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<<<夜伽ばなし 其の一 "竜宮">>> 第三夜

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「どこ?? どこにいるの!?!?」
何よりも聞きたかった声。
姿は?姿はどこに?



--------どこか体は辛くないか?




腹痛なんて、いっぺんに吹き飛ぶ。

「だいじょうぶっ!! ハク!! どこにいるの!?」



--------そばにいる。でも、姿は見えないよ。



「いや!会いたいの!ハクの顔、見せて!」


一瞬の沈黙。



--------・・・・・・・。
--------目をつぶって、両手を出してごらん。



「こう?」



両手を差し出すと・・・そっとそれを包み込む、温かい感覚。



--------私がここにいることが、わかる?



「うん」


間違いない。このぬくもりは。
忘れもしない、大好きな人の手。



---------私はこちらの世界には居場所がない。
---------だから、そなたの目に見えるかたちで、姿をあらわすことはできない。



「目開けてもいい?」

---------いいよ。



やはり、姿は見えない。
でも、自分の両手は確かにハクの手の中につつまれている。
千尋の顔が歪む。



「まさか・・このまま消えて、いなくなってしまうの?」

向こうの世界で自分の体が透けて、消えかけた時の恐怖が、新たな意味で蘇る。



---------だいじょうぶ。
---------姿をあらわせないのは、こちらに来たときだけ。向こうへ帰れば、いつもどおり、油屋で働いているよ。



「元気、なのね?」

---------うん。変わりないよ。



ほっとする千尋。と同時に聞きたいこと、話したいことがあふれてくる。

油屋のみんなのこと。
こっちの世界とトンネルの向こう側との時間の流れの違いのこと。

新しい学校のこと。
きのうの小箱のこと。
それから、それから・・・・・


そうだ、わたしは何か一番大切なひとことを、一番大切なひとに、伝えないまま、あの世界をあとにしてしまったんだ。


胸につかえていたことは、これだ。
言わなくちゃ。言葉にして。



山ほどの言葉が、出口を求めてのどのあたりで押し合いへし合いしたまま、解き放たれることができずにいると、



---------"時還し"はうまくいったみたいだね。



ハクが先に口を切った。



「ときがえし?」



---------そう。4年の『時』を千尋に返しに来たんだ。



「?」



少し長い話になるから、と、千尋にどこかに座るよう促して。
部屋の真ん中で手を握り合って突っ立ったまま、というのも話しにくい。


千尋はベッドに腰をおろした。
ハクの姿が見えないのが、やっぱり落ち着かない。



「ハク、そばにいるよね?」


--------いるよ。



かすかにもれた苦笑のあと、ふわりと千尋の肩が包まれる。


(肩を抱いてくれてるんだ。)


自分の体重をわずかに預けてみると、受け止めてくれる手応えをちゃんと感じることができる。
千尋は目を閉じた。
蘇る記憶。
そう。自分はこのぬくもりの中で、泣いたのだ。励まされたのだ。勇気を得たのだ。


ハクは、言葉を選び選び、できるだけ千尋に理解しやすいよう説明を始めた。




---------油屋の『時間』はめちゃくちゃだったろう?


「めちゃくちゃ?」


---------そう。春夏秋冬の花々が同時にひとつの庭に咲いていたり。


「うん」



---------湯婆婆は、「時間」の大切さとか、そういうものに興味がない。
---------だから、あそこの時間は、周りの世界の時間とは全く無関係に進むことがある。



「向こうには4日しかいなかったのに、こっちでは4年が過ぎてたこと?」



---------反対のこともあるんだよ。神隠しから還ってきたら、何十年、何百年も昔の世界に戻ってしまっていたり。



「ええっ?!」


それでは、生還したことになんか、ならないではないか。
千尋はぞっとした。
4年後の世界に戻ってこれたのは、まだ幸運だったのだ。



---------困ったものだよね。まあ、湯治に来る神々たちは、その辺のこと承知しているから、上手く"時渡り"をして、自分が守る場所をあまり長い間留守にしないよう、気をつけて行き来するんだけど。もちろん、千尋にはそんなこと、できないから。




     ハクは、ひとつひとつ、順を追って話し始めた。





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千尋がトンネルの向こうに消えた直後、銭婆が大慌てで駆けつけてきた。


