鐘楼(しょうろう)流し (11)
―――――胸騒ぎがする・・・・ 取引先『越中屋』のあるじであるイタチの話に相槌を打ちながらも、ハクは先刻からなぜか落ち着かない気分でいた。 ところは、とある割烹旅館の中座敷、芸妓たちの音曲と酒肴でもてなしを受けながら、龍の若者はちらりと部屋の隅の柱時計に目をやった。 ―――――そろそろ湯屋も終業間近い頃合いか。 留守の引継ぎはきちんと済ませたし、問題がちな客の予約も特に入っていなかった。 気掛かりなことは何もないはずなのだが、妙にちらちらとみぞおちのあたりをかすめるこの不安感はなんだろうと、彼は頭を振った。 根拠などないが、何かの「虫の知らせ」かもしれない。 湯屋で何か起こったのだろうか。 そう考え出すと、どうも気持ちのすわりが悪くていけない。 明日はもうひとつ先の町でまた別口の商談の予定があるので、この宴席がお開きになれば、今夜は用意されている部屋で一泊し、明朝そちらへ向かうことになっているが、なんとか段取りをつけて一旦湯屋に戻ろうか。 宿泊を断って湯屋に帰ったとしたら、到着するのは深夜か夜明け前になるだろう。 そしてまたこちらに戻ってくるとなると、とんぼ帰りしたとしても約束の時間ぎりぎりか。 いや、酒が入っているから全速力で飛ぶことはできない。 間に合わない可能性のほうが高い。 確かな理由もないのに、約束をたがえるかもしれない危険をおかすわけにはいかないし、・・・などと、もやもや迷っているうちに、芸妓たちの演目が一曲終わったらしい。 「さ、どうぞもう一献」 宴の主催者であるイタチに促され、華やかな化粧と装いを凝らした舞い手が錫(すず)の瓶子(へいじ)になみなみと酒をたたえ、商売用の笑みを満面に浮かべてしなりとやってくる。 ※瓶子(へいじ・へいし):酒を注ぐための器。
徳利みたいなものです^^ お白粉のにおいをたっぷりと染み込ませた女の手から瓶子を受け取ったイタチが、主賓であるハクの正面にまわりこみ、どうぞどうぞとそれを勧めてくるので、彼は会釈して、相手の顔をつぶさぬ程度に杯に口をつけた。 一般に、龍は酒については底なしのように思われているふしがあるが、他の者はいざ知らず、彼自身はあまり強い方ではない。 判断力も運動能力も確実に落ちるのがわかっているので、常に限度をわきまえて嗜むよう心がけている。 だから、酒の席でも荒れることもなければ陽気に騒ぐでもなく、むしろ意識して普段以上に冷静さを保っている分、自分などと同席しても相手はちっとも楽しくなどないだろうと思う。 が、座を盛り上げようと懸命になっている取引相手の手前、仏頂面を決め込んでいるわけにもいかない。 返杯のひとつでもと思い瓶子を手に取りかけた時、彼の懐から小さな包みがぽろりと落ちた。 それは昼間、街の小物屋で買い求めた千尋への土産だった。 大正女学生風の着物を着た店の売り子は、包み布用に灰青の小花を紺地に散らした江戸小紋の小裂れ(こぎれ)を選び、愛らしいうさぎ包みにして渡してくれた。 ―――――畳に落としたくらいで壊れるようなものではないが。 念のために中身を確かめようと包みを開けたのが失敗だった。 豆科の花をかたどった七宝焼きの髪飾りはなんともなかったのだが、もとどおりにうまく包みなおせない。 ―――――しまった。 膝の上で小裂れを結んだり解いたり絡めたり、いろいろと試みてみるのだが、悲しいかなこういったことに慣れぬ男の手では、どうやってもあの可愛らしい形にならない。 うさぎというよりは、だんご虫である。 