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<<< 立春 >>> 第十夜
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湯屋に戻り。
人のかたちとなって。
ハクは、半信半疑でその場所へと向かう。
白い水干を、ぽたぽたとつたう、冷たい雫。
室内を水浸しにしてしまっては、いけない。
龍の少年は、ぶるるっと身を震わせて、体の水気を飛ばす。
少し、動物的なしぐさで。
そして、自分の身から飛び散った水滴を。
音もなく手中に集め、ひとまとまりの水球にして。
窓の外に、さん、と落とす。
水神の手からはなたれた水球は。
はしから崩れ、そのかたちを失って。
きらきらとさざめく氷のかけらとなり。
しゃらしゃら音をたてながら、窓の外に降りそそいだ。
--------------「鬼は、内」--------------
間違いない。
あれは。
『自分』を呼ぶ声だ。
意識を研ぎ澄まして、その声を、たどる。
そして。
・・・・・やはり、ここか。
無事で、よかった。
ハクが立ち尽くしているのは。
自分の私室の前。
うかつだった。
ああいうことがあった後だから。
ここへ来ているなどとは、思いもしなかった。
しかし確かに、襖(ふすま)の向こうから、愛しい少女の気配が感じられる。
「千尋?」
襖の外から小さく声をかけると。
その気配が、ぴく、と反応した。
「入っても、いいかい?」
自分の部屋に入るのに、許可を求めるのもなんだか不自然だが。
返事は、ない。
鬼は内、と、うたうようにつぶやかれていた、まじないことばのようなことひらも、ぴたりと、やんで。
少年は、静かに襖(ふすま)を引いた。
灯りのともっていない、青寒い室内に。
紅赤、薄桃、緑白。
薄々とした梅のはなびらがいくひらも舞い込んでいて。
清潔な畳の上に、ほのかないろどりを散らしていた。
すぅ。
後ろ手に、襖を閉める。
ついて起こったかすかな空気の乱れにあおられて。
畳の上の梅の花弁が、ひとひら舞い上がり。
あややかな弧を描いて、音もなく、落ちた。
あまり広くはないが、きちんと整頓してある和室の中央に。
自分の夜具が、のべられてあって。
その上に。
・・・・白い大布で、はなびらづつみにされた、ものが。
「ち、千尋・・?」
少年が慌ててその包みを解くと、
真っ白な綿布の中から、捜し求めていた、梅色の水干姿の少女が、花のように現われた。
飾り気のない、冷たい男の部屋の中に、ふわりと広がる、まろやかな香り。
馥郁(ふくいく)と匂い立つ梅花のごとき芳香に、かるい、眩暈(めまい)を覚えつつ。
「どうして、こんな・・?」
かわいそうに、細紐で手足を結わえられた華奢な身体。
今すぐ抱き締めたいという衝動を抑え、
ハクは震える手で、彼女の身を自由にしてやりながら、尋ねる。
「これは・・・大湯女たちの、仕業か?」
「・・・・・。」
千尋は、白い布の中で、身をすくめている。
消え入りそうな声で、ごめんなさい、と。
お姐さまたちってば・・・・。
突然、何をするのかと思ったら。
・・・ここ、、、ハクの部屋じゃない・・・。
千尋は、横たわったまま、おとなしく目を伏せて。
彼の手によって、縛めが解かれゆくままに、なっている。
でも。
いいや。
好きな人のそばにちょっとでもいられるのは、素直に嬉しいし。
好きな人にたすけてもらう、っていうのも、素直に嬉しいし。
お姐さまたちに、ちょっと、感謝。
紐をすべて解き終えるのに、さほど時間はかからず。
「・・・大丈夫?」
間近に覗きこむ、心配そうな白い顔。
ああ。やっぱり好き。この透明な瞳・・・・。
せっかくだから。
もう一度だけ、甘えさせてもらっても。
きっと怒られたりは、しないよね。
・・・これで最後に、するからね。
千尋が、視線を上げた。
それから。
自由になったやわらかな細腕を。
やおら少年の首に絡める。
「千尋?」
千尋は。
透き通るように白い少年の顔を、そっと抱き寄せ。
いちどだけ、きゅっと両腕に力をこめると、その耳元にささやいた。
-------------ありがとう、いつも。・・・ほんとに、優しいんだね。--------------