「ああっ!間に合わなかった!!!!!!」

「どしたのさ。何の用だい?」

怪訝な顔の湯婆婆。


「あんたね、、、あの子をどこに返したんだい?」

「どこって。人間界に決まってるじゃないか。あたしゃ、掟は破らないよ」

「ああ、まったく。ただ返しゃいいってもんじゃないだろ。いったい、『いつ』に返したんだい」

「んなこと、知るもんかい」



黙って双子姉妹の会話を聞いていた少年が、ここで青ざめて割って入った。


「もとどおりの『時間』に返してやったのではないのですか?!」

「そこまで面倒見切れないさ。とにかく、契約は守ったんだからね。文句言われる筋合いはないよッ」


湯婆婆はぷいっと背を向けると、とっとと姿を消してしまった。



はぁ、とため息をつく銭婆。
の、頭上を飛び越して一目散にトンネルに向かう白い龍。


「お待ち! まったくもう。龍ってのは、ほんとに考えなしなんだから」

世話が焼けるったら、と何やらぶつぶつと口の中で唱え、
くいっと左手でこぶしをつくると。


その手の中には白龍の尾が握り締められていて。
尾を捕らえられた龍は、水中からつまみあげられた魚のように、ぶざまにびちばちともがいていた。


「あのねぇ。ガールフレンドが心配なのはわかるけど、あんた、まだ契約に縛られた身なんだよ? このまま行ったって、トンネル抜けたとたん、自分が消えちまうのが落ちじゃないか」


ふっ、と銭婆が左手を振る。
とたんに、しりもちをついて転がる白面の少年。



「あたしが今、手を打っといたから、あの子も親もそう遠くには返されてないさ。あんたはまず、自分の主と話をつけな。それがきちんと済んだら、ちょっとあたしんとこにおいで。頼みたいことがあるからね」


言うが早いか、姉魔女はひゅうっという羽音とともに、鳥の姿となって空高く舞い上がって行った。





油屋の最上階、湯婆婆の私室。
言葉少なに向かい合う巨顔の老婆と、龍の少年。



「ふん。真名を取り戻したって言うんなら、もうこの契約書は役に立たないさ。で、お前はどうしたいってんだい?」


魔女の指先でひらひらと揺れる契約書には、奪われたはずの少年の真名が墨色も鮮やかに蘇っている。



「自由になりたいんなら、お前の勝手にするがいいさ。だけど、それがどういう事か分かってるんだろうね?」


湯婆婆の薄ら笑い。



・・・・いやというほど、分かっている。



自分には、他に行き場所はないのだ。
琥珀川はもう、ない。

トンネルの向こうには、自分の存在理由はない。いや、はっきり言うなら、存在することが「できない」のだ。

だからこそ、自分はここへやって来た。
川を失い、本来ならそのまま消えてしまうはずだった自分が生きられる場所は、ここしかなかった。

あやしげな魔女の弟子と成り下がっても、生きていたかった。
どんな悪条件をのんででも、生きるための契約を結ぶ必要があった。
愛する川を取り戻す力を得るために。



真名を取り戻した今、契約を破棄することは可能である。
しかし、まだ、自分には川を取り戻すほどの力は、到底ない。



よりしろとなる川を持たないまま、油屋を出て行くということは、「死」を意味するのに等しかった。


一方、油屋の経営者にとっても、「いいように使える弟子」兼「有能な帳場頭」を失うことは、痛手であった。


ハクがここに来る前は、それはもう、大変だったのだ。

兄役や父役にそろばんを入れさせれば、入る金と出る金とがこんがらがるわ、金額の桁はすっこぬけるわ、つけの扱いはあいまいになるわで、もう、経理はめちゃくちゃになってしまう。
結局、彼らではどうにもならなくなって、帳尻のあわない帳簿を恐る恐る差し出されることもしばしばで。


湯婆場みずからが、請求書と領収書の山にうずもれながら、一から計算しなおす羽目になる。
老眼鏡をかけた目をしばたかせ、長く伸ばした赤い爪でぱちぱちそろばんをはじくのは、本当に骨が折れたものだった。
眉間の皺は深くなるし、目の下はくまになるし、マニキュアははがれるし、美容に悪いったらありゃしない。