お相手の方が喜ばれますように、と、せっかくあの娘が気を配って綺麗に包んでくれたものが台無しだ。 「あ、あのぅ、、、ハク様、どうかなさいましたか」 つい先ほどまで髪一筋乱すこともなく背筋伸ばして静かに杯を傾けていた賓客が、突然女物らしき小物を手になにやら四苦八苦し始めたのを見て、イタチはおろおろとその手元を覗き込む。 「いや、越中屋どの、何でもないのだ、お気に召されるな」 気にするなと言いながらも、目の前の大事な客はその小包みをごそごそするのをやめる気配など一向にない。 どうしたものかとイタチが困り切っているところに、からりと明るい女の声がかかった。 「あら。やっぱり昼間のお客様じゃないですか。こんなところでまたお会いするなんて、ご縁ありますね」 イタチとハクが顔を上げると、そこには先ほどまで舞い手の後方で歌方をつとめていた娘がにこにこと立っていた。 一応の座敷拵えに身をととのえているものの、座の花形である舞姫ほどあでやかに着飾っているわけではなく、また、ずばぬけて人目を引く器量の持ち主というわけでもないが、玄人ずれしていない人懐っこい笑顔に愛嬌がある。 「おや、そなたは・・・」 彼女に反応を示したのは、ハクの方だった。 「思い出していただけました?」 「化粧や衣装が昼とは違ったから。気がつかなくてすまなかった」 「首白粉(くびおしろい)は重たくって嫌いなんですけどね」 娘はからからとくったくなく笑う。 彼女はまさに、今ハクが悪戦苦闘している包みを作ってくれた、例の店の売り子だった。 「らっぴんぐが解けてしまいました? すみません、包みようが悪かったのかしら」 「いや、私が自分で開けてしまったのだ。申し訳ないが、元通りに包みなおしてもらえまいか」 お安い御用です、と娘は器用な指さばきでそれをうさぎの形に整え、ハクに手渡した。 「ありがとう、助かった。時にそなたは歌い手であったのか」 「いえ、これはほんの手間賃稼ぎなんですよ。私、小物を売る店を自分で持ちたくて、夜はこうやって座敷で歌ってるんです」 「良い声だった。見たところ鶺鴒(せきれい)のように思えるが?」 「ええ、よくおわかりですね。キセキレイです」 セキレイは人里でも見かける人懐こい小鳥だが、もともと水辺を好むものたちだ。 かつての琥珀川にも多く棲息していた。 キセキレイはセキレイの仲間でもとりわけ彩り豊かな鳥で、のどもとから腹が明るい黄、そして翼は鮮やかな黒、頭頂部はつややかな深緑色というしゃれた姿が山間でも目を引く。 また、その声も良く通る美しいもので、涼やかな谷間に響き渡る張りのある歌声は、水のせせらぎによく溶け合って、たいそう好ましいものだった。 それらの心地よい記憶が懐かしく、ハクはついつい彼女と話し込んでいた。 その二人を、煙に包まれたような顔で交互に見比べる、イタチ。 ―――――ハク様がこんなに親しげにおなごと語り合うとは。また珍しい。 普段、どんな売れっ妓たちをはべらせてもたいして嬉しそうにするわけでもない彼の、このような姿は意外だった。 まあ、湯屋という場所にいればその道に長けた女など飽きるほど見ているのだろうから、こういう素人くささの抜けぬ娘のほうがかえって新鮮に感じられるのかもしれないと、勝手に合点して、イタチはこっそり部屋を出ると料亭の女将(おかみ)に耳打ちした。 「すまんが、今宵ハク様のお世話をする妓(こ)を、あのセキレイの娘に替えてもらえんかな」 * * * * * * * *
