鐘楼(しょうろう)流し (14) 










一番聞かれたくなかった言葉を。



一番聞かれたくなかったひとに。








聞かれてしまった!










それまでどんなにいやらしく蜥蜴に脅されようと、決して泣き顔を見せなかった千尋の両のまなこから。

ぽろぽろぽろぽろと涙があふれ出た。







「ご・・・ごめ・・・・ごめんなさい・・・・」

「え?」

「ほんとに、ごめんなさ・・・わたし・・・・」

「千尋? どうしたの?」





床に膝をついたなり泣きだしてしまった人間の娘を前に、若い龍神は心底狼狽した。
こちらから詫びなければならないことこそあれ、泣いて謝られるような心当たりはない。

とにかく落ち着かせてやりたいが、どう言葉をかけてよいかわからない。
うかつに触れてまたよけいに怯えさせでもしたらと思うと、背をさすってやることすらためらわれ、彼は途方に暮れた。





「わ、わたし・・・」

「うん」

「わたし、恥ずかしい」



千尋の言葉の意味をはかりかね、ハクは首をかしげる。
恥ずかしい、というのは、意に沿わぬ男に汚されそうになったことを言っているのか。



「恥じることなど・・・・そなたは被害者だし、その・・・未遂だったわけだから」



千尋は、大きくかぶりを振った。
そして、泣きじゃくる息の下から、切れ切れに言葉を紡ぐ。



「ちがうの、わたし、・・・勝手に、」

「勝手に?」

「勝手に、ハクの名前、使った」

「・・・・・」

「ごめんなさい・・・あんな、あつかましいこと、言って、・・・」




言うなり、また千尋の言葉は嗚咽にかき消されてしまう。


しばらく考えてから、ハクは彼女の言葉の意味を確認した。




「--------私と特別な仲だと、オオトに言ったこと?」




千尋は肩を震わせて頷いた。






ああ、そのことを気に病んで泣いていたのかと。
ハクはようやっと納得し・・・そして、少し安心した。




「そんなこと、気にしなくていいのに」

「・・・・・」

「言い寄られて困っていたのだろう?」






あの場に駆けつける道中、龍の鋭い五感は湯屋が肉眼で見えるか見えないかあたりの距離で、千尋の気配をすでに捉えていた。

彼女が男とこの密室に二人きりでいることも察知した。

最初実は・・・・自分の留守に、千尋が男と夜更けに人目を避けてこのような場所にいる、という『事実』に激しく動揺した。


今まで決して千尋が自分になびかなかったのは、ひそかにこういう相手がいたからかと。

親のことを考えると、帳場頭である自分を露骨に拒むこともできなければ、想う男がいると告げることもできなかったのかと。



世界のすべての重量が自分の頭上に崩れ落ちてくるかのような衝撃に、身を焼かれる思いでいた時に、例の千尋の叫びが聞こえたのだ。

もしあの時、彼女が自分という存在に救いを求めなかったら、自分はあの場を後にして引き返していただろう。






「で、、、、でも、、、、ハクは、わたしなんかとはなんでもないのに、・・・」



優しい龍の若者の立場があの蜥蜴(とかげ)より上であることを利用して、我が身可愛さにあのようなはすっぱな言葉を口にしたことが心底恥ずかしく、千尋はまだ顔を上げられなかった。





