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<<<夜伽ばなし 其の一 "竜宮">>> 第四夜
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「まだ、具合悪いの?だいじょうぶかい?」
目の前に、端正な少年の顔。
心配そうに、こちらをのぞきこむ優しげな目。
「う・・ん、ハクこそ・」
吸い寄せられそうな、綺麗な瞳。
その白い顔を包み込もうと、千尋はうっとりと指を伸ばす。
「もう、下校時間過ぎてるよ。送ろうか?」
がば。
かぁぁぁっと千尋の顔が染まる。
あ、口元に、よだれが。
相手の頬の間近までのばした指をどうしていいかわからないまま、あたふたと謝る。
「ああああ、あのっ!だいじょうぶ!ごめんなさい河野くんっ!あ、じゃなくって、ありがとう、きのうの、ノート!」
頭の中が大混乱する。
恥ずかしい。
教室内には、千尋と、このクラス委員の少年しか残っていない。
転入間もない学校で、放課後どっぷり居眠り。
おまけに、とんでもない人違い。
もひとつおまけに、どうすればいいの、この指!
----に、ぽんと握らされた、みかんふたつ。
え。
「給食の残りだけどさ」
悪びれずに微笑む。女の子みたいに、綺麗。
「ああああ、ありがとう」
「まだ、帰らないの?」
「ううんっ、帰る!」
「傘は?」
「えっ」
窓の外を見ると、さわさわと雨。
そういえば、今朝の天気予報で夕方からまた降るっていってたっけ。
出掛けに母に渡された折り畳みの傘を、玄関口に忘れたまま家を出ちゃったんだ。
ついてないなぁ。帰ったらまたお小言かな。
夕べはハクとの再会で夜更かししちゃって、寝不足だったから、ぼーっとしてたんだ。
あのあとどうやら、すぐに自分は眠ってしまったようだけど・・・
時計を見ると、もう、かなりの時間だ。外は薄暗い。
今日は放課後、個人授業があった。
みっちりしごかれてへとへとになってしまい、そのまま教室でうとうとしてしまったようだ。
「傘、忘れたの?」
もう一度尋ねる少年。
「あ、うん。でも小降りだから、走って帰る」
「入れてあげるよ」
「えっっ??」
突然の申し出に、またまた混乱する千尋。
「い、いいい、いいよ。そんな、悪いよ、」
遠回りになるでしょ、という言葉を少年はさらりと遮った。
「別に。隣じゃん。うち」
「え」
今の今まで、知らなかった。
この綺麗な少年が、隣家に住んでいたことなど。
雨脚はどんどん強まる。
1つ傘で歩いて帰るというのは、、結構とまどいがあったのだが、、、
少年が、自分だって気恥ずかしいだろうに、あえて申し出てくれたのを考えると断るわけにもいかない。
千尋は、彼の親切に甘えることにした。
雨の中を歩きながら、二人は話すともなく、ぽつんぽつんと会話をした。
「河野くんって、最初はもっと怖い人かと思った」
「ふうん」
「わたし、なんとなく河野くんに似てる人、知ってるんだ」
「前の学校の子?」
「え、と、うん。そう」
「付き合ってたとか?」
「ええ???えええええええええええっとぉお????????」
くすくすと笑う少年。
「荻野はほんとにおもしろいね」
「・・・」
「そういえば、、髪型とか、変えた?わけでもないか」
「何?」
「うーーん、なんか、おとといと、感じ違うような」
「きき、気のせいだよぉ。あははっ」
まさか、ハクに『時還し』をしてもらったから、とは答えられない。
学校から2人の自宅まではそう遠くはない。
まもなく、住宅街にさしかかった。
河野少年は、千尋を彼女の自宅に送り届けてから、垣根ひとつ隣にある、どっしりとした和風建築の家へと帰っていった。
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雨。
雨の夜。
あのひとは水の神様だから。
雨に濡れるのは、むしろ心地よいことなのかな。
大量に出された課題や宿題の山から目を上げて、千尋はぼんやり窓の外を眺める。
「今夜は来てくれないのかな」
ほぅっとため息をついたとき。
----------千尋。
がたっ。
思わず立ち上がる。
「ハク!あのっ、きのうはあたし、寝ちゃって・・・怪我は??だいじょうぶなの??」
----------もう、ほとんど治ったよ。心配いらないから。
と、ハクはそのとき、部屋の中から、なんとはなしに不快な"気"を感じた。
それは。
千尋が広げていた教科書から漂っていた。
邪悪なものではないが。
自分にとっては、気分のいいものではないことは確かで。
----------これは?