で、二人はそれぞれの利害のバランスの上で、お互いに譲歩することとなった。




『契約の内容変更』。


以下がその内容。

一、帳場の仕事はこれまでどおり、続ける。
一、その『報酬』は、魔法伝授とする。
一、契約は期限付き。期限ごとに「更新」あるいは、「契約終了」となる。


補足すると、湯婆婆のハクに対する拘束力はぐっと弱まった。
ハクは徒弟制度に縛られた『弟子』ではなく、『油屋』の従業員だ。
油屋に直接関係のない、湯婆婆の個人的な仕事依頼については、場合によっては拒否することも可能だ。
仕事に差し障らない程度になら、どこへ(どの世界へ)「外出」しようと、自由。

ただし、以前よりずっと「薄給」という条件つき。
このあたりが魔女の抜け目のないところ。


「これで、文句ないね?」
吐き捨てるように湯婆婆が言う。

「はい」
龍の少年は静かに一礼すると、部屋をあとにした。


や、いなや、向かう先はただひとつ。

安否が気遣われる、いとしい少女のもとへ。
いったい『いつ』へ返されてしまったのか。

とんでもない『時』へ飛ばされて、また、震えてはいまいか。


気ばかりがあせって、前後の見境もなく、たてがみを振り乱してトンネルへと向かう白龍だった。



が。




びし。


矢の勢いで空を切っていた白龍の体が突然動かなくなる。


べたん。


固い床の上に体が叩きつけられるのを感じた。

振り返ると、自分の尾は、やれやれといった表情の老婆の手に握られていた。

「妹との話がついたら、あたしんとこへおいでと言ったろう? まったく」
なんで、龍ってのはここまで頭悪いんだろね、とぶつぶつ。


「あの子がどこに飛ばされたか、わかってないんだろ。どうやって探す気だったんだい?」


少年の姿にもどり、あたりを見回すと、そこは銭婆の家の中だった。


「ちょっと、そこの棚からあたしの鏡、取っとくれ」


にゅうっ、と鏡を差し出す、黒くて細い、手。
白い仮面。
から、そこはかとなく立ち上る、嫉妬とも懇願ともとれる"気"。


「ア・・・アッ・・・」

「やきもちお焼きでないよ。あんたには無理なんだからさ。これはもともとあっちの世界にいた者にでないと、つとまらないんだってば」
少々おばかさんでもさ。しかたないさね。


いちいち余計な一言を付け加えるものだ、と憮然とする少年の機嫌など気にかけるふうもなく、老婆は鏡を覗き込み、なにやらむぐむぐと口の中で唱える。


「ほら、見つかった。ご覧よ」


促されて鏡の中を覗くと、そこには毛布にくるまって横たわる、愛しい少女の姿があった。



「千尋!」


鏡を奪い取らんばかりのハクを横目に、


「4年後、ってとこかねぇ・・・・。ま、こんなもんだろ。で、あんたにちょっと使いを頼みたいのさ。これをあの子に・・」


銭婆はテーブルからはなれ、戸棚から螺鈿細工の小箱を取り出し、振り返ると、



「ちょいと!!これ、待ちなっ!!!!」



鏡の中に頭から突っ込んで、もう半ばその姿は鏡面に飲み込まれている白い龍。

老婆がその尾を掴もうと手を伸ばしたときには、もう、龍の姿は鏡の中にかき消えていた。


「ああッ!! なんなんだい、あの子はッ!! 人の話を最後まで、聞かんかい!」







いても立ってもいられなかった。
魔女の鏡が、いうならば、「どこでもドア」のようなものであることは知っていた。
そこに、捜し求めていた姿を見出したのである。
考えるより先に、体が動いていた。


