鐘楼(しょうろう)流し (13) 










「『ハク様』とできてるだとぉ? 言うに事欠いて、よくもぬけぬけと」





無遠慮に間合いを詰めてくる半裸の蜥蜴(とかげ)男。
顔面を覆う婚姻色と呼ばれる痣(あざ)は、はだけた衣服からのぞく首元や脇腹にも赤々と広がっていた。


体表にべったり浮かび上がった赤黒い毛細血管状の網目模様が、青い月の光の中に脈打つ。












    ―――――ぜ、絶対に、泣かない・・・・っ!









それは、万策尽きた哀れな娘の、最後の意地だった。

ともすれば脳裏をよぎってしまうひとりの若者の姿。
それを懸命に打ち消し、千尋は歯を食いしばって目の前の男を睨みつけた。





蜥蜴男の口元にはもう、含み笑いすら浮かんでいない。

少女の反抗的な態度への苛立ちを隠そうともせず、みにくい欲望もあらわな赤痣にまみれた顔で、さらにずいと一歩詰め寄った。








と、そのとき。










その背後で、がちゃり、と扉の鍵を開ける音がした。







「・・・ひっ!?」




湯屋内でこの地下物置室の合鍵を持っている者は限られている。


蜥蜴(とかげ)は信じられないほどの俊敏さで、弾かれたように千尋から飛びのくと、室内に積み上げられていたがらくたの陰にざっとばかりに飛び込んだ。







    ―――――そんな、ま、ま、まさか?









扉が静かに押し開かれ、そこから室内にすうっと灯かりが広がる。


その明るみの中にくっきりと浮かび上がった人影が、すい、と部屋の中に足を踏み入れた。


逆光を背負っているためその表情は読み取れないが、すらりとした歩みには一分の隙もない。
無駄のない均整の取れた体躯をおおう白い衣が、足取りに沿ってゆったりと波打つ。



それが誰であるかは、火を見るよりも明らかだった。



息を殺して身を潜める蜥蜴の顔から体から一気に血の気が失せ、血糊色の痣(あざ)もみるみるうちに褪せてゆく。







が、その人物は蜥蜴男の前をあっさり素通りし、壁を背に立ち尽くす人間の少女にまっすぐ近づいたかと思うと、そのままいきなり彼女を袖の中に抱き取った。








    ―――――・・・っっ!?!






びくん、と体をこわばらせた娘の耳元に唇を寄せ、彼は甘く囁(ささや)く。




「セン。遅くなってすまなかったね。さぞ待ち焦がれていたであろう?」




そして、突然のことに混乱し身を固くしたままの少女の様子に構いもせず、その細い首筋に顔を埋めると、いかにも慣れているといわんばかりの手つきで、彼女のまとめ髪をするりと解いた。



ふさと肩に落ちた髪に、ためいきのような頬擦りを繰り返され、千尋はさすがに声を上げた。



「あ、あのっ、・・・・! ハク・・・さ・・」



が、男はそれを遮るかのように腕の中の娘に畳み掛ける。



「丸一日も離れていると、そなたの肌が恋しゅうてならぬ」

「えっ、あのっ、ま、待っ・・・」

「待てぬ」



熱を帯びた抱擁と吐息の中に、少女のか細い声はあえなく包み込まれ飲み込まれ、そしてかき消されてしまう。



普段その冷徹さで鳴らしている湯屋帳場頭の、とんでもなく意外な姿を目の当たりにした蜥蜴男は、当の人間の娘以上に驚き慌てふためいていた。


このまま隠れ通すか、あるいは、なんとか気付かれずに逃げ出す道はないか。

気ばかりが焦って考えがまとまらないまま、無意識のうちに後ずさったらしい。


背後に積み上げられていた不要物の山に後ろ手が触れ、派手な音をたててそれらが崩れ落ちた。






「誰だ」





刃物よりも冷たい声に射抜かれ、蜥蜴は腰を抜かす。




「あああのっ、これはまた、とんでもないところに出くわしましてっ、ええと、そのっ、自分、ちょっと板長の言いつけで、さ、探し物を、」



かくれどころを失い、湯女の古着だの、錆びた化粧道具だの、壊れかけた衣装箱だのの中に埋もれて尻餅をついたまま、脂汗たらたらに弁明する蜥蜴をじろりと流し見て、白衣の男は言った。



