鐘楼(しょうろう)流し (12)
ああ。なんて恥知らずな。
どんな時にも、自分への好意と愛情に満ちた誠実な態度を惜しまない美しい龍の青年の、寂しげな微笑が目の前をよぎる。 薄暗い半地下室の壁際に追い詰められ、目の前の蜥蜴(とかげ)男を精一杯睨みつけながら、千尋の胸の中はハクへの申し訳なさでいっぱいだった。 彼の気持ちを痛いほど知りつつ、そのくせ自分がいつも彼に対してどんな言動をとっているか。 それを思い起こせば、あんな言葉など言えた義理ではない。 彼の気持ちや湯屋での地位を、困った時だけいいように利用するなどどれほど卑怯なことか。 「おまえが? あの龍神崩れの女、だってか?」 半信半疑で首をかしげる蜥蜴。 彼は目の前の少女を、じろじろと値踏みした。 見るからにうぶで、男慣れしていなさげな人間の娘。 どう贔屓目に見ても、先のような捨て台詞が似合うとは言いがたい。 が、ここは慎重にかからなければならない。 蜥蜴と龍神とでは、力の差は歴然としている。 もしこの小娘の言っていることが本当であるなら、自分は半殺しの目に会うだろう。 いや、命などないかもしれない。 逆に、その場しのぎの苦し紛れの嘘だったとしたら。 嘘が露見した場合、利用された龍の逆鱗に触れるのは、この娘の方である。 しかし、その危険を承知の上で、皆が震え上がるあの帳場頭の名前を、たかが下働きの小湯女が引き合いに出すだろうか。 疑わしげに片眉を寄せる蜥蜴男を前に、千尋も後には引けない。 「近寄らないで! これ以上何かしたら全部ハク様にいいつけてやる!」 唇を震わせて叫ぶ娘の言葉が、単なる虚勢なのか、それとも本気の脅しか。 男にはまだ判断がつきかねていた。 娘の態度の急変がどうも不自然で、納得できないのだ。 ここまではっきり言い切るからには何がしかの心当てがあってのことのようにも思えるが、頭から全て信用するのはどうか。 どこまでが本当でどこからが作り話か、じっくり見極める必要があると、男は思った。 「・・・・証拠あるのかよ?」 「え?・・しょ、証拠・・・?」 とたんうろたえた少女の隙を男はすかさず突く。 「ねぇんだろうが? 口からでまかせ言ってんだろうが? え?」 「そ、そんなことっ!」 声を荒げた男にずいっと詰め寄られ、千尋は夢中で叫んだ。 「こっちこないでってば!! ハ、ハク様っ、もうじきここに来るんだから!」 「・・・うん?」 「こ、今夜、約束してるのっ! こんなとこ見られたら、あなたなんか--------」 蜥蜴の瞳孔がすうっと細められ。 その口元に勝ち誇った笑いが浮かんだ。 「・・・・・・墓穴掘ったな」 「え・・・?」 「おまえの『ハク様』はな。今ごろ出張で遠くの町にいらっしゃるぜ」 「!!」 「約束だとぉ? よくもしゃあしゃあと」 しまった、と思った時には遅かった。 * * * * * *
「そんなぁ、女将(おかみ)さん、困ります、わたし、、、」 「何言ってんだよ、わがままな子だねぇ。身寄りのないあんたに今までさんざんいい仕事回してやったの誰だと思ってるのさ」 手洗いに立った戻りに廊下の隅のほうから聞こえてきた話し声に、ハクはふと足をとめた。 座敷隣にしつらえられた二畳ほどの控えの間から、それは聞こえる。 漏れ出てくるのは、先ほどまで傍らにいたキセキレイの娘と、料亭の女将である大ナメクジ、そして自分を接待しているイタチの声であった。 「な、頼む。この通りじゃ。花代はうんとはずんでやるで」 「で、でも、越中屋さま、わたし、ほんとにお座敷で歌うだけの約束で、・・・・」 「ハク様のどこがいやだっての。あんないい男っぷりで、しかも龍神さまだよ? あんたにはもったいないくらいの話じゃないのさ」 突然飛び出した自分の名にぎょっとして、ハクは思わず襖(ふすま)に手をかけた。 「失礼」 一応声をかけてから襖を開けると、その狭い控えの間には、大の大人二人に詰め寄られてべそをかいている小柄な少女が。 