少女は、小さな体には抱えきれないほどの不安に押しつぶされそうになるのを懸命にこらえていた。

その愛らしいくちびるから、「ハク」と、自分の名がこぼれたとき。
ハクは体中の血が逆流するのを感じた。

いじらしくて。たまらなくて。
今の自分にできる精一杯のことを、した。


千尋の傍らに静かに寄り添うと、その頼りなげな背中に、そっとまじないを。



<・・・安らかなる眠りを・・・>



少女が規則正しい寝息をたてはじめても、彼はしばらくその場をはなれることができず、その寝顔に見入っていた。


人間の世界によるべのない身では、千尋に姿を見せることも、声をかけることもできないのは承知の上だったとはいえ、口惜しかった。

『大切なもの』がすりかわっていたことを。
彼ははっきりと自覚していた。

少し前までは、純粋に「琥珀川」を取り戻したかったのだ。

今は・・・


どんな小さな川でもいい、湖でも、池でもいい。薄汚れた用水路でもかまわない。
人の世に身を置くためのよりしろが欲しい、と切実に願う、龍神だった。





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「やっぱり、あの『ぽんぽん』は、ハクだったんだね」

幸福そうに微笑む少女。
窓の外の雨音が心地よい。


話の続きをうながそうと、自分の肩を抱いている少年の方へ、小首をかしげる千尋。



・・・・・



わかっているんだろうか。
この娘は。

自分が今、どんなに危ういことをしているのか。
無邪気なのか。無知なのか。


姿が見えないとはいえ、男の腕の中で。
無防備にまぶたを閉じた少女の、柔らかな顔が、すぐ目の前に。


このまま、ほんのすこし首を傾けたなら。
やすやすと、手に入る無垢な花。

この想いは、今自分に寄せられている全幅の信頼を、裏切ることになるのか。

驚くだろうか。
困らせるだろうか。
泣かせてしまうだろうか。

それとも。
受け入れてくれるだろうか。




迷いは雨の音の中に霞み。



何か、抗えない力に導かれるように。


肩先に回した指先に、かすかに力がこめられようとしたその時、
千尋はびくっと体を固くした。


はっと行動を止める少年。


「ハク!? どこかケガしてるの!?」


千尋は異様な臭いに気がついた。この臭いは!
確か、油屋にいたとき、大怪我をした白龍が銭婆の元から逃げ帰ってきたときと同じ。

『血』の臭いだ!

千尋はおろおろと見えない姿を追う。

「ハクっ、どこか痛いの??? 湯おばあちゃんに『やばい』仕事させられたの??」


ハクはどっと息を吐く。
かすかな後悔と後ろめたさと。
額に、うっすら滲む、汗。



----------だいじょうぶ。ちょっと古傷が開いたようだ。心配いらないから。



だいじょうぶなの、ほんとにだいじょうぶなの、と半泣きで繰り返す少女をなだめつつ、龍の少年は同時に自分自身をも鎮めて。


「あれ?そういえば、今、ハク、わたしとお話してるよね?」

たしか、さっきの話では、姿も声も表せないとのことではなかったか。
姿はあいかわらず見えないけれど。




----------・・・今宵は雨だから・・・ね。

「?」

----------雨の神は優しい・・・



雨の神は昔から龍には優しかった。

幼いハクが両親を亡くして泣いていたときも。
琥珀川を失おうとしていたあのときも。

・・・その話はまた、後段に譲るとして。




「よく、わからない・・」


----------ごめんよ。話が飛んでしまったね。




ひと呼吸おいて。

再びハクは語り始めた。------もっとも、自分に都合の悪いところは、少々はしょりながらではあるが。






あの日、ハクが千尋を寝付かせて、油屋に戻ったとき、店はもう、開店直前だった。


「どこほっつき歩いてたんだいッ!!! やる気がないなら、さっさと辞めちまいな!」

湯婆場の怒声。



「ハク様、ハク様、ああお戻りになってよかった、すみませぬが、オオトリさまのお支払いの金子が合わないので、困っておりました、これこれこれで・・・・」
「ハク様、先だって言いつけられておりました、牛鬼さまへのお礼の書状は、これでよいのでしょうか、どうも文(ふみ)を書くのは、苦手で、その」
「あの、西の風の神さまと、南の沼の神さまが、おふたかたとも、今宵、『櫻の間』をご予約されていたはずだともめておられまして、」