そんな少女を、ハクは思いを込めた言葉で包みこむ。



「構わないよ。そなたは女なのだから、身を守るために時には方便も必要だろう?」

「・・・・・」

「そなたの盾になれるのなら、私は嬉しい」

「―――――!」





彼の無償の愛情が。
千尋には身を切るほどに辛かった。

自分はそれを受け入れないだけでなく、その純粋な気持ちを踏みにじるような行為をしているというのに。

それを責めも罵りもせず、澄んだ微笑を浮かべている美しい青年を、千尋は正視できなかった。





「でも・・・でも、わたし、いつも、ハクによくしてもらってばっかりで、何も・・・」

「うん?」

「何もお礼ができない・・・」




おたがいさま、とか、ギブ・アンド・テイク、という言葉が、人間たちの世界にはある。

迷惑をかけたり、世話になったりということがあった時、それを引け目に感じる必要がないよう使われるものだ。

だが、ハクと自分との間にはそれすら成り立たない。
一方的に厚意を与えられるばかりで、それに何一つ報いることができないというのがどれほど心苦しいか。





「礼など求めてはいないよ?」









わかってる。

だから、苦しいのに。









いっそ、あの蜥蜴(とかげ)のように、はっきり見返りを要求される方がまだ楽かもしれないと、千尋はまたぽろりと涙ぐんだ。





「私のことなら気にしなくていいから、もう泣かないで」

「・・・・」

「むしろ、役得だったよ。よい思いをさせてもらった」



わざと明るい調子で言葉にされた、本音とも冗談ともつかない青年の声に、千尋が驚いて顔を上げると、彼はこう続けた。



「ああ、でも、この際だから、ひとつだけ頼みを聞いてもらおうかな」

「・・・・?」

「絶対に嫌だと言わないと、約束してくれる?」



千尋は、一も二もなく頷く。



「じゃあ、目を閉じて」



おとなしく青年の言うことに従った人間の少女。

その両手がそっと彼に引き寄せられ、そこに、何か柔らかなものが落とされた。



「?」

「いいよ。見てごらん」



言われて千尋がまぶたを開けると。



「あの、ハク・・・・これ・・・?」



彼女の手の中には、紺地に灰青の小花を散らした江戸小紋の小裂れ(こぎれ)を、愛らしいうさぎの形に結んだ包みが乗せられていた。




「町の土産だよ。開けてごらん」

「そんな、この上贈り物なんてもらえな------」



戸惑い顔で首を振る少女の言葉を、龍神は笑顔で軽く遮った。



「嫌と言わない約束だったろう?」

「で、でも、」

「受け取ってくれるね?」



それでもまだもじもじと眉を寄せている千尋の手の中の包みを。
ハクはゆっくりと解いてやる。


「わあっ!可愛・・」


うさぎ包みの小裂れの中から現れた豆科の花の髪飾りを見て、千尋は思わず声を上げかけ、-------あわてて自分の口を押さえる。


ハクは目を細めた。
一瞬ではあったが、美しいものに喜ぶ娘らしい反応を見ることができて、嬉しかった。



彼は室内のがらくたの中から手鏡を一つ探し出し、それを千尋に握らせる。そして。




「髪に触っても構わないかな?」

「え?」

「せっかくだから、そなたの髪に飾ってみたい」




律儀(りちぎ)に許可を求めるところが彼らしいといえば彼らしい。

千尋が小さく頷くのを待ってから、ハクは先ほど自分が解いてしまった彼女の髪を手櫛で梳いて軽くまとめ、耳元にその小さな髪飾りを挿してやった。



紅のひとつも差していなかった化粧気のない娘の顔は、つややかな七宝焼きの花飾りひとつで、さっと華やぐ。
茶色のかった柔らかな髪に、淡い花色はほどよくなじんだ。



「うん。よく似合う」



鏡の中で頬を染めた少女のかんばせのかぐわしさに、青年は満足する。
そして、彼女をうながして立ち上がった。



「部屋まで送ろう。私はそろそろ行かなくては」

「え? もう?」

「うん。明日、また取り引き先との会合があるから」



それを聞いて、千尋ははっとする。
そう、彼は仕事での遠出先から戻ってきてくれたのだ。

たしか、二、三日は戻らないと言って出かけたはず。



「ハク・・あの・・・もしかして、お仕事の途中なのに、わざわざわたしのために帰ってきてくれたの?」



またもや申し訳なさげに眉を寄せた人間の少女に、ハクは笑みを返す。




「そういうわけではないよ。実を言うと出先で少々困ったことになりかけたから、退散を決め込んだだけでね」

「・・・・」

「嘘じゃないよ」




何も言葉を返せないまま女部屋の前まで付き添われ、そして空に飛び立つ彼を見送ってから、千尋は愕然とした。






    ―――――やだ! わたしったら・・・『ありがとう』も言ってない!







まだ彼に、髪飾りの礼はおろか、助けてもらったことの礼さえ言っていない。




あわてて窓から身を乗り出したが、すでに白い龍の姿は視界から消えていた。


千尋は自己嫌悪に打ち沈んでその場に座り込む。








    ―――――わたし・・・ほんとになんて子だろう。









やるせない思いをほぐせぬまま耳元の髪飾りにそっと指先を添えると、とくん、とかすかなときめきが胸をかすめる。



千尋はそんな自分を許せなかった。








やがて月は地平低く垂れ込めた薄霞の中に落ちて溶け。
深藍の空はしのしのとうすあけ色にほのめきながら、朝を呼ぶ。










龍の青年の贈り物は、仕事場で身につけていても見咎められるような華美なものでは決してなかったが。










それを髪に飾る千尋の姿が湯屋で見られることは、以来、一度もなかった。













♪この壁紙はさまよりいただきました。♪