「え?どれ?」
これ、といわれても、相手の姿が見えないから、何を指しているのか、わからない。
----------この小さな文字。
教科書がふわりと空中に浮かび、千尋の顔の前で止まる。
「ああ、新しいクラスの河野くんって子が、ふりがな書き込んでくれたの。お隣さんでね、とても親切にしてくれるんだよ」
そのあと、学校の教師たちの話や、鈴田をはじめとする級友たちの話がえんえんと続いたのだが、、
ハクの耳には入っていなかった。
文字には、いのちが宿る。
どのような気持ちでその文字をしたためたのかが、手にとるように、分かる。
この文字は。
ハクをいらだたせた。
「ハク・・・・ハク? 聞いてる?」
怪訝な声に、はたと我に返る。
----------あ、ああごめん。聞いているよ。
「嘘」
千尋は空に向かって両手を差し出す。
昨夜と同じように、その両の手が、ぬくもりで包まれる。
自分の手を包んだそのぬくもりを、半ば乱暴に掴みなおすと、千尋はそれを、ぐい、と自分の方に引き寄せた。
どん、とハクの体が自分にぶつかる感触。
と、千尋はそのまま顔を近づけ、くんくんと匂いをかぎ始めた。
----------ち、千尋??
「血の臭いがしなくなったね。よかった」
「ハク」
----------うん?
「わたし、ハクの顔、見れなくてもいい。」
----------・・・・。
「お話できるようになるためだけで、あんなにひどい怪我をしなきゃならなかったんでしょう」
----------・・・・。
「わたし、これで満足すぎるくらい満足だよ。もう、無理はしないで」
----------私は、、、
これで満ち足りているとは言えない。
がしかし、口には出せない龍。
自分は醜い、と思う。
一歩一歩着実に、人間世界に順応し、復帰していく愛しい少女。
日増しに、地に足のついた生活を確立しつつあるのが、わかる。
それが彼女の幸せだ、とわかっていたはずだ。
そして、、、自分はどうなるのだろう。
このまま、姿も見せず、いつか、少女時代の思い出として、記憶のかなたに追いやられていくのだろうか。
そのまま、悠久の時の中を彷徨い、むなしく生き続けてゆかねばならないのだろうか。
あの文字は人間の男のものだった。
そこに浮かぶ、かすかな好意さえが、自分を嫉妬に駆り立てる。
「ハク! またわたしの話、聞いてな・・・・!」
突然の抱擁。
まるで、炎のような。いや、雷雨のような。滝のような。
千尋の中に、轟音とともに渦を巻いて流れ込む、抑え切れない感情の濁流。
息が、できない。
髪の毛一筋さえも動かせないほどの、緊縛感。
千尋の足先が、床から離れる。
喉から漏れた、小さな悲鳴。
----------千尋。
----------私が、怖いか?
----------人ではなく、龍である、私が。
----------怖いか?
「・・・・・・・・」
「ハク、・・・・泣いてるの?」
豪流が、一瞬止まる。
ハクから千尋へと一方的にほとばしっていた激しい、痛みまでともなうかのような感情が、一瞬止まる。
「だいじょうぶだよ。わたしは、ここにいるよ」
流れはつかの間、ためらうかのようにとぐろを巻き、行き場を求めてさまよう。
そして・・・再び、千尋の中へと向かう。
だが、今度はずっとゆるやかに。穏やかに。
なみなみと水をたたえた、無限の海の底へ。
あらぶる潮(うしお)がゆるゆるとわたつみに溶け込んでゆくように。
やがて、混じりあった碧い波の中で。
ひたひたと静寂を取り戻す。
「落ち着いた?」
ハクは我に返った。
----------すまなかった。
「どうして?」
無邪気に笑う、少女。
自分は醜い龍の本性をかいま見せてしまった。
自己嫌悪に打ちひしがれる心に、静かに満ちてくる千尋の海。
それは、胎児を護る、母親の羊水にも似て。
----------そなたは、雨の神に似ている。
「雨の神様?」
----------うん。優しい神だ。
----------私が神々に見放されたとき、ただひとり、最後までそばにいてくれた。
「・・そう・・」
-----------今、そなたと話しているこの声も、雨の神からもらった。
「え? そうだったの?」
----------銭婆様が口を利いてくれてね。この声は、そなた以外の人間には、ただの雨雫の音にしか聞こえない。
----------いつか、その話もしてあげよう。
「うん」
窓の外は、やわらかい、雨。
「雨の音って、子守り歌みたいだね」
----------そなたは雨が、好きか?
「うん」
----------私もだ。
静かな会話。
鎮められた、龍神と。人の娘との。
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