いきなり目の前に差し出される、書類ともめごとの山。


千尋のもとにいたのは、ほんの一刻ほどだったと思ったのだが。
こちらでは、もう、まる一晩以上が過ぎてしまっていたらしい。

あいかわらず、ここの時間の進みはめちゃくちゃだ。
帰ってくるときに、もっと『時間』に気をつけるべきだった・・・


ため息をつくひまもなく、一睡もしていない体で、ハクは帳場へ向かう。

その途中で。
どん。

桃色の水干の肩が、すれ違いざま、ハクの体に勢いよく当たる。
たたらを踏んだハクの足が、しこたま踏まれた。



「何をする!リン!」

「けっ! 朝帰りたぁ、いい度胸してるじゃねぇか」

「あ、あさが・・!」

「まさか、遊びだったなんて言わせねえからな!責任取れよなッ」

「何を言う。私はただ、千尋に添い寝を」



とたんに、リンの顔が険しくなる。


「やっぱセンのとこか!許せねぇ!」

釜をかけたのだ。大当たり。



くわっと口が耳元まで裂け、三角形の耳はぴんと立ち、つかみかからんばかりの狐の娘。
を、止めたのは、意味ありげな含み笑いの大湯女の姐さんたち。
あんたはもう行きな、とリンを促して、わらわらとハクを取り囲む。


「ハク様、あのねぇ、いくら後朝(きぬぎぬ)の名残が惜しいからって、ちいと寝過ごし過ぎたんじゃないかい?」

「き、きぬ・・っ・!?」



とたんに白い顔が朱色に染まる。
後朝とは、男が想う女のもとへ通った翌朝のことである。


ここで、いわくめいた微笑みのひとつでも残して、余裕の足取りでその場を後にできれば、どうということもないのだろうが。
こういう会話の餌にされることに、免疫がない龍の少年は。



「野暮だねぇ、おてんと様が顔出す前に、情事の余韻を残して帰っていくってのが、風流ってもんだろー?」

「ち、ちがっ」

「朝帰りどころか、もう、夕刻じゃござんせんか」

「しょうがないじゃないか。ハク様はお若いんだから。ああ、うらやましいねぇ」

「だから、私はっ!!」



きゃはは、と黄色い笑い声に囲まれて。



大湯女たちにしてみれば、普段すましている帳場頭につけいる絶好の隙をみつけたもので、からかうのが面白くて仕方ないのだ。


どう見ても分が悪い。

ハクはむつっとへの字に口を結ぶと、ずんずんずんと帳場へと向かって歩いて行った。
背中から追いかけてくる、きゃーかわいーーーーッ、だの、こぉの色男!だのという嬌声を懸命に無視して・・・・





あれ、なんだこいつ、こんな可愛いトコあったっけ? と、狐につままれたかのようなリンの顔。


職場柄、従業員同士で猥談が交わされることなど、日常茶飯事だが、普段なら、そういう場に居合わせたって眉ひとつ動かさずに平然と仕事をこなしているヤツなのに。

それどころか、色恋沙汰の揉めごとを、湯婆婆の耳に入らないよう、大人顔負けの才覚でうまく捌き、丸くおさめてやってたことだって、一度や二度じゃなかったはず。


そうそう、小湯女仲間のイワナの娘が蛙男にちょっかい出された時だって、結局二人を夫婦(めおと)にまとめてやってたっけ。

あの娘も、もう今じゃ、かなり子沢山な女房になってるって風の便りに聞いた。
イワナと蛙の間の子なんてどんなのか想像もつかないけど。



従業員をそつなく束ねているくせに、いざ、自分のこととなると、からっきしなのか。
だらしねぇの。


ま、いっか。
弱みをひとつ握ったと思えば。

にぃっと笑う狐の娘だった。




* * *




リンや大湯女たちに散々突付かれながらやっと一日の仕事を終えたハクは、深夜再び銭婆を訪ねた。



「やっと来たかい。この馬鹿龍は」

「昨日は失礼いたしました。・・・ですが、あのような呼び出され方は・・・・・」



終業の刻限近く、最後の客を送り出したとき、ハクの水干の襟元に何かがかさりと当たった。
とたんに、また大湯女たちが、きゃーーーっと嬉しそうな声を上げる。
ちらりと彼女達をにらみながら、それを手に取ると。