「・・・・オオト」

「は、はいっっ」

「邪魔だ」

「は?」



一瞬、ほうけたようにぽかんと口を開けた蜥蜴男は、次の瞬間、ばねのように飛び起きると、渡りに船とばかりに逃げ出した。



「あああはいっ、どどどっどうもとんだ失礼をっ!!!!」







横っ飛びに部屋を飛び出していった男。
そのあとに残されていたのは--------ぴくぴくとうごめく蜥蜴の尻尾。



ハクはつかつかとそれに近づき、その見苦しい残骸を無言で踏み潰した。
ぐじゃり、と嫌な音がして、それは跡形もなく消え去る。



そしてほっとひとつ息をついて振り返り、呆然と立ち尽くしたままの千尋に問いかける。



「だいじょうぶ?」



が、千尋は唇の色を失い、今にも泣き出しそうな怯え切った瞳で、声も出せずに震えている。




「・・・かわいそうに。恐ろしい目にあったね」




若い龍神は、ひなをかばう親鳥のようなしぐさで、哀れな少女の肩背に腕を回そうとしたが---------それは激しく拒絶された。




「・・・・え?」




千尋は彼の胸を両手で押し返し、獣に追い詰められた小動物のような目で彼を見据えている。


瞬間面食らうハク。
だが、彼ははっとしておのれの両手を少女の体から離した。



つい今しがた、自分自身が彼女にしていたことに、思い当たったのだ。
千尋にしてみれば、オオトも自分も同じ男、恐ろしさに変わりはなかったのかもしれない。




「あ、ああ、ごめん、怖がらせるつもりはなかったんだよ」




誓って下心はなかったが、少々度が過ぎたか。




「その、、、あれは、芝居を合わせただけで、、、決してどさくさにまぎれて悪さをしようとしたわけでは、、、、」









そう。芝居だ。









彼は自分の言葉を反芻した。




『芝居』だからこそ、あの程度で踏みとどまったのだ。
もしも、自分と千尋が本当に想いを交わした仲であるのなら、部下であろうがなんだろうが、あの蜥蜴を許しはしない。

有無を言わさずその場で食い殺し、骨と臓腑の見分けもつかぬまでに粉々に砕き噛み裂き、永遠に解けぬ呪いとともに地獄へと続く血の沼へと引きずり落とすであろう。





片恋の立場はわきまえている。
私情に溺れず、あの場で自分にできる最善のことをしたつもりだった。






「悪かった。そなたを助けたい一心で、本当に他意はなかったんだよ。・・・・頼むから、機嫌を直しておくれ」




言葉を尽くし、心をこめて懸命に謝るのだが、千尋はかたくなな態度を崩そうとしない。
その目はじわじわと涙でいっぱいになり、涙ごと瞳がこぼれ落ちてしまうのではないかと思われるほどになっても、ぐっと唇を引き結んだまま、何も言わない。








「その・・・・そんなに嫌だった?」


    ―――――この手に触れられることが。








龍の若者は少なからず傷ついた。






「・・・・・誰か女を呼んでこよう。リンならいいかな」






うつむいて背を向けた若者に、いまにも消え入りそうな少女の声がかけられた。





「ち・・・ちが・・ちがうの・・・・あの・・・・」





振り向くと、千尋は震える唇に懸命に言葉を載せようとしていた。




「ハク・・・・いつから・・・たの?」

「うん?」




よく聞き取れない。
ハクは遠慮がちに千尋の顔を覗きこんだ。





「・・・・・いつから、・・・・聞いてたの・・・?」

「え? ああ、----」





その質問に正直に答えていいものか、ハクは一瞬迷った。
が、とりあえずありのままを言ってみる。




「その・・・そなたが、私の『女』だと、・・・」

「!」










聞かれてた!














♪この壁紙はさまよりいただきました。♪