月はじりじりと中空にのぼり、夜がいよいよ深くなったことを告げていた。 もう、湯屋油屋の通常営業時間はとうに過ぎ、泊まりの客たちもすっかり寝静まっている。 調理場の最後の火も先刻落とされた。 ハクに代わって帳場を預かっていたリンもひととおりの業務を済ませ、寝支度を整えて女部屋に戻る。 ぐるりと大部屋を見渡して妹分である人間の子がいないことには気付いたが、ああいうことがあったあとだから、おそらく今夜は母親の側で眠りたいのだろうと思い、特に気に留めることもなく寝床に入った。 束にした合鍵をじゃらじゃらと鳴らしながら、湯屋の最後の見回りをして歩いているのは、父役。 本来それは帳場頭であるハクの役目なのだが、今夜はこの蛙がその代役をつとめている。 湯屋上階から順番に異常がないか見て回り、ついでに不要な灯りはひとつひとつ消していく。 無駄な電気を使うことにかけては、湯婆婆はことに口うるさいのだ。 湯婆婆の執務室付近、客間、宴会場、湯殿、調理場、ボイラー室、と順に回って、最後に物置部屋となっている半地下室の前までやってきた時、-------その室内からなにやらあやしげな物音が漏れているのに気づき、父役は足を止めた。 ―――――んんん? たいしたものは置いていない部屋ではあるが、帳場頭の留守に泥棒にでも入られたら自分が責任を問われる。 もう定年退職も近いというのに問題ごとなど冗談ではない。 足音を忍ばせて部屋に近寄り、扉に耳を押し当て中をうかがう。そして。 ―――――なんじゃ、またかい。 聞こえて来るのは若い男女の押し殺した話し声と衣擦れる音。 父役はちっ、と舌打ちした。 従業員たちがこの部屋を少々不謹慎な用途に使用しているのは皆知っている。 出刃亀気分半分でさらに聞き耳を立てると、声からして男の方は、調理場の新入りのようだ。 女のほうは・・・はっきり誰とはわからないが、どうやらすんなりうんとは言っていないらしい。 何を話しているかまでは聞き取れないが、察するに、じらす女を男が言いなだめて口説いている最中といったところだろうと、父役は勝手に推測した。 そしてにやにやと肩をすくめ、扉に背を向ける。 ―――――ま、がんばれや、オオト。 若い奴らはお気楽でいいわい、などとぶつぶつ言いながら父役蛙は地下室から離れ、通路の電灯をぱちんと消した。 * * * * * * * *
褪せた湿っぽい畳の上に丸太のように転がされたなり、背中から力任せに抱きつかれて、千尋は全身が鳥肌立った。 ひとつあるっきりの灯かり取り窓から差し込む月光が、半地下の物置部屋をたよりなく照らす。 室内にはごみと言ってもいいような古びたもの、汚れたもの、壊れかけたものものが、そこここに乱雑に積み上げられたり転がったりしていて、実際よりずいぶん手狭に感じられる。 それら不用品類の中に錆びた鏡台が一面、無造作に放り出されてあり、その鏡面に映し出されているものを見た千尋は心底ぞっとした。 視界の隅にちらりと入ったその鏡に浮かび上がっていたのは、薄暗い部屋に投げ出されたがらくたと自分たちの体の一部------乱れた衣服のすそと、生々しく重なった2組の足だった。 千尋は、幼いころ偶然公園の植え込みの中で、二匹の蜥蜴(とかげ)がもつれ合うように繋がった姿でいるのを見たことがある。 雌の体の上に折り重なった雄が雌の首に食らいつき、四肢を絡み付けるようにして押さえ付けたまま、互いにねっとりと腰をくねらせているさまは、まるであやしげな一匹の生き物のように見えて、なんとも気持ちが悪かった。 