それは愛らしい封筒に入れられた手紙だった。
ご丁寧にピンク色のハート形のシールで封がされている。


「きゃあ、ハク様ぁ、つけ文じゃあござんせんか」

「もう、隅におけないったら」

「人の娘ッ子ってのは大胆だねぇ」

「ささ、待たせるなんて罪なこと、しちゃあ駄目だよ、ハク様っ」



やかましいったらない。

こういうときはとっとと逃げるに限る。
今日一日でいやというほど、学習した。

なにを騒ぐことがあろう。
人間の子がこちらの世界に手紙など送れるはずがないではないか。

とは思いながら、ひょっとして?とひそかに胸をときめかせ、物陰でいそいそと封を切ると・・・



それは、銭婆からの呼び出しの手紙だった。





「悪かったねぇ、婆さんからのラブレターでさ」


目の前の銭婆はにやにやしている。
カオナシまでがにやにやしているように思えて、癪にさわる。

「ハイカラな文だったろ?」

「呼び出されずとも、伺うつもりでおりました」

「当然さ。昨日は肝心なとこ聞かずにとっとと行っちまうし」


そのあとお決まりの、龍はばかだの、まぬけだの言うのを聞き流して。



「私に頼みたい使いというのは」

さっさと本論に入ってしまうのが賢明。



「これをね、あの子に届けてほしいのさ」

老婆は上等の塗りの、例の小箱を差し出した。


「これは?」

「『時還し』の箱さ。たった4年とはいえ、人間にとってはかなりな時間さ。かわいそうに、難儀してただろ?」

「・・・はい」


不安そうにうずくまっていた千尋の姿が再びまぶたに浮かぶ。


「はん。なんであたしが妹の尻拭いばっかしてやんなきゃいけないのかとも思うけどさ。あたしゃ、千尋ちゃんが気に入っちまってね。この箱の中の魔法で、すっとんじまった4年のうち、いくらかは還してやれるだろ」



ハクは頷いて、箱を手に取る。

4年後の世界に一足飛びで投げ込まれた千尋の体は、10才のときのままだ。
人間世界では不自由も多かろう。

いっぺんに4年分の成長をするのは無理としても、この魔法で、ある程度は実年齢に近い状態に成長を促すことができるというのだ。


すぐにでも千尋の元へ飛んで行きたい気持ちを押さえ、


「渡してくれば、よろしいのですね?」

念のために最終確認する。


これ以上、馬鹿だの考えなしだの言われたり、尻尾をむんずと掴まれて引き戻されたりするのは御免だ。
いつの間にやら、すでに、姿は龍。話が終わればすぐにでも出立できる体制。体は正直。


銭婆は、ほっほっほ、と笑った。

「ちとは賢くなったかね。そうさ、話はもうひとつあるのさ。ま、もっとも、これは聞き忘れて飛び出して行かれても、あたしゃ、そんなに困らないけどね」

「なんでしょう」



「いいことを教えてやろう。ただし、タダじゃあ駄目だよ」

少年は用心深く頷く。親切なようでも、あの湯婆婆の姉だ。何を言い出すのか。



「お前さんさ、千尋ちゃんと、話がしたくはないかい?」

「!!そのための魔法を教えていただけるのですかっ?!どうすれば?!」


おやおや、先刻の用心深さはどこへやら。老婆に詰め寄る龍。




自分にできることならなんでも、と言わんばかりの白龍を、どうどうとなだめ、老婆は続けた。


「ちいと、痛いよ?」

「構いません」


「そうかい、そうかい。そりゃ嬉しいね」


と、銭婆は少女のように笑い、くい、と人差し指を立てた。

ざぁっと、壁一面に作りつけられていたクローゼットが開く。
中には山ほどのドレス。どれも、彼女自慢の手作りの衣装だ。

その中から、ふわりと一枚が泳ぐようにこちらへと飛んできた。



「どうだえ? いいローブデコルテだろ??? 会心の作さ」


そのドレスに魔女はうっとりとほおずりし、自分の体にあてがって見せる。
純白の絹に、大ぶりのスパンコールのようなものが豪華に縫い取られていて、きらきらと輝いている。