彼女は龍の若者の姿をみとめると、わっと飛び出して彼の足元に手をつき畳に額をすりつけて懇願した。 「お客様、後生でございます、堪忍してやってくださいまし。わたしのような未熟者、おしとねのお相手などつとまりません」 「・・・・・・・う、うん?」 「まあっ、この子ったら、なんて失礼を。ハク様、お気を悪くなさらないでくださいましねぇ、ちゃあんと言い聞かせますので、、」 あわてて場を取り繕うとする厚化粧の大ナメクジを前に、ハクはなんとなく事情を飲み込んだ。 おそらく、座敷でこの娘と自分との間で話が弾んでいたのを見て、イタチが気を回したのであろう。 だが、遊女でもない娘を金でどうこうというのは、あきらかにひとの道にはずれることだ。 湯屋油屋でも、客の寝間の相手をする者とそうでない者は明確に分けられている。 湯女たちは相応の報酬を保証されて、仕事内容を契約しているのだ。 もし小湯女が大湯女の客を横取りするようなことがあれば、それは契約違反として厳しく罰せられる。 たとえそれが本人の意思とは無関係な、強姦に近いものであったとしてもだ。 そのくらいのことは、客も常識としてわきまえているし、男を喜ばせるすべに精通した専門の女たちがずらりと揃っているというのに、わざわざそういう場所に遊びに来ていながら、しみったれた小娘に手を出すなど、無粋で悪趣味なことだと恥じるのが普通である。 が、中には酔狂な客もいて・・・・あえて小湯女のだれだれを伽(とぎ)に、と店に無理を言う者もいる。 たいていは帳場頭である自分が断りに出向くことになるのだが。 千尋など、人間という物珍しい存在であることも手伝って、よく名があがる。 不安げな瞳の少女に、心配しなくていいから、と何度言ってやったことか。 ―――――ここでは、そこまで規則が厳しくないのかもしれないが。 目の前にひれ伏して震えているセキレイの娘が、千尋に重なる。 罪のない娘を泣かせるようなことはしたくない。 が、無理をしてくれているのであろう取引相手の顔も立てねばならないし、とりあえず形だけ部屋に呼ぶことにしようか。 いや、客を取ったという『前例』を一度作ってしまえば、このセキレイの娘はなし崩し的に、これからも遊女としての仕事をさせられることになってしまうかもしれない。 少し考えて、ハクは言った。 「いや、申し訳ないが、実は今宵はこれで失敬しようと思っていたのだ」 「は? な、何かお気に障ることでも・・・っ?!」 「いや、とんでもない。料理も音曲も堪能させていただいた。湯屋で少々急用ができてしまったもので、中座お許し願いたい」 ちょうど湯屋の様子を見に戻ろうかどうしようかと、迷っていたところだ。 明日の時間繰りが少々苦しくなるが、まあいい、とハクは思った。 * * * * * *
夜更けの月空を泳ぐように渡りながら、白龍は、先刻店を出た時のことを思い出していた。 門の陰から頭を下げて見送ってくれたセキレイの娘の隣には、料亭の下働きとおぼしき若者がそっと付き添い、並んで深々と礼をした。 おそらく、たがいに言い交わした仲なのであろう。 寄り添う姿は微笑ましく、-------ハクは、あの者たちを悲しませるようなことをせずに済んでよかったと、ほっとしたと同時に、仲睦まじげな二人を羨ましくも思った。 薄くたなびく雲間に月がほんのり光る夜空を、しろがね色の龍体がしなやかに滑る。 すべてのものを煌々とした明るみに照らし出す太陽と比べ、月の光は微(よわ)い。 月光は夜色を映えさせるための光である。 たとえば一輪の花があるとして、花そのものに明るい光の力を与えることによって、その存在を知らしめるのが太陽。 逆に、花の背景となる闇色をより一層深めることによって、花の存在感を浮かび上がらせるのが月である。 どこまでも深い藍の空を背に、白銀の鱗きらめかせて渡る龍の姿は、月の精気をまとって舞う樂神のように優美だった。 だが、目的地である湯屋に近づくにつれ。
その美しい龍神の表情は次第に険しくなっていった。 |