その時は、それが生殖行為であることなどわからなかったのだが、なんとなく、見てはいけないものを見てしまったような後味の悪さを子供心に感じ、千尋はそれを誰にも話せなかった。 きっと今自分たちも同じような姿でいる。 そう思うと、嫌悪感で腹の底から吐き気がこみあげてきた。 ―――――いや! 畜舎で眠る両親の姿が目の前に何度もちらちらとにじむ。 おとなしくしなければいけない、と頭では思うものの、処女(おとめ)の本能が、脱がされまいと懸命に両手で着物を押さえさせ、男の腕から逃れようと必死で身をよじらせる。 「ここまで来てぐずぐずするんじゃねぇ。俺は気が短いんだ」 業を煮やした蜥蜴の細長い尾がずるりと持ち上げられた。 そして赤銅色の鱗(うろこ)に金色の縦縞(たてじま)模様をはしらせたそれが、千尋の白い腿にぬるりと絡みつく。 ―――――っっ!!!!! 乱されて剥き出しになっていた足にまとわりつく、ぬらりとした冷たい鱗(うろこ)の感触のおぞましさに、娘は我を忘れて男の腕に噛み付いた。 「痛ぇっ!!」 瞬間ひるんだ蜥蜴の体を全力で突き飛ばし、千尋は男の下から逃げ出した。 が、所詮狭い地下室内、すぐ壁につきあたり、彼女は行き場を失ってしまう。 壁を背に立ちつくす娘を睨みつけながら、蜥蜴はむつりと立ち上がった。 「ほぉ。そういうことか。ふうん」 そして縦に細い瞳孔でじろりと彼女を見据える。 「どっちを先にする?」 「・・・・?」 何を言われているのかわからないらしい人間の娘に、蜥蜴は畳み掛けた。 「父親と母親、どっちを先にしてやろうか?」 「!!」 「薄情な娘を持つと、親は哀れだな」 とたん人形のように凍りついた少女と。 水干の上着の裾から覗く長い尻尾を、床にぴしりぴしりと打ちつけながら口の端に薄笑いを浮かべる男。 赤銅色の鱗(うろこ)に金と黒の縦縞を浮かび上がらせた蜥蜴の尾が月闇の中で鞭(むち)のようにしなるたび、青暗い空間を裂いて光る鋭い曲線が室内に走った。 「手間かけさせやがって」 男の口元から薄笑いが消えた。 そして次の瞬間、ひゅぅんっ、と空を切る耳障りな音とともに、蜥蜴の尾がいきなり千尋の鼻先をかすめた。 ――――――っっ!!! ぱらり、と、千尋の前髪が数本散って床に落ちる。 彼の尾があと紙一枚分深く振られていたら・・・それは確実に少女の顔の皮膚を裂いていただろう。 「往生際の悪い女だ」 蜥蜴は自分の衣服を緩めながら、言葉もなく立ちすくむ娘にゆっくりと近づく。 はだけた男の胸元からのぞく土気色の鱗(うろこ)が月光をはじいててらりと光り、その顔面に浮かび上がった婚姻色と呼ばれる痣(あざ)が一段と赤みを増した。 千尋はありったけの思考力を総動員して、なんとかこの状況を乗り切る手段がないか必死で考える。こんなのは、嫌だ。どうしたって、嫌だ。 身動きひとつできないままの娘の眼前に、半裸の蜥蜴男がゆらりと立つ。 そして、その青ざめた可憐な唇を求めて顔を近づけてきた。 まだハクにだって何もされたことないのに! それまで。 それまで、考えるまい、考えるまい、と必死に自分に言い聞かせてきた思いが。 噴き出した。 千尋の平手が、いやらしい痣(あざ)で埋め尽くされた男の頬を、ありったけの力で張った。 「わ、わたしにへんなことしたら! ハク様がだまってないんだから!!」 唐突に飛び出した『実力者』の名前に、蜥蜴は一瞬面食らう。 「・・・・へ? 帳場の龍がどうかしたって?」 「あ、あなたはまだ新しいから知らないかもしれないけど、わたし!」 半眼でこちらを覗き込む男を睨みつけ、千尋は叫んだ。 「わたし、ハク様の『女』なんだから!」 |