けられました。


「琵琶だよ」

「琵琶?」

「お実家(さと)下がりの少し前だったかな。御所の局(つぼね)で、関白さまに、想夫恋を教わっていたね」

「・・・・・あ!」



* * * * *



関白さまは、御孫娘かわゆさに。
御所に参内なさった折には、かならず、姫のお過ごしのお部屋を覗かれます。



鴨の若君が帝の御使いで、千の姫のお母君の局に花をお届けになられたとき。
花を活けてある甕が重いので、と女房方に頼まれて、御簾うちまで持ち入られたことがございました。


むろん、童姿の身だからといって、女人の局に長居するわけにはまいりませんから、すぐに退出されようとされたのですが。




幾重にも置かれた几帳の奥から、ぽろろ、ぽろろん、、とみやびな楽琵琶(がくびわ)の音が漏れ聞こえてまいりまして。




   ああ。関白さまであろう。あの方は琵琶の名手であられるから。




よいお手なので、つい、そのまま聞き惚れていらっしゃると。


関白さまの、よく響く深い音色がひとふし鳴ったあと、それを倣(なら)ってたどたどしい撥さばきで同じふしをたどられる、別のお方のお手が、続きましてございます。


ぽろ・・ん、ぱらん・・と、頼りなげな音なのですが。
懸命に、関白さまのお手についていこうとされるのが聞いていて微笑ましく。

そっと物陰から奥をうかがいますと。
関白さまの唱歌(しょうが)にあわせて、ぽつぽつと不慣れなご様子で弾いておられるのは、年若い姫君のように思われます。
※唱歌(しょうが):雅楽の旋律を声でうたうこと。


一(いち)〜、乙(おつ)〜、などと、可愛らしいお声を出して譜をたどりながら、
まだまだつたないお手で、撥をさばいてらっしゃいまして。
※一(いち)、乙(おつ):楽琵琶はギターのコード奏法のような
弾き方をします。一、乙などというのは、
そのコードネームのようなものです。


几帳の端から、琵琶の棹をささえる明るい色合いの袖口が、ちら、とこぼれ見えた時。
若君は、思わず柱の影に身をおかくしに。

でも、やっぱりそちらが気になってしかたがないので。
そおっとまた身を乗り出して、部屋の奥の、几帳の向こうの方々のご様子を覗いていらっしゃいました。




   きっと。千の姫宮と呼ばれていらっしゃるお方だろう。




几帳でさえぎられているので、直接姫のお姿を見ることはかないませぬが。

明るい夏の日差しが、几帳の薄布を通して、小柄な姫の後影のかたちをほんのり透かせます。




「どうして? どうして、お祖父さまと同じ音が出ないの?」

小さげなおゆびで、懸命に琵琶の柱(じゅう)を押さえて、撥を鳴らされるのですが。
※柱(じゅう):琵琶の棹のところについている、弦を押さえる位地を
示すもの。ギターでいうフレットのようなものです。


いかんせん、まだお手の力が弱いものでございますから。
柱を充分に押さえ込むことができず、音が濁るのでございましょう。


その、おつむを傾げられる後ろ姿がほんにいとけなく。
若君は、つい、また物陰から身を乗り出してしまうのでした。


風が几帳に垂らされた薄布をさわさわと揺らすのにつれて、柱をおさえる姫のももいろの指先や、肩口にこぼれかかるつややかな御髪(おぐし)などが、ちらりちらりと垣間見え。



   ああ、いま少し。いま少し風が吹けば、あの愛らしい横顔が見えように。




お弾きになっているのは、想夫恋。




ひとを恋うこころを歌いあげるには、まだまだほど遠い、幼い弾き方ではあられましたが。

その愛らしいお稽古の様子は、すっかり若君の心を捉えてしまい。



姫がつまずきなさるたびに、若君は、ああ、そこはあの音、次はこうすれば、、、と、やきもきするような思いで、、、、できることなら、ご自分が姫の手を取って教えて差し上げたいようなまどろっこしい思いで、、、、そこに佇んでいらっしゃいました。



「あっ。また間違えてしまったわ」

姫が華奢なお肩を、甘えるようにすくませて、うふふっ、と照れ隠しの笑い声をお漏らしになり。
几帳ごしに、ふっくらとやわらかそうなまるい頬のかたちが、ほんのりと透けて見え。


若君がまばたきもできずにいた、そのとき。



いたずらな辻風がびゅん、と吹き、几帳も御簾も、いちどきにざあ、と巻き上げたものですから。



飾り気なくくつろいで、ころころとお笑いになっている姫宮の、まるいお口元や、つぶらなお目や、なめらかな額などが、あますところなく若君の視界に飛び込んできたのでございます。





一瞬のことでございましたが。





鴨の若君の心は。
無邪気な千の姫宮に鷲掴みにされておしまいになりました。



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♪この壁紙は薫風館さまよりいただきました。♪



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