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<<< 折鶴 >>> 第九夜
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ウェイターが、お冷やのお代わりを注ぎに来てくれた。
そういえば。
自分のティーカップと少女のグラスが空になってから、ずいぶん時間が経ってしまった。
あかね色だった空も、次第に紫がかかってきている。
季節は秋の入り口。
陽が落ちればすぐに、冷え込む。
自分はともかく、ひらひらとした薄いドレス一枚の彼女には、肌寒くなるはず。
「荻野さん。そろそろ・・・場所変えようか」
「・・・・・・。」
「荻野さん?」
少女が黙ったまま動こうとしないので、琥珀は不思議に思って彼女の顔を覗き込んだ。
「どうしたの?」
「・・・・あのね・・・・」
「何」
「わたし、本名も『荻野』だから、そう呼ばれるの、普通なんだけどね・・・」
「うん」
「・・・・・」
「どうかした?」
「・・・ねえ、琥珀くんは普段なんて呼ばれてるの? たとえば、おうちの人とかに」
「え。」
・・・・・・言えるか。そんなモン。
* * * * * * * * * *
「平気さ。『本当の名』を取り戻したから」
「またどこかで会える?」
「うん。きっと。さあ行きな。振り向かないで」
つないだ手が少しずつほどけて。
とん、と石段を降りる少女。
少女は、歩き出した。
緑なす、草原へと。
そして少年は。
ひとつ深呼吸をすると、くるりと彼女の後姿に背を向け、歩き出す。
昼の陽の下ではやけに安っぽく見えてしまう、うすっぺらな繁華街へと。
少女は、小走りに、急ぐ。
造り損なった小川の跡のような、足場の悪い道を。
少年は、進む。
湯屋へと続く、乾いた石畳を。
二人の距離は、次第に広がって。
もう、互いの靴音も、届かない。
・・・・そなたは自分の力で、帰るべき道を開いたのだ。だから。私も。
手に入れる。自分の力で。・・・・そなたへと続く道を。
進む。
たがいに、反対の方向へ。
風が。
ふたりの背を、押す。
光が。
それぞれの、行く手を照らす。
そして。
トンネルの前で。
少女は、一瞬立ち止まる。
太鼓橋の前で。
少年は、一瞬立ち止まる。
ほんの一瞬。二人は同時に。
来た道を振り返ろうとして。
・・・・・思いとどまる。
これで、おわかれじゃないんだもの。だいじょうぶ。
振り返らない。
前に進む。
必ず、行く。どんな試練が待っていようとも。だから今は。
振り返らない。
前に進む。
トンネルに足を踏み入れる、少女。
さよならじゃない。
トンネルの先に待ち受けているのは。
あなたにまた会うための、新しい場所。
太鼓橋に一歩踏み出す、少年。
そなたから、去るのではない。
私の前にあるのは。
そなたへとつながる道。
---わたしたちの行く末は。ひとつにつながって、いるよね。---
耳に懐かしい主題歌が画面にそっと寄り添う。
歌声に包まれながら。
ふたりは、しっかりとした足取りで。
それぞれの行くべき方向へと、進む。
少しだけ、大人びた表情を浮かべ。
それぞれの『名前』を、胸に刻んで。
<<<千と千鶴の神隠し 完>>>
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「教えてくれても、いいじゃない。おかあさんとかには、何て呼ばれてるの?」
「別に」
「んーー。『コウちゃん』とか?」
「・・・・・やめてくれ」
「そう呼ばれるの、嫌い?」
「・・・・・・」
・・・ここで汗など浮かべてなるものかと、かなり無理をして無表情を装う少年を前に、千秋はくすくすと笑う。
「じゃ、何て呼べばいい? わたし、『琥珀くん』って呼ぶの、やめたい」
「え?」
「『荻野さん』は、もっとやめてほしい」
急にそんなこと言われても。
どう反応したらいいのか、琥珀が迷っていると。
千秋はテーブルの上にあった紙ナプキンを正方形に裂いて。
器用に一羽の小さな鶴を折りあげた。
その羽根の内側にボールペンで何やら書き込むと。
鶴の羽を閉じて。
「はい」
琥珀に手渡す。
琥珀が折鶴の羽根を左右に押し広げると。
そこに、書いてあったのは。
----------『千尋』----------
「これ・・・?」
「わたしの、本当の名前。」
「・・そうなんだ」
「でも、わたしのことそう呼んでくれる人、今いなくてね。お母さんまで『千秋』の方で呼ぶの」
「・・・・・」
「『千尋』って、呼んでほしいな・・・だめ?」
琥珀は内ポケットからペンを取り出して。
折鶴のもう片方の羽根に何か書くと、またその羽根を閉じて少女の前に差し出す。
「そろそろ寒くなるから。中に入ろう?・・・・・・千尋」
少女は渡された折鶴の羽根をそっと広げる。
・・・・ふふ。あまり上手な字じゃないなぁ。
「うん。そうだね・・・・ハク」
折鶴に託した約束。
二人のあいだでは。
----------『千尋』と『ハク』で、いようね。----------
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