う。


そのドレスをちらりと見て、ハクは気分が悪くなった。




いや、肩や背中をあらわにするそのドレスのデザインが彼女に似合わないとかそういうことではない。


おそるおそる、ハクは尋ねる。


「あの、銭婆さま。その着物の、ちらちらと光るものは」


「見りゃわかるだろ。あんたの鱗さ」


こともなげに答える魔女。


「こないだの判子騒ぎで、あたしの式と大立ち回りしただろ。あのとき剥れたあんたの鱗をさ、式たちに持ってかえらせたのさ。ほぅら、きれいだろう?」


きれいだとか、そういう問題ではなく。
自分の身から剥がされたものが、そういうふうに使われていることに抵抗感がないわけがないではないか。



「それはわたしの体の一部です。あなたが身にまとうのが嫌だとかいうのではありませんが、か、返していただくか、捨てていただきたい」

「あんた、頭は回らないけど、姿だけは極上だもんねぇ。ごらん、このツヤ。若い龍の鱗でドレスを飾るなんざ、誰も思い浮かばないアイデアさ。粋だろ?今度の魔女の晩餐会に着ていくのさ。ベストドレッサー賞間違いなしだね」


人の話、聞いていない。


ハクはあきらめた。


「・・・それと、千尋のこととどういう関係が?」

「関係なんかないさ。あたしはさ、あと、ここんとこに、もうひとまわり大きな鱗が欲しいんだよ。おくれよ。そしたら、教えてやるさ」


もう、魔女の頭の中にはパーティーで絶賛をあびる自分の姿しかないらしい。
自分はコート用に毛皮をはがされるミンクかブルーフォックスか。



「実は、先月の晩餐会じゃあ、妹の湯が、紅い龍のたてがみと目玉のネックレス着けてきててさ。もう、その話題で持ちきりだったんだよ。でもさ、そんなもの、あたしに言わせりゃ、ただの悪趣味さ。ふっふ、あたしが欲しいのはねぇ」



真珠色に輝く美しい身体を物欲しげになでなでなでと触られて、ハクは卒倒しそうになった。


「わかりましたっ。どこでも、お好きなところをっ!」

もう、やけくそである。


目をつぶって、魔女の前に仁王立ちになる。


「そうかいそうかい。聞き分けのいい子だね」


老女はペンチのような金具を手に、上機嫌で若い龍に近寄る。
その細めた目に、一瞬怪しげな光がほのめいたことに、彼は気づかなかった。


<!!!!・・・ッ!!!!>


自分の最も敏感な部分。
そこに、ひやりとした金具の肌触りを感じたとたん、雄龍は本能的に大きく後ろに飛びのこうとした。



どこでも好きなところを、とは言った。

だが。
よりによって、こんなところを。



「なんだい。辛抱が足りないねぇ。まだ何もしてやしないよ」


老婆は金具をにぎる手にぐっと力を込めた。

龍はごぉぉと地の底からわきあがるような叫び声を上げ、耐えがたい苦痛に、部屋中をのた打ち回る。
血しぶきとともに、銭婆の手から金具が弾け飛ぶ。
テーブルも椅子もキッチン道具も、部屋の中にあるものすべてが粉々に砕け散った。

若い雄龍は、肩で息をしながら、獣の目で魔女を睨む。
狡猾な老女を食い殺したくなる衝動を辛うじて押さえ込みながら。



ハクははぁはぁと荒い息をはきながら、必死で自分を押さえていた。



逆鱗。

銭婆が触れたのは、龍の胸元にある、唯一枚だけ、さかさまに生えた鱗。


冗談じゃない。他の鱗とは訳が違う。



「いやなら、やめてもいいんだよ」


血の滴る金具を拾いながら、魔女は笑う。



ハクは覚悟を決めた。
ふーーっと息を吐き出すと、血にまみれたその胸を自分から差し出した。



「ふふ。そうまでしても、あの子と言葉を交わしたいんだよねぇ」

次の瞬間、生身の体をまっぷたつに裂くような激痛が彼を襲った。



それきり、美しい血だるまの龍は意識を失った。








気が付くと、自分は油屋のボイラー室に寝かされていた。


「おお、ハク、気がついたか」

目の前に、心配そうな釜爺の顔があった。


「あのこぇぇ魔女んとこから、お前さんが送り返されてきたときはもう、死んでるのかと思ったぞ」



ハクはがば、と飛び起き、その瞬間に襲ってきた激痛に、再び薄い布団の中に崩れこんだ。
胸元にきりきりと巻かれたサラシには、血が滲んでいる。


「おいおい、無理するんじゃない。湯婆婆にはちゃんと言ってあるから。今日は休め」


「おじいさん、私はどのくらい眠っていたんですか」

「そうさな、2日ほどじゃったかな」

「2日っ!?」



また飛び起きようとした少年を、蜘蛛の老人はすんでのところで取り押さえた。

「ばかもん。動ける体かどうか自分でわからんか」



鱗を剥がされるというのは。
人間の感覚で言えば、生爪を剥がされるようなものか。

まあ、体力のある若い雄龍ならば、鱗の一枚や二枚、じきに再生するのであるが。
とりわけ特別な意味を持つあの鱗は。

下手をすれば生死にかかわったかもしれない。


ハクは唇を噛み締めた。
一刻も早く、千尋に「時還し」をしてやらねばならないのに。



<箱は!?「時還し」の魔法の箱は?>



枕もとを見ると、魔法の箱がきちんと置かれている。
そのそばに、手紙が添えられていた。

付け加えると、今度のは、ごくシンプルな封筒に入れられていて。
もちろんハート形の封などされていない。


胸の痛みをこらえつつ、まばたきをひとつ。

音もなく封が開く。
中からひらひらと白い便箋が舞い上がり、横たわるハクの顔の前で静止した。



『白龍よ。痛い思いをさせて、すまなかったね。
あんたの覚悟の程を試したかったのさ。
傷が癒えたら「時還し」をよろしく頼むよ。
それが済んだら、あのあたりの雨の神のところへ行っといで。
話はつけといてやるからね。
そうそう、あんたのきれいな鱗はありがたく頂戴しておくよ。
見れば見るほど上物の鱗だよ。
だれにでも、ひとつくらい取り得があるもんだね。銭。』



ふぅ。ひとくせもふたくせもある魔女だ。


高い熱があるのがわかる。
逆鱗を剥がされた痛手は、龍にしか分からない。
呼吸を低く保ち、体の回復を待つしか、その時のハクにはできなかった。







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千尋は、寄り添う龍の少年から漂う血の臭いが、濃くなってきたように感じた。


「ハク、ハク・・・『古傷』って・・・・その大事な鱗を剥がされたときのもの?」


もう、その瞳からは、今にも涙が溢れそうで。



----------大丈夫だって。もう、新しい鱗が生えかけてきているから。

「ハクがそんな痛い思いするくらいだったら、わたし、、わたし・・・・」

----------泣かないで。



人の子の、大粒の涙には弱い。くしゃくしゃに歪んだ少女の顔。。
あそこまで話さなくてもよかったか、と少し悔やむハク。



「ここに寝て。」

----------え?


「いいから。横になってるほうが楽でしょ」

----------平気だよ。


「駄目!いい子だから、横になって!お膝枕してあげるから!」



涙目で命じる千尋。



----------・・・・・ありがとう。



一瞬、少年の体のぬくもりが離れ、そして、千尋の膝の上に重心が移動した。



「少しは楽?」

----------うん。千尋の膝は、あたたかいね。


「もう、今夜はお話しなくていいから。わたしが看病してあげるから。ゆっくり休んでいって」

----------何を言う。千尋こそ、休まなければ。明日からの生活に差し障るよ。


「だいじょうぶっ!! わたし、徹夜でハクの看病する!!」



かすかに翡翠色の目が細められた。



-----------では・・・・今宵はそなたの気持ちに甘えるとしよう。

「うん!」




雨音は、静かに。
静かにふたりを包んで。



言葉とは裏腹に、ほどなく寝入ってしまった人の子。


そのまるいくちびるに、指先でそっと触れ。
後ろ髪引かれる思いでねぐらに戻る龍。


途中、何度も何度も振り返りながら。




---------また、次の雨の夜に、夜伽ばなしをしにくるからね。



その声を、夢の中で聞いたような。



「・・・ん・・・・ハクぅ・・・むにゃ・・」


----------よい夢を・・







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